〈3〉
〈3〉
路地裏はひっそりと息を殺していた。下水道の鉄蓋を背中で押し上げて這い出す。
右腕は肘といわず肩から動かないし、左腕にはシーツの包みを抱えているからハシゴ一本を昇るのにひどく時間がかかった。
もっとも、そのおかげで教会を仰ぐ表通りを徘徊する警羅部隊を警戒する時間を得られたと思えば、エンヴィーや首を絞めてきた相手への恨みは下水の渦に捨ててやってもいい。
ヒート・ミールは、こんな時間だから当然といえなくもないけれど、夕方の騒ぎを考えると奇妙なくらい静かに沈んでいた。
注意深く周辺に潜む生物を確かめながら勝手口ににじり寄る。外灯に舞う羽虫とそれを狙う蜘蛛たち、我が物顔で町を駆け回るネズミとネコ。
どうして軍用探知犬が一匹もいないんだ? と訝しむ。探知犬はエンヴィーの他にもたくさん、ボクが知る限りあと三匹はいる。
腕を掴まれた。驚いて振り返る、より早く口を塞がれた。ぎょっとしたけれど、温かい掌から香った甘苦い汗の匂いに相手を悟る。どうして下水道を最短ルートで進んだボクに追いつけるんだろう。
「よせ」乱れた朝月の呼吸がボクを留める。「中で軍が張ってる」
「そんなこと」同じように夜風の声量で返す。「どうでもいいよ。放して。約束があるんだ」
「連れの女の子なら軍が連れてった」
振り返る。悪い冗談かと思ったのに、朝月は夜を背負って恐ろしいほど静かに佇んでいた。
ボクを拘束していた腕をゆっくりと解きながら、彼は自然な動きでボクの動かない右手を握った。
痛みはない。僅かに汗ばんだ彼の熱が指先から脊髄にしみ込んで、修復しきれない傷にのたうつ石の心臓を宥めてくれる。ヘレブ社にいたころもこうだった。儀大人の実験で疲弊したボクが制御室に逃げ込むと、彼はいつもこの熱をくれた。
コーヒーと薬液の匂い、ヘカトンケイレスの呼吸に合わせて明滅する青い光、そして朝月が淹れてくれる紅茶の熱が漂う制御室を想う。
深く息を吐いて、幸せな夢を追い出した。疲労と愚かな夢に浸っていた頭が冷えていく。
「ホタルがいないって、本当なの?」
「教会の三輪トラックに乗せられるところをヒナコが確認してる」
「どうして……」
「お前といたんだ、稀人に誘拐されていたかわいそうな子供の保護とでも言えば誰も止めない」
その言葉に底に含まれる意味に気付かないほどバカじゃない。けれど、ボクが踵を返す前に朝月の強い力がボクの足を縫い止めた。
「落ちつけ。今のお前じゃ、あの子に辿り着く前に捉えられるのがオチだ。それに、この時間に審問官は来ない」
「審問官は来る、彼らはボクらの心臓が欲しくて仕方ないんだ。そんなこと、君だって知っているくせに」
「なら、なおさら行かせるか。審問官がゾロゾロ引き連れてくる取り巻き兵と軍の警備隊を一人でどうこうできると思ってるのか」
思っていない。朝月の言うことは正しい。正論過ぎて喉の奥が痛くなる。でも、ボクにだって譲れないことがあるんだ。
「ホタルは心臓が悪いんだ。尋問なんかされたらもたない!」
「お前が行ったって助けられない」
「なら君が助けてよ!」思わず声が高くなった。朝月がひるんだ隙をついて腕を取り戻す。「ホタルはボクとは違う! 一度死んだらそれっきりだ。あの小さな身体が止まったら、もう動かない。あの子は死ぬんだよ、ボクとは違って死ぬんだ。どうして助けちゃいけないの!」
「助けに行くなと言ってるわけじゃない。独りで」
「ああ、そうか」彼の言葉を遮って、ボクは唇を歪めた。「『解放の子供たち』は人間の子供なんか助けないんだった」
朝月が薄く唇を開き、けれど細く呼吸を逃がしただけで再び噛みしめた。
その瞬間、夜が裂けた。
眩んだ視界の中で、朝月の腕が素早く上がるのを見た。轟音と閃光がその指先で弾け、ボクの背後からいくつもの悲鳴と怒声が上がる。
光が満ちたヒート・ミールの裏口で、軍人たちが銃を構えていた。マズい、と思うと同時に、また朝月が轟音を放つ。
