ナナオ  12

 せめて見苦しくなく、と伸びた髭を剃る。どこか浮ついた心で、新品の下着と、買い与えられ袖を通すことのなかった襟付きの白いシャツを身に付けると、幾分まともな見た目の男が出来上がった。覚悟が決まってしまえば晴れやかなもので、昨今ラジオでよく耳にする、タイトルも歌詞もあやふやの流行歌をハミングしながらを整えていた。留守がちになっているナナオの、透明なコップを洗い終え、いよいよする事がなくなった。片付けをするほど散らかっている訳ではない自室の、ゴミ箱の袋の口を縛ったところでふと、女の指輪のことを思い出す。指輪は恐らく投げ捨てられた直後から動く事はなく、オーディオの下のうっすら積もった埃の向こう側に落ちていた。所々に緑青ろくしょうの浮いたそれを、埃に纏わりつかれながら拾う。指輪に宝石が嵌っているように見えたのは、よく見ればそのように彫刻カービングされた凹模様だった。今から女を呼び付けて返すか数秒迷ってから、忘れた事にして元の場所に転がしておく。必要ならば取りに来るだろう。そうでないのなら、ナナオが適当に処分してくれそうなものだ。今際いまわきわまで頼り切る形となったが、むしろその人の良さこそが愛しく、随分と彼に助けられていたのだ、と、まるで博愛主義者のそれが如く感謝の気持ちを虚空に向かって述べた。


 埃を払いながら部屋を後にすると、スマホが小さく振動した。画面には最寄りの駅に着いた知らせと、ショーケースの洋菓子の写真が送られていたようだ。それを見て、あと少し待っていれば帰ってくるであろう人影の声や姿が、まるで目の前に居るかのように思い起こされた。きっとナナオは止めてくれるだろう、とあり得ない現実に縋りそうになる。

「あぁ、死にたくないなぁ!」

何年かぶりに出した大声とともに涙が流れ出した。それまでの愉快な気分は消える事なく、情動が渋滞しているようだった。私は泣き笑いながらベランダに向かった。涙は流れるままに頰を伝い服を濡らしていく。

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