ヤスハルさん  10

 ヤスハルさんの展示が始まるらしい。去年の夏までは一年も平気で待つ事ができたのに、半月待つことに耐えかねて、今は、毎日会わないとどこか足元が覚束おぼつかないような、どうしようもない不安感があった。留守番出来るなんて嘘だったのだ。この一週間は毎日が無気力で何も手に付かず、それなのに眠れないといった有り様で、起き抜けに鏡で見た顔は土気色をしていた。今日は帰ってくるはずだから、帰り道に画廊へ行ってヤスハルさんを観て、待ち合わせでもして、なんて考えている。学校の授業をほとんど上の空で聞いて、午後四時半。僕は挨拶もそこそこに教室を飛び出して電車に乗った。


 ヤスハルさんが展示されている画廊は地下にある。手摺りがガタついている急な階段は、もう何度も来ているが毎回不安を誘う。平日だからだろうか、行列こそなかったが、狭い画廊の中にはほどほどに人が入っていた。薄暗い室内には賛美歌が流れ、宗教画を揶揄するようなグロテスクな絵画や彫刻が並んでいる。その部屋の奥の壁際、淡い光の中に、ヤスハルさんはいた。リンゴを指先でもてあそび、食べるか食べないか、あるいは、食べてしまった言い訳を考えているような、憂いを含んだ表情をしている。家で眠っている時と違い、呼吸をしている様子はない。本当に、ガラスの彫刻として、その空間に存在していた。裸のヤスハルさんには、服というにはほとんど意味を為さない薄い布と、内臓のような、気味の悪い色の蛇が絡まっている。光は時々角度を変え、新橋色のヤスハルさんを通し徒波あだなみのような影を壁に映し出す。僕はあたかも美術品を観察するようなフリをして、蛇が食い込む股下や、薄く開いた唇の隙間や胸元を、じっくりと見つめた。空調がきいているはずの涼しい室内にも関わらず、心臓がばくばくと鳴り、拭っても拭っても止めどなく汗が流れ続けた。美しい指先や動かない瞳が、僕のやわらかいところを舐めて、ひたひたと触れて撫ぜるような気さえする。ガラスとは思えないリアルな肉感は、周りのオブジェによってむせ返る様な色気を放っていた。閉場十分前の呼び掛けが聞こえて、ようやく現実に引き戻された僕は、ヤスハルさんをいやらしい視線で観ていた事に気付かれるのを恐れ、慌てて画廊を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る