第2話 〈4〉

第2話


〈4〉


 カコン、カコン、と規則的に反響する足音はボクのものではないし、ここの――ヘレブ社のスタッフの音でもない。

 ボクらのスニーカーはこの円筒形の施設に馴染んでいて、こんなに下品な声で鳴いたりはしない。

 どうして研究施設の見学を希望する人間はうるさい奴ばかりなんだろう、とため息をつく。もっとも、今日の奴は静かなほうだ。この間の老夫婦はひどかった。

 細いキャットウォークを塞いでいるポリバケツを跨ぎ越しながら、壁にならんだタンクから這い寄るざわめきを聞き流す。

 どうせ、暇つぶしの噂話だ。儀大人が女性研究員の尻を触って平手を食らったとか、実験が失敗して第二研究棟の壁が吹き飛んだとかっていう、どこから仕入れてくるんだと感心するくらいの機密事項から、ボクと朝月が恋人だっていう、どこをどうしたらそうなるんだっていうゴシップまで、暇な『彼ら』はタンクを行き交う薬液を通しての情報交換に余念がない。

 どうせ、そこから出たらなにも覚えていないくせに。

「これは、再生するの?」

 女の肉声に、足を止めた。彼らの声を遮断することに集中していたから、顔だけで振り返って「失礼、なんですか?」と営業用の言葉遣いで訊き返す。

「これよ、この腕、再生するの?」

 女は仮面みたいな顔の中で唇だけを動かした。剥き出しになった骨かと思うほど白くて細い指で壁を示す。正しくは壁に並んだタンクの中の男を。

 円柱形のガラスの湾曲越しに、タンクに浮かぶ男がボクらを見下ろす。床の上で潰れた卵みたいに半分溶けた目玉が動いた気がした。

 どこかの鉱山から連れてこられた奴で、最初から右腕がなかった。白くふやけた肉と神経がふわふわと幸せそうに泳いでいる。

 先日見学に来た老夫婦は彼を見て、おばあさんは泣きだすし、おじいさんは「なんてひどいことをするんだ」と怒りだすしで散々だった。ボクがどれだけこの薬液の重要性を説明したって全然耳を貸してくれなくて、挙句にキャットウォークから突き落とされかけたんだ。朝月が割って入ってくれなければ、今日の案内役はボクじゃなかったかもしれない。

 再びバケツを跨ぎ越して女の隣に戻る。

「適応すれば、しますよ」

「どれくらい?」

「一回で適応すれば前金の二倍です。二回目ならまた同額を払っていただいて……肉体とお金があるかぎり何度でも」

「いいえ」女は長い黒髪を振って遮る。「時間のことよ」

「ああ」と頷く隙に必死に記憶の底とか隅とかを探る。

 ここに来る見学者はみんなお金と成功率の話しかしなかったから、その情報が必要になるとは予想していなかった。

「個体差があるので、お答えしかねます。同じように体の半分が吹き飛んでいても一日で再生して目覚める個体もあれば、半年経っても内臓修復がせいぜいって奴もいます。素体と稀石との相性次第ですね」

「あなたは、どれくらいかかったの?」

「さあ?」ボクは笑う。「死んでいる間のことは覚えていないんで」

「そう」

 女はつまらなそうに頷いた。ボクの返事を面白くない冗談だと思ったのかもしれない。カ、コ、と催眠術みたいな足取りで、女はポリバケツを避けて歩きだす。

 物凄く邪魔な場所にいるこのバケツは、壁に並ぶ『彼ら』の外見や甘ったるい薬液の臭いにやられた見学者のために置かれている。でも、今日は出番がないようだ。

 ため息を噛み殺す。

 儀大人に言われた通り礼儀正しく案内役をこなしているつもりなのに、この女はなにが不満なんだろう? 今日の見学者は、受付に座っているアンドロイドよりも冷たい。もっとも、あれをアンドロイドと呼んでいるのは儀大人くらいで、社員のほとんどは四角い頭と金属骨格を剥き出しにしたそれをロボットと身も蓋もなく呼んでいる。