強引に腕を引かれて、危うくシーツの包みを落とすところだった。ワークブーツが夜露に滑って転びそうになったけれど、朝月の力がそれを許さなかった。
背後から銃声が追ってくる。その中にキヨカさんの悲鳴とアツシさんの罵倒が聞こえたように思ったけれど、甘ったれなボクの幻聴だったのかもしれない。
散弾の欠片が建物の壁に跳ね返った。弾道が薄っぺらい月の鋭さで、ホタルを巻き込んだ上にシュンとの約束を反故にしようとしているボクを、人間のくせに稀人の手を引く朝月を、責めている。
ぞっとした。
「朝月、放して。君が逃げる必要なんかない」
「黙れ」
静かなのに銃声に消されることのない強い声が、朝月の鋭角な肩口から舞い落ちた。いつのまにか、彼の手には大きな拳銃が握られている。軍人たちがボクに向けるそれを、彼は軍人たち――柔らかい肉の心臓を持った人間に向けていた。
角を曲がる一歩を振り向きざまに、朝月は躊躇なく引き金を引く。少なくとも、僕には彼の迷いが見えなかった。
朝月に手を引かれるまま、いくつもの角を曲がって寝静まった町を走る。
もう、膝から先の感覚がなかった。ただ機械的に、本能に従って、足が前に出る。激しく脈を打っているはずの心臓が穏やかに温んでいくのがわかる。もう身体を動かすエネルギーが尽きかけているんだ。
緩やかに死の沼へ踏み入っているような錯覚を抱く。
なら、ボクの手を引いている朝月も、死に向かって走っているんだろうか? それがバカな妄想だと頭では理解していたのに、正直なボクの身体が怯えた。足が凍りつく。
「ケイ?」と朝月が振り返ったときには、もうボクらの手は離れていた。
手近な路地に飛び込む。行き止まり。行く手を塞ぐ建物の側面にへばり付いている外階段を駆け上がる。膝が笑って数段踏み外したけれど、決して振り返らなかった。
ダメだ。ダメだ、ダメだ、ダメだ。
呪うように自分に言い聞かせる。朝月をボクの側に来させてはダメだ。柔らかな鼓動や温かな脈動を、彼の人間としての生を奪うなんて、絶対にダメだ。朝月と過ごした優しい時間の終わりの日を思い出す。あの瞬間の、石の心臓すら凍りつくような恐怖を二度と味わいたくなかった。
「ケイ!」
「来ないで!」
怒鳴り返した途端、喉の粘膜が焼けつくような刺激に咳込む。それでも最後の一階分を一段飛ばしで駆け上がり、次に飛び移るべき屋上を探す。どの方向からも荒々しい軍人たちの気配が立ち昇っている。迷っている時間はない。
高さと距離だけを目測して屋上の縁を蹴った。隣の建物の外階段の手すりをつかんで、大きく体を振って飛び込んだ。
「くそっ、マジか」
慌てたような朝月の声を捨て去って、ボクは階段を駆け上がる。
軍用ブーツの甲高い金属音がボクの逃亡を邪魔しようとしていた。
宙に浮かぶ洗濯ロープのしなりを踏んで、また飛ぶ。高さが足りない。カビ色のヒビが縦横に走る壁に飛び出た配管を蹴りつけて、体一つ分の落差を押し上げる。辛うじて靴先が屋上の端を捉えた、けれど膝が崩れた。
危うく背中から宙に投げ出されそうになったとき、熱い腕に背中を支えられて屋上に押し込まれる。取り落とした絵本の欠片が滑っていく。
「痛ってぇ」と忌々し気に舌打ちをした朝月が、ボクを抱いて転がっていた。
息が切れて「どうして」と問う声すら出なかった。あんなに無茶な逃走経路を追いかけて来た朝月には、本当に驚かされる。彼と競ったことなんてなかったけれど、漠然とボクの身体能力は彼よりも高いと自負していた。
このまま朝月が起き上る前に逃げるべきだと頭ではわかっているのに、彼の腕を振り解くことができない。
その躊躇ごと、捕えられた。
あまりの力強さに思わず呼吸が詰まる。眠りを欲していた心臓が束の間、逆上せる。
袖口から入ってきた彼の冷たい指が皮膚を這って、肘の内側を探る。
