ヤスハルさん 11
地上まで階段を駆け上り外に出ると、辺りはすっかりと暗くなっていた。近くにどこか、待つ事が出来るファーストフード店でもないかと歩き回ったが、中々見付からず、渋々、高級そうな佇まいの喫茶店に入った。一度入ってしまったからにはすぐに出る事も申し訳なく、そこで待つ覚悟を決めて、ヤスハルさんに店の名前を知らせた。それから僕は画廊で貰ったパンフレットを眺め、ヤスハルさんの姿を思い返していた。パンフレットの中にはヤスハルさんの写真はなく、特別展示、という文字のそばに名前だけ小さく書いてあったが、もはやその名前を見るだけでも先程の彫刻としてのヤスハルさんの姿がありありと脳内に描かれてしまい、芸術作品に向けるのが憚られる感情で頭がいっぱいになった。
「待たせてごめんね」
頭を抱えていると上から声が降ってきた。見上げると、先程の姿とは打って変わって、カジュアルな服に身を包んだヤスハルさんがそこにいた。一週間ぶりの声に対する懐かしさと、一連のやましい感情が混ざりぱくぱくと口を動かしていると、ヤスハルさんはくすくすと笑いながら向かいに座った。
「もう一杯、何か飲める?入ったはいいけれど、何も頼まないのもなんだから」
「ど、どうぞ」
「いつもごめんなさいね」
そう言うとヤスハルさんは慣れた様子で小洒落たケーキとオレンジジュースを注文した。
「あの、みました、展示」
ほとんどまともに顔を見ることができない。耳まで熱くなっているのが、触らなくてもわかった。余裕ぶった顔で観に行くなんて言ったものだから、なんとも情けない。
「どうだった?」
「どうって……その、綺麗でした。本当に、と、とんでもなく……」
ちらり、とヤスハルさんの方を見た。ヤスハルさんはいつも通り、優しく微笑んでいる。
「そう。ならよかった」
大袈裟に胸を撫で下ろす仕草をしてから、ヤスハルさんは、それで、と続けた。
「それで、もう一つ。恋人としてはどうかしら。私が人前であんな格好していて、きみは嫌じゃなかった?」
あ、と声が出た。ヤスハルさんが、その事を負い目に感じていたのを思い出す。どう答えれば正解なのだろうか。
自分が予想してたよりもだいぶ、その点については穏やかな気持ちでいた。美しいヤスハルさんが、美しくあの世界にいて、観客に愛されていることに何の問題があるのだろうとさえ思う。けれど、嫌じゃないと言ったら、今度は僕の気持ちを疑われないだろうか。例えば、私の気も知らないで、といった類のことを問い詰められたりしないだろうか。散々迷っている間、ヤスハルさんは答えを急かす事もなく僕を見つめていた。
「……それどころじゃあ、ありませんでした。ヤスハルさんしか見えなかったから。きっと、ヤスハルさんが、もっとひどい事されていても、そうだと思います」
ヤスハルさんが辛いのは嫌だけど。そう付け足すとヤスハルさんは、そ、と短く返して僕を見つめた。その顔から考えは読み取れない。まずいことを言ったかもしれない、と不安ばかりが増していく。ケーキは砂の味がした。別の日に改めて食べる必要があるな、と申し訳ない気分になった。
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