「適応率はどれくらい?」

「商品化されている分だけなら六十三パーセントです。といっても、一回目で適応するのはその半分くらいですが」

「商品化にこぎつけるまで、どれくらい不適応があったのかしら?」

「さあ?」そんな情報を聞きたがる奴なんて初めてだから戸惑う。「でもまあ、それなりの数が失敗作として破棄されていると思います」

「つまり、あなたはパーフェクト・サヴァイバーとでもいうのかしら」

 ボクたちを『サヴァイバー』と呼ぶのは変な気がしたので、ボクはただ黙っていた。

 女は返事がないことを初めから知っていたみたいに淡い照明で揺れる薬液の影に話しかける。

「ここにあるのは全部商品なの?」

「まさか。ボクと同じ実験用です。商品は第三研究棟でもっと丁寧に管理されています」

「ストックにしてはずいぶん多いのね」

「よりよい製品造りのために研究は怠りません。常に三百体の……今は計測に出ているものもあるから――」

「二百九十二」

 唐突に、男の声が降ってきた。正確な数だ。呼応して壁を埋めるタンクがウォンと鳴く。薬液に浸る『彼ら』が安堵の息をついたのだろう。

声の方向を見上げると、重たい機材の間に張り巡らされたキャットウォークから白衣の裾がこぼれていた。

「彼は?」

「朝月。ヘカトンケイレス、二番機ギュゲスの技術者です」

「ヘカトン、なに?」

「ヘカトンケイレス。この」ボクらを見下ろすタンクがざわつく。「機械の名前です。五十の頭と百の腕をもった巨人の三兄弟という名前通り、最大三百人の体調を管理しています。一番機からアーガイオン、ギュゲス、コットスと各百体を――」

「体調?」女は短く息を吐いた。失笑したのかもしれない。「ただの死体でしょう」

 ボクは反論せず、肩を竦める。

 きっと夜中にたった一人でここを歩かせれば、また違った意見を聞けるだろう。

 女の肩越しに、皮膚組織が崩壊しかけた男が睨んでいる。彼自身の細胞で白く濁った薬液は窒息しそうで、あまり見ていたいものじゃない。

 視線を泳がせたら、ちょうど機械の影から立ち上がる朝月と眼が合った。

 資料なんか持ち歩かない彼は、ポケットに手を入れたまま首だけをがっくりと折って頷いた。それきり動いているボクらには興味を失ったみたいに、雨雲色の機材の間に消えていく。

 目礼したつもりなのかもしれない。見学者に挨拶するときはせめてポケットから手を出せばいいのに、と思ってから別の可能性を思いついた。

「若いわね」

「は?」

「彼よ」女は複雑に絡み合った配管を見上げている。朝月の幻影を見ていたのかもしれない。「いくつなの?」

「さあ? 十八……九かも」

「まだ学生じゃない」

「そうなんですか? ボクには年齢という概念がないので、わかりかねます。本人に訊いてください。呼びましょうか?」

 機械の唸りどころかタンクの中で生まれる窒素の声まで重奏にも響く施設の中じゃ、どこにいたってボクらの会話は聞こえているはずだ。それなのに、朝月は完全に存在感を消していた。かかわりたくない、という意思表示だろう。

 いや、単に怒っているだけかもしれない。昨日、ボクがあんなことを言ったから。

 女は機材のさらに上に視線を向けた。恐ろしく澄んだ青空が見える。

 でも、それが空なんかじゃないことはボクも朝月も、きっとこの女だって知っている。

 そしてボクは、空がどんなものか覚えていない。

 天井に張りついたネコ眼形の青は、タンクの中に命をつなぎとめている動力だ。とても大きくて艶やかで価値のある、冷たい石。

 朝月たちは奇蹟とかけて『稀石』と呼んでいる。

「あなたは」と女に呼ばれて、ボクの意識は石の空から暗いキャットウォークへと落ちてくる。

「ここに来る前はなにをしていたの? 彼くらいの年齢に見えるけど学生だったのかしら」

「ここに来る前、ですか」思わず苦笑する。「学生ではないと思いますが……死ぬ前の記憶もないので断言はできません」

「記憶が残っている個体もあるの?」

「……多少は」

「どれくらい?」

 やけに真剣な女の眼が、少し怖かった。はっきりと言葉にはできないけれど、なにかがおかしいと感ずる。

「三人、かな」

「四十二分の三なら、それほど高い確率ではないわね」

 どきり、とした。

 どうして実験成功個体数と商品数を合わせた人数を把握しているんだ。どこにも公開していないはずだ。それとも、ボクが見落とした広報物があったんだろうか。

 スニーカーの踵でキャットウォークを擦って半歩下がる。

 タンクの中で漂っている『彼ら』が口々になにかを喚いていた。全ての言葉が重なって耳鳴りのように脳膜をざわつかせる。

「それは……あなたの生き返らせたい人が、あなたを覚えている可能性についての質問ですか? たとえば、記憶が残っていなかったら不良品として支払いを拒否できるかという」