見たこともない朝月の顔があった。触れただけで皮膚が焼け爛れそうな感情を刻んで、彼がボクを睨み下ろしている。逃げ場がないくらいに、近い。
「腕、熱い」
「運動量に合った体温上昇だよ」
「筋肉量に合わない運動で、筋肉が傷付いてるんだ」
「稀人の自覚ってやつだよ」細く尖った朝月の瞳から逃げる。「体の使い方を覚えたんだ」
肘の内側を彷徨っていた朝月の指が、手首へと滑り落ちていく。けれど、彼はボクを捕らえたままだ。
「俺から、逃げるな」
「放して」
「ふざけるな」
「ふざけているのは君だよ」ボクは目を伏せる。「これは稀人と人間との争いだ。君とボクは対極にいるんだよ、朝月。君はボクを殺しに来たんだろ? そのための『解放の子供たち』だ」
「違う」
「どこが」
「俺は善人じゃない」
違うの、と詰るボクを遮って朝月が短く息を漏らした。唇が皮肉に歪んでいたから自嘲したのかもしれない。
「俺が『解放の子供たち』にいるのは、便利だからだ。一般人が得られる稀人の情報なんざ限られてる。『解放の子供たち』がどんな行動をとろうと、俺の利にそぐわなけりゃ無視する。俺はお前を探してた。稀人の殲滅なんてどうでもいい。やりたい奴が勝手にやってればいい」
なにを言っていいのかわからず、俯いて唇を噛んだ。けれど表情筋の抉れたボクの顔は巧く動かず、舌先が唇の裏に触れただけだった。ワークブーツは居心地が悪そうに、もぞもぞと黒の濃淡をかき混ぜる。だって、ボクの知る朝月はこんなに冷淡な声を出さなかった。「どうでもいい」と口にしたことはあっても、それは拗ねたようにも照れたようにも聞こえる揺らぎを内包していた。
けれど今の彼は違う。誰の命が尽きようとも興味がないと言い切る彼は、冬の夜明けのように冷徹で残酷で、強かった。
「お前は」朝月がゆっくりと体を起こす。「俺をどうしたい」
どうしたい? ボクは痺れる体を叱咤して立ち上がる。どうしたいんだろう? わからない。彼に望むことは一つだけだ。けれど、それを正しく伝える言葉がわからない。
黙ったボクをどう思ったのか、朝月は掠れた声で「ケイ」とボクを呼ぶ。立ち並ぶ建物の屋上に視線を流した彼は、二呼吸の迷いを見せてから静かに口を開く。
「俺を憎んでるのか?」
「憎む?」
「あのとき、お前を連れ出せなかった俺を、恨んでるか? ヘレブで、お前を実験体として扱ってた俺を怨んでるのか? 実験への協力を拒まなかったことを」
「どれも」ボクは朝月の悔恨を遮る。「どれも、違う。怨んでなんかない」
でも、じゃあ朝月をどうしたいのかと問われるとわからない。今さらだけど、彼との関係を、ボクは明確に理解しているわけじゃないんだ。
あのころに――酸素の少ない金魚鉢の中をぐるぐると回り続けるようなヘレブでの日々に戻りたいわけじゃない。けれど、狭い金魚鉢にぷかりと浮いた水草のようにボクの呼吸を助けてくれた朝月の存在を、彼の在り方を諦めきれないのも事実だ。
「ボクは……」
救いを求めて吸い込んだ夜の匂いの中に、ふっと異臭が紛れ込んだ。立ち上がって、夜の底に沈む町並みを見下ろす。夜明けへの期待で淡い紫電に揺らめく空の終わりから、白い糸のような線路を辿って列車が姿を現すところだった。
一つきりの月に手を伸ばす歪な地平線から、列車は物凄いスピードで駆けて来る。まるで、この町に稀人が潜んでいると、あの筺体自体が理解しているようだ。
だから町に探知犬がいなかったのか、と納得する。
鼻先の空気が渦を巻いた気がした。と思ったときには吹き飛ぶように湿った風が鼓膜を叩く。怯える夜を巻き込んで、列車が町の眠りに突き刺さる。教会の裏手に埋まっている上品な棺桶をつなぎ合わせたような白い軌跡は、自由落下にきらめくギロチンの歯のようだ。
二呼吸だけ透明になった空気は、列車の引く風の尾に煽られてすぐに濁る。
そこに含まれているのは腐臭だ。列車の雄叫びと線路の振動が、急ブレーキに動揺しながら坂の上の教会に吸い込まれるのを見送って、ボクは眼を閉じる。
