素晴らしき日々は何度でも来る
8月の初旬。夜と言うのにその日もむし暑く、雨も汗も止まらない夏夜となっていた。なっていたし、俺がいるのは屋台のおでん屋だ。ぐつぐつと煮えだった出汁のいい匂いと熱気で暖簾の中は暑く、扇風機は回っているがあまり効果はないように思えた。それにお酒も飲んでいるからか、体温は高くとにかくもって暑いのである。そんな状態の前に、俺の目の前に、
「
「――あら。あなた私を知っているの」
「そりゃあまぁ、有名人だし。え、本物?」
「ほうほう。それはえらいえらい、誉めてあげよう。で、君の名前は?」
「名前はって、あなた“さくらちゃん”と会うためにここに来たんでしょうが」
「ちょっと
「だからさち子だって言ってんだろう! それにしても可愛いとこあるじゃない」
「あのー……なんの話ですか。というかその名前で呼ばないで欲しいとなんども」
「この子ねぇ、垂水君を探しに此処に来たみたい。大方“英ちゃん”に聞いたのでしょうね。ここによくいるって」
「えっ、そうなんですか新菜さん」
「はぁ! 違うし、それになんであなた私の事を下の名前で呼ぶのよ! 馴れ馴れしいにも程がある!」
「恋ねぇ」
「おい、オカマ黙れ!」
「誰がオカマじゃいこらあ!」
俺はやっぱり二人の話す様を見て、映画みたいだなぁと思った。雨脚はさらに強くなっていたが、この二人の声はよく通った。さすが役者だと俺は思った。そういや、昔どこかでこんなシーンを見たような気がする。なんの映画だっけかなぁ。
「あはは、なんだか映画みたいだ。あれ、そう言えばさち子さんって大友映画に出てたんですか。俺、好きなんだけどなぁ大友映画。見た覚えがないよ、さち子さんのこと」
「はんっ、馬鹿はこれだから。だって五郎丸さんは、前は正真正銘の男だったからね」
「いまも、おとこ――」
「おい、二人ともいい加減にしろ。はぁ、まぁしょうがないわねぇ。今はこう見えても整形とか手術したの。これでも大分前よりは遠ざかったはずよ」
「でも、
「ええ、知っているわよ。よく
「“イルカ”ね」
「えっ! ええ! あの? 全然違うじゃん! 体格とかも!」
「……削ったのよ、身も心も色々と」
「ええーマジですかそれは。手術ってすげー。え、本当に?」
「変わりたかったからね、私はずっとずっと」
さち子さんならぬ、五郎丸さんならぬ、イルカさんは煙草に火を点け、ゆっくりと吸い煙を吐いた。そして何処か遠い目をしていた。確かにイルカという役者は名脇役として有名だ。背も高く、ガタイも良い。顔は整っているがその人相の悪さから悪役などが常だった。ヤクザ映画なんかでは必ず見る顔だった。その反面、繊細な演技をし大友映画以外にも多数出演。子供ながらにその顔は俺でも忘れていないし、覚えやすいその名前を今でも記憶に残っている。しかもその演技力に関しては、あの名優と謳われた『
「あの“三人が”昔からの友達ってのはもう知ってるわよね。好きなのならば」
「はい、それはもう」
「私は
「あの三人がね、百合ちゃんと会ったのは“確か”大学生になってから。私達はね、その後に皆と出会ったの。もう年十年も前の話ねぇ」
「百合ちゃんって、
「ええ、そうよ。新菜ちゃん」
「だから津田のおっさんとも仲が良いのか。というか俺って、知らず知らずの内に凄い人と出会ってるじゃん!」
「だからさっきからそう言っているでしょう! 君はどこまで馬鹿なんだ! いいや、あほうだ!」
「なんだよ、あほうって! というかそんなことより俺を探していたって何なんだよ!」
「はぁ? 誰も探してなんていませんけど! 思いあがるのも大概にしときなよ! つーかしね!」
「口わるー、芹沢新菜ってこんな口悪いのかよー……TV向けに作ってるのかやっぱり。結婚しようと思ったのに」
「け、けけ結婚! なんであんたなんかとしなきゃなんないのよ! 勝手に決めんな!」
「うるさいなぁ、もうしないからいいよ。なんかマジで幻滅」
「こっちも幻滅よ!」
「はいはい、二人とも落ち着きな。映画の痴話喧嘩じゃないんだから。何と言うか、あなた達を見ていると、当時のあの人達を思い出すわ」
「あの人達?」
「そう、あの四人。というか勝っちゃんも、英ちゃんも、そしてげんちゃんも。みぃーんな百合ちゃんの事が好きだったからねぇ」
「え、そうなのですか! もっと詳しく!」