「いいえ、そんなことは、どうでもいいの」

 女が笑う。柔らかい声と機械仕掛けの人形みたいに歪む唇が、まさに受付のロボットのようだ。

 目を逸らさないまま、逸らせないまま、朝月を探す。どこかにいるはずだ、どこかで同じことを思っているはずだ。でも、彼の所在がつかめない。

「あなたは……なに?」

「お客よ」唇の動きと音がズレて聞こえる。「誰を覚えているかなんて、どうでもいいわ。ただ動いてくれればいいの」

「……不適応で生き返らなくても、前金はお返しできませんよ」

「ああ、お金」はは、と女は声を上げた。「どうでもいいわ」

 狂気だ、とボクは違和感を拭い去るに足る理由を見つけた。

 たまにいるんだ。大切すぎる人を失って正気じゃないのに正気のフリをしている奴が。この女も、きっとそうだ。だからこんなにも気味が悪いんだ。

 女の視線がボクを素通りしてタンクを見まわした。両手を広げて甲高い靴音を子供の嬌声のように響かせながら、キャットウォークの上でくるりと一回転する。スカートがかすかに風を孕んで膨らんだ。

「生き返ったら、死ぬ前に負った傷も生き返ってから負った怪我も治るのよね。あなたの再生力は、どのくらいかしら?」

 眼がぬるりと光る。ときどき排気坑から顔を出すヘビみたいに瞬き一つしない。ヘビには瞼がないから仕方がないけど、この女は違う、はずだ。

「どのくらいって、どういう意味?」

「死なないのは、どんな気分なの?」

「別に死なないわけじゃ」

「もう死んでいるものね」

 冷たい誰かの吐息が首元を掠めたように呼吸が詰まった。ボクの五感が急に緩慢になる。

 朝月はどこだっけ?

 女の手が上着の中に滑り込んで、鮮やかな血色に染まった唇が細切れに動いて。

「実験してみようかしら」

 ドッと腹を殴られて足がふらついた。女とは思えない力に吐き気が込み上げる。ポリバケツが見えた。ボクが使うことなんて想像すらしていなかった。手を伸ばしたけど、届かない。喉からせり上がったものを、ぶちまける。

「ケイっ!」

 どこからか朝月の声がした。

「遅いよ」と言ったつもりなのに、また腹の底で脈打った胃に合わせて吐く。

 どうして赤いんだろう?

 女の唇の色に染まった床がてらてらと光って、ヘビの腹みたいだ。キャットウォークの表面を引っ掻くボクの指が場違いにくすんだ白をしている。

 タンクの中からボクらを見守る『彼ら』が無邪気にはしゃいでいた。天井に張りつけられた青く美しい空色の石が震わせる空気のうねりかもしれない。

「ケイ!」

 また朝月の声。

 顔を上げる。女の黒いパンプスが、ごろっとした膝の骨とタイトスカートに包まれた腹が、そして気だるげに煙を吐く小さな銃が、見えた。キャットウォークの下に広がる奈落とお揃いの闇を内包した銃口が、宙を滑る。ボクの顎を突いて、額に止まって、思い出したように通り過ぎた。

 上……、朝月!

 キャットウォークの頼りない手すりから身を乗り出す彼がいた。あんなに焦った顔は、初めて見る。ボクが制御室で紅茶をぶちまけてしまったときだって、彼の研究資料や絵本を汚してしまったときだって、あんな顔はしなかった。

 ごふ、と喉を叩かれるような衝撃とともに赤黒い塊を吐きだす。

 手足の感覚が消えていくのがわかった。儀大人の実験に似ている。このまま眠ってしまえばいい。

 けれど今はダメだ。萎んでいく視界の端に制御室の窓ガラスが瞬いた。

 そういえばあの絵本、とこんなときなのにボクはぼんやりと考える。

 あの絵本の主人公はなんて名前だっけ? 朝月がボクにくれた、あの絵本だ。ふてくされた顔で海賊帽をかぶる黒ネコの名前が思い出せない。

 朝月がなにかを叫んでいる。ネコの名前だろうか?

 女の銃が朝月を捉える。それなのに彼は逃げようともせず、まだ手すりから身体を出している。

 ダメだ、と思う。朝月は、ダメだ。

 女がボクを見て、僅かに目を見開いた。驚いたのかもしれない。でも、すぐに口を横に広げて、たぶん笑った。

 ボクの手が伸びて、女の表情が凍って、朝月の気配が鼓膜の中で震えて。やっぱり黒ネコの名前が思い出せない。何十回も読んだ本なのに。朝月がボクのために常に制御室に置いてくれていたのに。朝月からの初めての贈り物なのに。

 ボクは女を抱き締める。眠りに落ちる最後の一秒で両脚に力を込めて、女ごとキャットウォークの手すりを越える。あとはもう、落ちるだけだ。この女は二度と朝月に銃を向けられない。

 奈落に響いた金切り声は、きっと黒ネコの抗議の叫びだろう。

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