「教会の、高速列車だ。審問官だよ」
「そうだな」
「あれがなにで動いているか、君は知っているの?」
朝月の温かい手がボクの首に触れて、這い下りる。変形した右肩を掠め、鎖骨の窪みを撫でて、彼の指は迷いなくボクの胸の中央に触れる。
そう、あの棺桶の行列を動かしているのは――ボクらの心臓だ。鉱山から掘り出されたものじゃない。誰かの胸から転がり出た心臓だ。死体を人間のように動かせるエネルギーを秘めた青い石だ。鼻先を掠めるかすかな、けれど絶対的な異臭をボクらは逃さない。そして、探知犬も。
「知っているんだ」
「ああ」
「そう」
エネルギー不足で霞みがかかったボクの頭では、それ以上のまともな反応ができなかった。もっとたくさんの言葉と感情をぶつけたいと思っているのに、痺れたボクの唇はただ曖昧に空気を吐きだす。
不鮮明な世界の中に、誰かがくゆらせる紫煙のように頼りない線路が泳いでいる。本当なら夕日が落とす教会の尖塔の影と同じくらい真っすぐな軌跡で、町を出て荒野と砂漠を切り取り草原へと消えていくはずなのに。
逃げ出してしまおうか、と一呼吸だけ、でも真剣に考える。
ホタルもシュンも、朝月さえも捨てて列車に乗ってしまおうか。駅には手配が回っているはずだけど、ボク一人なら走る列車に飛び乗ることもできる。そのままずっと先の、線路どころか大地さえ消えるところまで行って、幸せなころの夢ばかりを食べて生きるんだ。おとぎ話に出てくる動物のように。
「ケイ」
過去からの呼び声に、ボクの身体が勝手に震える。その振動を巧く往なせず、三歩ふらりと下がった。朝月の手が宙に浮いたまま取り残される。
ボクの顔色を窺っているようにも、自身の内に渦巻く不安を押し殺しているようにも見える表情で、朝月はゆっくりと手を落とした。昔の、ボクの知る彼にもあった不安定さだ。一体どの朝月が本物なんだろう。
「君は」と絞り出した声が掠れた。まるで朝月の不安を吸収したみたいだ。軽く咳払いをして、冷静な喉を作る。
「君は『解放の子供たち』なのに軍人を撃つんだね」
「あたってない」
「あててない? それとも、あたらなかった?」
「後者」心底悔しそうな顔で朝月は舌打ちをする。「誤解するなよ、俺が特別下手ってわけじゃない。夜の市街戦にゃ、それなりの装備が必要なんだ」
「まるで軍人みたいなことを言うんだね」
「しらばっくれるな。俺のいる組織がどんなものか、知ってるくせに」
「人間を殺すの? 人間のくせに」
「人間だから人間を殺せるんだ」
「『解放の子供たち』は、稀人を殲滅して人間だけの世界を取り戻そうとしている組織だろう?」
「言っただろ、俺にはどうでもいい。だいたい、人間を殺すのは大抵人間だ。金欲しさに人を殺した奴が、実は愛妻家だったって話もゴロゴロ転がってる。人間は、人間に対して優先順位がつけられる種族なんだ。俺だってそうだ」
「人間で、『解放の子供たち』のくせに……」
そう詰ったボクの声は思ったよりもずっと小さくて、あっさりと湿った夜風にさらわれて線路の向こうに飛んでいってしまった。
それを追った視線の下、蜘蛛の巣状に張り巡らされたロープでブツ切れになった建物の隙間に、隣の棟の外階段を駆け上る小さな影を見つけた。
「ツキ姉!」
「ユエさん!」
聞きなれたシュンの声が、なぜか二度と聞きたくなかった少女の声との二重奏で聞こえた。シュンの一階下の踊り場に少女がいる。ボクの顔を吹き飛ばしてくれた『解放の子供たち』の、ヒナコだ。
喜色と安堵を湛えていたシュンの顔が見る間に強張る。きっと、シュンからもボクの隣に佇む朝月が見えたのだろう。勘のいい子だから、彼が何者なのか一瞥で理解したはずだ。
ヒナコを押し退けて階段を駆け下りるシュンの姿が建物の影に呑みこまれた。彼を制止する声をため息一つで諦めて、ボクは屋上からシーツの塊をすくいあげる。そのまま屋上タイルへ、「どうして」と朝月への問いを落とす。