「急に喰いつくな、お前」
「誰がお前よ! 新菜って名前があるんですぅ!」
「さっき名前で呼んだら怒ったじゃん」
「今思えば滑稽だし、面白いんだけどねぇ。でも当時の百合ちゃんはそれ程の魅力があった。それがどういう事か分かる、芹沢新菜ちゃん」
「え、綺麗だったって事じゃあ?」
「はぁ、そんな事だからあなたは目先の惚れた男でさえ落とせないのよ。いいかい、彼女は後の天才と呼ばれる三人が惚れた大女優なのよ。その三人だけじゃない。当時、日本国民の誰もが彼女の、神木百合という役者に惚れたわ。名だたる数多の役者の頂点に立ったのよ。いいえ、あらゆるものの頂点に立ったわ。あれがカリスマと言うならばそれはとてつもなく恐ろしい……でも新菜ちゃんが目指している女優と言うのは元来そういうものなのよ」
「は、はい……」
「おお、急に静かになった」
「君もよ、さくらちゃん。神木百合は舞台でも負けなしだった。元々あの人達は、映像ではなく舞台研究会というサークルだったからね」
「映像ではなく?」
「ええ、みんな本当は生粋の舞台人なの。それは私達も一緒よ」
「あの、さっきから私達って……」
「うん、私も気になりました」
「ああ、座長よ。ゆうぐれ突撃隊の座長」
「おお! 座長か!」
「座長?」
「そう、『劇団ゆうぐれ突撃隊』の座長。俺達の座長だ」
「誰よそれ」
「だから座長だよ」
「だから誰よ」
「だから座長だよ」
「だからそれが誰なのかって、聞いているんでしょう! 君はどこまで馬鹿なのかな!」
「んな事言ったって……座長は座長だし。ああ、それよりさち子さん、ということは好きだったんですか! 座長のこと! いや~なんかそんな気はしてたんですよねぇ!」
「ふふふ、それは秘密。でも、同じ青春時代を彼と、皆と過ごしたわぁ。栄光もその後の絶望の中の希望の日々も……。でも私達はもうお終い。時代はね、何時だって移り変わるものなのよ。ちょうどあなた達みたいなのが現れるから、余計そう感じちゃうわ」
五郎丸さんならぬ、さち子さんでもならず、イルカさんはまたしても遠い目をして、煙草を吸いながらそう語った。その煙の中に、全ての青春の日々の画を映し出して懐かしむように。その横顔は確かに往年の役者の顔にも見えた。
津田のおっさんが何処か哀しそうにしている理由が分かったような気もする。そして何処か焦っているようにも見えたのにも。神木百合を愛し、振られ、そして嘗ての友人の一人は亡くなり、一人とは仲違い。故に自伝をやろうとしているのか。
「哀しい事に、百合ちゃんの再来と思った
「え、中野幸子さんもう長くないのですか」
「あっ、そうだった! 明日お見舞いに行かなきゃだったんだ。早く帰らないと」
「え、明日行くの。私も行く!」
「いやなんでだよ、新菜は部外者だろう!」
「なんでよ、私も会いたいの幸子さんと! というか下の名前で呼ぶな!」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ! さっきからめんどうくさいな――」
「はいはい、二人とも仲良くね。さくらちゃん、幸子ちゃんによろしくね。私は明日行けないから。それから、座長にもよろしく伝えてね」
1999年。8月10日。お盆前に、俺達は都内にある病院に来ていた。理由は幸子さんのお見舞いであるが、どうもそろそろやばらいらしいと先日、津田のおっさんから伝えられていた。病名は白血病という。よくは分からないが、なんとなくやばいって事だけは分かるし、これが最後なんだろうとも思えた。
それに俺と石田は、幸子さんと会うのは今日が初めてで、今日がもしかしたら最後になるのかもしれない。なんとなく、やるせない気持ちになった。しかしそんな気持ちとは裏腹に、世界は今も暑いし蝉も鳴いている。そもそも、なんでこんな都会に蝉がいるんだろうとも思ったが、暑さでそんな思考もあっという間に通り過ぎていく。
珍しく今日のミリンさんは酒の匂いがしなく、どうやら昨日は飲んで来なかったみたいだ。
「ああ、中野幸子さんの面会ですね。こちらです」。そう言って看護師は俺達を幸子さんの所まで案内した。しかし行先は病室ではなく、外にある中庭だった。
「病室では? たしか1103室かなんか」
