ナナオ  11

「だとしたら、早く離れるか、思い直した方がいいですよ。人間って、ナナオさんが想像するよりずっと脆いので」

の声とは別に、幾分か冷たい声色で雪村が言いました。

「今この状況で言います?」

冷や汗がだらだらと、出ませんが、その言葉がある程度の棘を孕んでいる事くらいは理解出来るボクですので、少しムッとしながら雪村に言いました。しかしその言葉の意味するところが、恐ろしい事を意味している事に気付き、虫のあのとげとげしい幾つものあしが、わっ、と一斉に全身を走り抜けるような、嫌なくすぐったさにボクは怯みました。その意気地のなさを隠すように身体を揺すると、う、と小さい呻き声が赤い唇から溢れました。吐息は熱く、しかし弱々しくはない言葉が、同じ口から続きます。

「ええ、まあ。例えそうなってもナナオさんが気に病むことではない、とは思いますから。でも、見放された人間ほど弱いものはないですよ」

雪村がおもちゃをぐっと押し込んで、両足に固く力を込め、ぶるるっ、と息を止めて震えました。それからゆっくりと弛緩し深く深く溜息を吐きだすと、少し俯いた髪の隙間からは、似ても似つかないはずの佐久間の幻覚が、ふつ、と現れた気がして、雪村の言葉がそのまま、佐久間の心なのではないか、とさえ思うほどでした。気付けばボクは雪村の頬を、佐久間と同じように撫でていて、その手を振り払うでもなく、愛する事もなく、ただ撫でられるまま言葉を続ける雪村の様子は、やはりどこか佐久間と同じ空気を纏い、たしかにそこに存在しています。

「私はもう、何に愛されなくても息を継げるくらいに壊れてしまったから、大丈夫ですよ。佐久間さんもそうであったらいいのだけど」

「壊れただなんて、静物じゃあるまいし」

「人間扱いをされなかった人間は、得てして静物の振る舞いを覚えるものですよ」

なんて、と雪村はうすら笑いを浮かべながらボクの肩に片腕を回し、それを支えにしながら立ち上がると、汗がぱたぱたと数滴、シーツの上に落ちました。二歩ほど離れ、着崩れた浴衣の中でおもちゃをぬるり、と足の間から抜いたのが、浴衣の生地から透ける影の形でわかりました。

「共犯者の私がそれをいうのも、ひどい話ですね。だからナナオさん、いずれ起こることに耐え切れなくなったら、頼ってください。あなたは私たちと違って、永く生きるのですから、そういう助けもいるでしょう」

雪村は、そのままおもちゃを持って浴室に向かいました。後始末をする様子を曇ったガラス越しに眺めながら、何か大きな間違いをしてしまったのかもしれない、と思い直しましたが、それがはっきりと理解出来たのは、残念ながら、もう少し後になってからの事だったのです。

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