ナナオ  6

 昨晩の外泊に特に意味があるわけでもなく、まだその関係に至っていない雪村との同衾を、匂わすための浅知恵でしたが、これは思った以上に効果的だったようです。仕事を終え帰ると、ソファに座ったまま眠る佐久間が廊下の向こうに見えました。部屋の中はタバコと、アルコールの匂いがひどく充満しております。容赦なく窓を全開にすると、海風が、どう、と吹き込みました。

「寒い」

「だったら、これからはきちんと換気してくださいね。部屋に霞掛かってるんじゃないかってくらい煙たいですよ」

目を覚ました佐久間をよそに、台所に回って換気扇を付けると、昨日までとは打って変わって、低く静かな駆動音が鳴りました。

「早起きお疲れ様でした」

「別に、起きてたし」

そう言いながら、缶に残っていたのであろうビールをぐっと飲み干すと、佐久間は台所にふらふらと近寄り、少し手を出してからすぐに引っ込めました。

「何か」

「別に、口をゆすぎに来ただけ」

ふい、と身体を背けて、飲んだっぱなしのカップに水道水を注ぐ手のひらには、絆創膏が三枚ばかり、井桁いげたのなり損ないのように貼ってあるのを見つけました。


「その手、怪我したんですか」

黙ったままの佐久間が、しかし声は聞こえていたようで、手を少し傾げて絆創膏を隠す素振りをしました。部屋にあった絆創膏は、かぶれるのが嫌だから、と防水でないものしかなかったように思えます。剥がれたのを押さえるために三枚も貼っているのかもしれない、とボクは、水を飲む佐久間の右手側に回り、カップが空になるのを見計らってその手を取りました。抵抗する様子がないのを確認してから、ふやけた絆創膏をゆっくりと剥がすと、存外大きな切り傷から、じわり、と血が溢れ、濡れた手をつたって、石を小さく染めました。傷を見つけられた時より、暴かれた時より、びく、と大きく身体を震わせ視線を逸らす様子は、痛みに耐える、というよりかは、叱られる時の怯えにも見えるのでした。

「救急箱、取ってきますね」

「先に持ってきたらよかったのに。あんたと違って、人間は血が出るんだよ」

少し嬉しそうで、それが段々と泣き声のような、喘ぎ。ボクは、彼がたった一晩でどれほど寂しい気持ちになったのだろう、とひどく後悔をしていました。聞いている方が悲しくなる音をしていたのです。

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