ヤスハルさん  1

  ヤスハルさんは新橋色しんばしいろのガラスだった。光の角度で微かに浮かび上がる虹色の傷が、頬を伝う涙のように美しかったのを覚えている。夏の間だけ開かれる海辺の屋台の、ラムネと氷の浮かぶ金だらいのそばにその人はいた。りりん、とラムネ瓶とガラスの手が軽くぶつかる音は涼やかで、透ける肌から見える白い砂浜は海の底のようで、つまり僕は、ヤスハルさんに一目惚れをしたのだ。くらくらと目眩がするほど火照った頬は、夏の暑さのせい、だけじゃない。

「待たせちゃったかな、ごめんね」

ぼんやりと見詰めているとヤスハルさんは優しく微笑んだ。ぶしゅ、という音とともにあふれる炭酸がヤスハルさんとラムネの瓶を伝って砂浜に落ち、染み込んでいく。瓶を受け取ってへどもどと挨拶をした気がするが、その日はどうやって帰ったのかほとんど覚えていない。


 それからの夏休みはほとんど毎日、僕はヤスハルさんに会いに海へ行った。日焼け止めも日除けも頓着していなかったせいで、出会った翌日に熱中症になりかかったのだが、近くで見つめていたのをヤスハルさんは随分と気にかけてくれていたようで、ぐったりと頭をもたげている僕に何度か声を掛けてくれていた。その時に触れた硬い手はひんやりと心地よく、氷の彫刻みたいだと思った。迷惑をかける前にどうにか帰って、次の日まで寝込んで、夕方。自転車をへろへろと漕いで再び海へ向かった。ヤスハルさんは昨日と同じ場所にいて、夕焼けの中、これから花火をする人達を眺めているどこかうら悲しい姿に、どきりとする。ヤスハルさんは小銭を握りしめる僕に気付くと、よかった、と心底安心したように言った。僕は顔を覚えてもらったことが嬉しくて、それをそのまま伝えると、ヤスハルさんは困ったような顔をしながら言った。

「無理だけはしないでね。夏の間はここにいるから」

「無理じゃないです。どうしても会いたくて」

「ありがとう。でもね、親御さんが心配するでしょう?」

今日もヤスハルさんはきれいだ。さざなみにも似たヤスハルさんの唇を見上げながらラムネを受け取った。


 次の夏も、その次も、ヤスハルさんは毎年同じ場所でラムネを売っていた。高校三年の夏、八月三十一日の夕方。僕はついに告白を果たした。ヤスハルさんはそれほど驚く様子もなく、ごめんね、と言った。

「きっと勘違いをしているよ。もっと身近に良い人がいるでしょう」

「勘違いって、何をですか」

「夏だもの。ただ暑いだけの季節に、君は意味が欲しいのだと思うよ」

それなら、と僕はしつこく食い下がった。それなら、夏以外も逢いましょう、と。

「連絡先教えてください。夏以外も、秋も冬も春も好きだって、伝えたい」

声が震えているのが自分でもわかった。大きく息を吸って、吐く。透き通る瞳を見つめヤスハルさんの言葉を待った。遠くから吹き出し花火の音と、甲高い声が聞こえた。

「……それだけ、なら」

ヤスハルさんが、顔を背けて言った。ラムネ瓶がことりと水の中で揺れる。

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