「どうして『ユエ』なの? 君の名前、ヨシウミ、だったよね?」
「知ってたのか」
「覚えてるよ」
朝月は微かに目を見開いてから苦笑し、それを恥じたように顔を伏せた。ヘレブで上司に褒められたり女性研究員に口説かれたりしていたときに、よく見せていた表情だ。
「じゃあ、どんな字面かも覚えてるか?」
弾けるように、ボールペンのインクが散る白衣の胸ポケットに留まっていた、彼の母国語で記された名札が浮かんだ。
――朝月由江
「ああ、それで」
「そういうお前は『ツキ姉』か」
「うるさいよ」
「なにが」
「たくさんある名前の一つだよ。気にしないで」
我ながら理不尽な返答をしたと思ったのに、朝月は「わがままは相変わらずか」と短く笑っただけだった。
建てつけに不安のある外階段を元気に、そして無警戒に空けて、シュンが夜空の下に現れた。
「ツキ姉!」と駆け寄るシュンを抱き留める、つもりだったのに、膝が砕けて朝月の胸に背中から倒れ込むはめになった。視界の端を掠めた彼のコートから乾いた砂の匂いが漂ってきた。月色に揺らぐその裾に、白衣の幻影が重なる。どうやらボクの身体は本格的に休眠を欲しているようだ。
けれど、シュンはボクの腰にぶら下がったまま朝月の足を踏みつけた。もっとも、朝月の靴は軍人と同じ仕様だからつま先は鉄板で保護されている。それでも朝月はボクの背から手を放す。
「ウソつき」シュンの小さな拳がボクの腹を打った。「困るって言ったくせに」
「困ってるよ」
「ウソだ」
「嘘じゃないよ」
身体の横に垂れたまま動かない右腕も朝月との過去を抱えたままの左腕も、シュンが不安を抱く一因だとわかっていた。それでもボクは彼のつむじから視線を上げる。
「嘘じゃない」
噛み締めるように言って、ボクはヒナコと言葉を交わす朝月の横顔を見る。
伏し目がちにヒナコを見下ろしていた瞳が安堵や期待や後悔や、今さら逡巡なんてものも掠めて、ボクを映す。ボクの腰にしがみつくシュンには微苦笑すら浮かべて、彼は優しさと呼ばれる希薄な雰囲気を纏う。まるで夕食前にお菓子を強請るシュンを宥めるキヨカさんのようだ。
けれど、彼の隣に立つヒナコは違う。夜目にも白い彼女の頬が月影色になり、二呼吸で朱が差す。
なんだろう? とボクは首を傾げる。妙な既視感に背中が冷えた。ボクは彼女を、撃たれる以前から知っている?
「ねえ」夜風がボクの声に重なる。「どこかで、会った?」
「ええ」ヒナコの唇が薄く開く。白く干乾びた唇だ。「
「橘・慈雨?」
ボクはまじまじと彼女の顔を見る。覚えがない。それでも心当たりはあった。
確認を求めて見下ろしたシュンが、古い友人に再会したような気色で頬を染めている。
けれど、とボクは再びヒナコへ視線を向ける。ボクの想像が正しければ、彼女はこうして対峙しているべき相手じゃない。
「君、ひょっとして、慈雨・ナミコの」
「ええ」頬の色とは対照的に、無表情な彼女が頷く。「橘・慈雨・ナミコの、妹です」
その名前を、覚えていた。ボクだけじゃない。『解放の子供たち』に属する全ての人が、アララト教会の惨劇を知る多くの人が、その名を知っているはずだ。
「そう……」ボクは夜の底に視線を逃がす。「ナミコの妹。どうして君がここにいるのか、少なくとも朝月がいるよりは、理解できる。ボクが誰だか理解したうえで」シーツの包みを握った手で顔の右側を探る。「ボクを撃ったの? 復讐ってわけ」
「いいえ、あなたがユヅキだなんて気付かなかった。気付いていれば……」ヒナコは噛みしめた歯を剥き出しにする。「あなたがケイだったなんて」
ボクはゆっくりと、眼球の動きを意識して彼女を捉える。面影があるだろうか? わからない。ナミコについて覚えていることは少ない。人間と稀人を隔てることなく微笑む薄い唇と、讃美歌を独唱する透明な声。そしてシュンやホタルの頭を撫でる細い、武器なんか似合わない白い手。どれもが、ボクの前に立つヒナコとは違う。
