ナナオ  7

 人の良さ、と言えば聞こえはいいかもしれないが、馴れ馴れしい態度に一々苛立ちを覚えている己がいる。外から帰ってあまり時間の経っていない指は氷のように冷たくて、痛い。あくまでも自分の善性である立ち位置を揺るがすつもりはないようだ。丁寧に消毒され、よれることなく貼られた絆創膏が嫌味ったらしい。

「水仕事……といっても、佐久間さんは偏食だから、余程じゃない限りは皿なんて使わないでしょう。濡れないようにしてくださいね。手というのは使わないわけにもいかないんですから。明日にでも、防水の絆創膏を買ってきます」

手当てを終え、慈愛の笑みとも言うべき表情をしたナナオを避けてソファへ戻った。肌寒い風が吹き荒んでいるが、窓を閉めていいものか、その程度の事すら判断出来ない事に気付く。自身の生活力、どころか、生命活動のための手順すら覚束ない事に我ながら呆れるばかりである。ソファに脱いだままの、引きずるほど裾の長い掻巻かいまきじみたブランケットに身を包み寝直そうとすると、ナナオが窓を閉め、向かいのソファに腰掛けた。テレビを点け、時折何かこちらへ話しかけているようだが、聞こえないふりをしながらスマホの画面を眺め続けるほかなかった。自室には女タバコの華やいだ臭いが残っていて、あの自信に満ちた忌々しい顔が未だ脳を掠める。


 少しずつ自分の居場所が削り落とされていく感覚はいとも簡単に精神を蝕んだ。胃の辺りから喉仏に向かって取り憑いて、それでいて痛みすら与えてもらえない、そのうつろで、寒々しい腫瘍はれものから逃れるために、眠ってばかりいる。実際に眠る事が出来ている訳ではなく、ただ息をして川底の石のように時間の流ればかりを感じ、焦燥感と希死念慮が苔のように全身を覆っていく事に怯えるのを毎日繰り返しているのだ。時が過ぎていく中で、ナナオという存在が気紛れに肌へ触れたり、呼べば来る女が数人、自分よりも下にいる生き物を眺めに来る時にだけ、私の存在がまだ残っているのだとかろうじて理解するが、かえって腫れ物は存在感を増すばかりである。

「ナナオ」

名前を呼ぶと、ナナオはこちらを向いて微笑みかけた。恐らくは何かしらの意図を持って、美しく作られたのであろう顔が、作者の意思に反して歪む彫刻は不気味な違和感を生じさせる。

「どうかしましたか?」

どう言い表せばいいかわからない、己の感情を説明する事が億劫で、返事もせずにブランケットを頭まで被った。布の織り目から微かに入る灯りに静かに人影が映る。布越しに優しく頭を撫でられるのを振り払って、ようやく眠りに就いた。ぼんやりと遠くの方からクラクションが聞こえる。

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