ナナオ  14

 悪夢の中にいるような気分でした。頭をやや下に、こちらを向いて落ちてきた佐久間は、笑っていたように見えました。落下速度から考えれば、表情など見えようもありません。恐らくは幻覚でしょう。ナナオ、と呼ぶ声があった気もします。その、恐らくはそれも幻聴でしょうけれども、佐久間の声は、いつまでもいつまでも耳にのこっています。穏やかで、優しい声でした。いっその事責めてくれ、というのは、陳腐な台詞になるでしょうけれど、思わずにはいられませんでした。それならば後を追う事だって出来たかもしれないのに、そうする事が出来ない罪悪感にまた、苛まれるのです。


 折れた腕と砕けたつま先、それから、佐久間を受け止めた時に、色々なところに生じたヒビを全て修繕して、三ヶ月ほど経ってから部屋へ帰りました。部屋の窓は几帳面にもきっちり閉じられており、ただ、人のいない家は傷むと言いますか、そういった程度の変化はあれど、佐久間を置いて行った時の様子とさほど変わらない部屋に、わずかな安堵と、冷酷に薄れかけていた大きな哀しみが溢れ、ボクは廊下に座り込みおいおいと泣きました。流れてくれない涙が顔を内側から爛れさせるのではないか、と思うほどにもどかしく、近所迷惑を承知の上で、声で泣きました。泣き叫びながら、あの窓辺のある部屋にゆっくりと這いずって、佐久間が畳んでおいたのであろう、あのブランケットに顔をうずめ、何時間も吠えていました。


 昼のうちに辿り着いたはずが、佐久間が最期にみたような夕焼けに変わり、夜もふけて、それから東雲しののめの色になる頃に、ようやく、佐久間が二度とそこに戻って来ないのだ、と、腑に落ちたというか、妙にくっきりと、そこにあるただ一つの真実として、理解しました。継いだ腕の石膏をぼんやりと見つめ、あの日佐久間の血液で染まったままの、手のひらを撫で、それからその腕で己の頭を少しずつ撫でると、また目玉が厚ぼったく揺れて、今度は静かに、少し泣きました。灰皿に一本だけ、佐久間の遺したまだ長いシケモクに火を点け、ふかすと、ゆるゆるとたちのぼる白い煙が、天井へ音もなく消えていき、それがまるで火葬場の煙のようで、まだ骨も迎えていないうちから、弔ったような気になっているのでした。

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