「どうして」ヒナコは硬い声を震わせた。「姉を助けてくれなかったんですか。どうして姉が死んで、あなたが生きているんですか」
ヒナコの瞳が潤んでいる。雨季の砂漠に浮かぶ池のようだ。苛烈な光りが、ボクの胸にある拍動を溺れさせようとしている。
ボクは逃げる。シュンの小さな靴を、ひび割れた屋上のタイルを、脈動する朝月の胸元は――怖くて見られなかった。一人きりで寂しげに浮かぶ痩せた月を見上げる。
「そんなこと、ボクが訊きたいよ」
カッ、と硬質な靴音がして、視線を戻したときにはヒナコが眼前にいた。避ける暇もない。左の頬を平手で張られて、世界が白くぶれた。
「なにするんだ!」とシュンの抗議が聞こえたけれど、ボクはぼんやりと屋上に敷き詰められたタイルの目を数えていた。頬の内側がじんわりと温もってくる。
「あなたのせいで! あなたの代りにナミコが殺されたのに」
「ボクが殺した、とは言わないんだね」
ヒナコは鋭く息を吸い込んだ。けれど声にはせず唇を噛みしめる。歯の白さが、今日は一つしか見えない三つ子月に似て妙に遠く感じる。
「なにも知らない人間たちになら、どんな言い訳だってしてあげる。でも君は、真実を知っているんだろう? それでもボクを責める。じゃあ、どうすればよかったの? ボクが戻ったときには全てが終わっていた。ナミコもアララトに隠れていた子供たちも、遊びに来ていただけの人間の子供も、もう心臓を抜かれていたのに。ボクの心臓でもあげればよかった? でも、残念だけど、そんなことは無意味なんだよ」
ヒナコが腕をはね上げた。軍用拳銃が握られている。レーザーポインタの赤はもう、震えていない。真っすぐにボクの心臓を照らしている。
ほとんど同時に朝月が銃を抜いていた。レーザーポインタのない彼の銃口が、ヒナコの側頭部に向いている。
「狙う相手が、違うんじゃないの?」と訊いたのはボクだ。
ヒナコは食い縛った歯の間から荒い呼吸を繰り返している。壊れかけた風車が立てる耳障りな金属音に似ていた。ボクへの憎悪と殺意に引きつった頬も、朝月の行動への戸惑いと疑念に揺れる瞳も、とても刹那的に脆くて苛烈で美しい。
ボクはシュンの腕を引き寄せて背後に庇いながら、再び朝月へ問う。
「彼女は君の仲間だろう? 朝月、ボクのために銃を抜くなんて愚かだよ。そんなことをされたって嬉しくない。ボクは」
「ケイ」
握る銃には似合わない静かさで、けれど銃口の闇に寄り添う冴えた抑揚で、朝月はボクを呼ぶ。ただ、それだけ。その一言でボクはあっさりと言葉を見失う。
「ツキ姉は悪くない!」シュンがボクの腕の下から叫ぶ。「ボクのせいなんだ。ボクがホタルを病院に連れて行ってほしいなんて言ったから」
「違うよ。あれはボクの判断だ。あの日は朝から病院に行っていたんだよ。ナミコはボクらが稀人だと知っているのに人間と同等に扱ってくれる貴重な人だったから、他の子たちを彼女に任せて出かけた。年長者のボクのかわりにナミコが、シュンとホタルのかわりに近所の子供たちが遊びに来て……結果的に密告されていた人数と合ってしまった。『解放の子供たち』がボクらを殺しに来るなんて知らなかったんだ」
「知っていたら?」
「逃げたよ」即答してから、思い直して首を振る。「でもナミコを救えたとは思えない。ボクらが姿を消せば『解放の子供たち』は稀人を匿っていたアララト教会の人たちを責めたはずだし、簡単に諦めたとも思えない。事実、彼らはナミコたちを殺した後も、『稀石はどこだ』と巡礼者に発砲している。それに、人間たちは相手を傷付けるまで稀人か人間かを見分けられないんだから」
爪が届かない場所にいる相手を威嚇するネコのように、ヒナコは長くて大きな息を吐いた。シュゥ、と喉のどこかが軋んでいる。首に揺れる黒いリボンが迷いの軌跡を描いていた。
