ナナオ  13

 バスを降りて、佐久間の待つマンションの前に立ったのは、まだ日も暮れきっていない夕方のことでした。赤紫の美しい空色には適度に雲が彷徨うろついていて、建物は夕色に染まり、数羽のカラスが鳴いておりました。ボクはいつもと変わらず、二人で暮らす部屋の明かりが点いているか──それは佐久間が眠っていないかを確認するための習慣でしたが、見上げて、数瞬、何が起こっているのか、理解を拒もうとしました。ベランダの柵に腰掛けた人影が、こちらを向いて手を振っていたのです。なにぶん遠くの事なので、その表情までは読み取れず、きっと彼は泣いているのだ、と勘違いをしたまま、鞄も、駅近くのケーキ屋の袋も全て投げ出して、走り出しました。この間に息をしていたのかは定かではありませんが、心臓がばくばくと喉元で暴れている錯覚さえありました。あまりに大胆に走っていて、足か足元のコンクリートが砕けるんじゃないか、とどうでもいい事ばかりを考えていたのを覚えています。建物まであと二十メートルかそこら、その辺りから、佐久間を見上げると、彼はまるで腰掛けていたベンチから降りるかのように、あっさりと、柵から身を投げました。


 結果だけを言うと、ボクは佐久間を受け止めることが出来ました。空から落ちてきた、愛する人は確かに両腕に収まり、肉が弾け、骨が折れていく感触を鮮明に伝え、二本の腕を叩き折って、地面へ鮮やかに飛び散りました。人間としてはおろか、静物でも滅多に見ないような、凄まじい姿に成り果てた佐久間は、ボクの全身に体温を浴びせて事切れました。衝撃のあまり両足もろくに動かず、その場に尻餅をついたまま、ボクは佐久間の名前を一度だけ呼びました。返事はなく、恐らくはその光景を見たのであろうどこかの住人が、あちこちから近付いてくるのが見えました。

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