「ボクからも一つ訊いていいかな。どうしてナミコを殺した組織に所属しようと思ったの?」
「ナミコを殺したのは、あなたたちよ」
「引き金を引いたのは『解放の子供たち』だ。それとも、ボクらがいなければ彼女は死ななかったと言いたいの?」
「ええ」
「でも、ボクらは一度だって『生き返らせて』と頼んだことはないんだよ」
ヒナコは頬を痙攣させて、視線を教会の尖塔に彷徨わせた。そこに救いがあると信じるように、何度も教会の輪郭を泳いでいる。
そして彼女は銃を下ろす。力なく垂れた腕の先でレーザーポインタが、掻き消える。
「そんなこと、知ってる」雨粒のようなヒナコの声が大気を渡る。「でも、あなたたちがいる限り、人間を巻き込んでも稀人を殺そうとする人は尽きないじゃない。わたしと同じように家族を殺される人が、殺された家族を生き返らせようとする人が出てくるじゃない。そんなの、そんな世界、ナミコは望まない」
朝月が銃を下ろすのを見ながら、ボクは吐息で笑う。
「そんな世界? いつだって、勝手にボクらを生き返らせて、勝手な理屈でボクらを殺しに来て、一番傷付いているのは自分たちだって顔をする。自分を正当化するためなら稀人を殺人鬼にしたてることだって容易い。アララト教会の惨劇がいい例だ。人間たちは、アレを稀人の暴走だと信じている。君たちが生み出した怖いおとぎ話だよ。子供を脅すときにちょうどいい。そして最後には、自分たちで作りあげた物語に怯えて、自分たちが生み出した稀人を殺す。滑稽な、世界だ」
「でも、あなただって人を殺したことがあるんでしょ?」
あの女は死んだのだろうか? とヘカトンケイレスの仄明りの中で驚きと恐怖に目を瞠った女の顔を思い出す。
ボクを撃ち、朝月に銃口を向けた最後の見学者だ。女の腹を突き破ったはずの右腕を見下ろす。今は包帯に埋もれて使い物にならないこの腕が、あの女の命を奪ったのだろうか?
灼熱の内臓は覚えている。けれど、その先の記憶はない。気が付いたときにはネズミに齧られながら湿った腐臭が充満する闇を駆けていた。
あの見学者と時を同じくしてヘレブを強制解体するための軍が突入したという話ですら、随分経ってから噂で知ったくらいだ。
「ボクは……」言い訳を探す。けれど、すぐにそんな必要はないのだと気付く。「ボクらは自分の身を守ろうとしているだけだよ。これでも生きているんだ。生き残ろうとする本能は機能している」
それだけ、と嘯いたボクを、ヒナコは静かに見つめた。朝靄の中から人間たちの目覚めを見守る太陽のようだ。
そして彼女は銃を納める。華奢な体に似合わない無骨なホルスターが脇からぶら下がっていた。
人間も稀人も平等に殺せる道具だ。
同じ凶器を納めた朝月の手が、シュンの丸い頭を軽く叩いた。唇の端を歪めて言葉を生むために空気を吸った彼の顔が、不意に凍った。
ヒン、と耳元の風が鳴った。驚いてシーツの包みを落とす。拾わなきゃ、と身を屈めた途端、ゴプとぬめった水音が聞こえた。見下ろす。顔の半分を真っ黒に汚したシュンと眼が合った。
「ツキ姉……」
小さな手がボクの胸に伸びて、けれど届く前に頭上に降り注いだ黒い水に遮られる。
朝月がボクを引き寄せた。あまりにも強い力だったから、踏み止まれずに膝を突いてしまう。
周りから暗くしぼんでいく世界の中で、ヒナコが小さな銃を握って火花を散らしていた。朝月が、やっぱり躊躇いの欠片も見せず発砲している。その足元で、砕けた建物が踊った。
ようやくボクは振り返る。隣の建物の屋上に生えた二つの影が、閃光を瞬かせていた。
――敵だ。ボクらを、朝月を殺しに来た、敵。
ひどく原始的な衝動が脊髄を駆け抜ける。理性の消えたボクの身体が縮みきったバネのように弾けた。屋上の縁を蹴って、飛ぶ。
ワークブーツの下に広がる奈落の底、絡み合った洗濯ロープで裁断された地上にも誰かがいた。射程外だろう、と見当をつけて無視を決め込む、今は、眼前に迫る男が先だ。
引きつった顔で銃口を上げた男の弾は、包帯で覆われたボクの右耳を引っかけて虚空へ吸い込まれていく。
男の肩骨を踏み抜いて着地する。助走と高度とボクの体重をまともに受け止めた骨が肉の内側で外れるのがわかった。構わず、その太い首に手をかける。
もう一人の男が素早くボクのこめかみに銃を向け、その瞬間に薄汚れた屋上の上に脳をぶちまけて倒れていた。朝月かヒナコか、どちらの弾かはわからない。もう、発砲音すら聞こえていなかった。
ボクは捕えた男を絞め殺すことだけに集中する。左の肘の辺りで筋肉がピシと骨を震わせた。全体重をかけて掌を押し込む。白目を剥いた男の喉仏が逃げ場を求めて、ボクの手と男の気道と筋肉との隙間でゴリゴリと動く。溢れだした唾液で手が滑った。
その直後、世界が深紅に染まった。生温かい液体がボクの頬から滴って、唾液と血とゼリー状の脳漿に汚れた太い首へ流れる。ボクの胸から溢れる血と混ざって、屋上にてらてらと粘液が広がっていく。
その先に、厳つい軍靴があった。泣く寸前で必死に耐えるシュンとよく似た角度で唇を強張らせた朝月が、薄く煙を吐く銃を提げている。
「殺すな」音のない声で、彼が囁く。「お前は、殺すな」
変なことを言う。ボクは稀人で、人間に殺される存在で、だからこそ殺される前に殺さなきゃならないのに。
朝月はコートを脱いでボクを包んだ。乾ききった砂色に反して重たいコートだった。彼の両肩に巻きついたホルスターの黒いベルトが、大きな拳銃を抱きしめている。白いシャツだって、乾涸びた黒いボクの血と真新しい赤とが混ざって重苦しい色に染まっていた。
あのころは、あんなにも希薄な白を纏っていたのに。
その胸元をつかんで、どうしてそんな色を背負っているんだ! と問い質したい衝動に駆られた。けれど、エネルギー不足のボクの身体は生命維持を最優先に、意識と思考を閉ざし始める。
「ケイ」
朝月が手を伸べる。節がしっかりと出た手だった。大きな拳銃を握っていた手が、誰かを傷付けて、ひょっとしたらボクの仲間だって殺しているのかもしれない手が、血で黒く汚れて薄闇に漂っている。
もう、あのころとは違う。資料と機材と絵本、そしてコーヒーの香りがする紅茶しか知らない柔らかな曲線を描く少年とは全然違う、大人の男の手だった。
「ケイ、帰ろう」
帰る? どこに? ヘレブの研究施設に? 朝月のいるヘカトンケイレスの制御室の床に座って、また昔みたいにコーヒーの香りに包まれながらクッキーを分け合える? それとも分厚いガラス板と衝撃吸収材の壁に囲まれた部屋で、また儀大人の実験体になれってこと?
ふわりとコーヒーの香ばしさに包まれた。朝月が防砂コートの上からボクを抱きしめてくれている。生命力が枯渇したように白い布地はところどころ毛羽立っていて、ボクの知らない彼の年月を表しているようだ。
「帰ろう。お前を傷付けたりはしない」
ボクの視線はボクの制御を離れて彷徨う。墓石色の屋上を踏みしめていた松脂色の彼のブーツを、艶やかに散った人間の体液を、ボクの胸から溢れる血に侵食される砂色のコートを。それらを撫でて、ようやく美しいものに辿り着く。朝への期待で艶めく雲間に取り残された一人ぼっちの月だ。
黎明の月、彼の名前。白く澄んだ冷たい光が、ボクらを見ている。
「ケイ」
朝月の声音に促されて、ボクは手を伸ばす。その指先がなにに触れたのかはわからなかった。もう自分が立っているのかすらわからない。耳朶に睡魔だか死神だかの耳障りな笑い声が聞こえた気がした。
――朝月、ボクらが帰れる場所なんてもう、どこにもないんだよ。
そう告げたボクの声はきっと誰にも届かなかった。
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