「ああ、実は特別になんです。それに幸子さんが今日は皆様をここにと。さぁ、あそこですよ」。そう言って、看護師さんは俺達を病院内にある外の庭に連れて行き、幸子さんの下まで案内してくれた。
「桜が綺麗なんですよ、ここは。今は夏なんで見れないですけどねぇ」。微笑みながら、言い残して看護師さんは去っていった。
見ると、病院のここは裏庭になるのだろうか。都会の喧騒も忘れるくらい緑が一杯で木が沢山と茂っていた。変わりに鳴り響く蝉の鳴き声。なるほど、ここから聞こえていたのか。それにしてもさすが大病院。敷地内にこんなところがあるとは。そしてこの木が春になると桜の花を咲かせるとなると、それは確かに綺麗なもんだろうなぁと思った。そしてその庭の並木道の少し小高い丘の上に、車椅子で座っている女性の姿があった。横には二人の老夫婦。恐らく幸子さんのご両親なのだろう。
その人が
懐かしい感覚だ。昔、それこそ大友映画を初めて見た時の感覚と似ている。そう、初めて画面越しに神木百合を見た時の感覚に似ている。俺は直感した。確かに、彼女は神木百合の再来だ。それそのもだと。つまる所、俺の目の前には本当の役者がおり、それはとてつもないオーラを放っていた。霊感だとかそのような類は一切と信じないこの俺にでさえ、“ソレ”ははっきりと見えた。
それが嬉しかった。何だか分からないが、ソレを見れたことが心から嬉しかった。ああ、きっと俺は昔からこうなりたかったのだ。彼女のようになりたかったのだ。会った瞬間に人を屈服させる、その威圧感を俺は欲していたのだ。いいや、もっとこう複雑で何と言えばいいか……。
「幸子」
「津田さん、それにみんな」
邂逅、一番。口を開いたのは勿論俺達の大ボスでもある津田のおっさん。そして俺はふと思う。津田は一切怖気づいていない事に。大全も、他の皆も何時もとは雰囲気が違う。でも津田のおっさんだけはいつも通りの二日酔いのトーンで声を掛けやがる。ああ、思えば津田のおっさんは凄い人だ。きっとこんな、こんな人たちと沢山と触れ合ってきたのであろう。導いてきたのであろう。何せ、あの
「今日はわざわざ来てくれてありがとう」
「く、来るに決まっているであろう幸子!」
「加藤君。本当にいつもありがとう」
透き通るような声である。そして流暢で耳に残る。人の心を落ち着かせる。活舌が良いとはこの事か。
「ミリンも加藤君も、それに津田さんもよくきてくれるけど、他のみんなはからきしなんだから」
口元を抑えながら微笑をたたえるその様は、いいや、その一句一言、動作全てが絵になるような人だった。
「藤堂少年!」
「は、はいっ! というかなぜその呼び方を」
「ミリンから聞いているのです。どうやら新人から、そう呼ばれていると。あなたは本当に昔からそう変わりませんね。演技はいいのに、普段がダメだから後輩にも舐められるのですよ、
「あ、ミリンさんから……。はい、すみませんです」
「それに、ミリンの事が好きならハッキリと言う事! そうじゃないと逃しちゃいますよ? 加藤君みたいに」
「ええっ!」
おお、加藤プロが焦っておる。なんだこれ、初めて見たぞ、こんな加藤プロは。しかもちょー顔赤いじゃんかよ。そしてその百合の花はいつ渡すんだよ。
「
「いや持ち帰ると言うより、性能を試しているといいますか……」
「言い訳しない」
「はい、すみません。気を付けます」
「
「心得ているよ」
「ついでにミリンの事もお願いね、玄爺。機関坊だからミリンは」
「余計なお世話だ、幸子」
「それも、心得ているよ」
「私は大丈夫だよ、幸子。本当に君の皆を気遣う心には、私も負けるよ。君がいなければ、“ゆうぐれ”はここまで続かなかった」
「座長こそ、そのようなお気遣いはなさらないで。それに……見つけたのでしょう。私の変わり。凄い奴等だって、ミリンから聞いているわ」。そう言って、幸子さんは笑ってはいるが、笑ってはいない顔で俺と大全の方を見た。その目力に俺達は少し後ずさりしてしまった。
「あら、逃げなくてもいいのに。あなたが
「え、え、え、、す、すきです」
「うふふ、いずれ主役を喰らいたいと喰らってしまう自分が出てくるわ。先ずは抑える事。主役にもなれるでしょうけど、器ではない。世の中にはね、残念だけど役割があるの。天命に任された役割が」
「は、はい」
「で、君が垂水さくら君か。なるほど、津田さんが目に掛けるのも分かる。良い目と感性を持っていますね。さっき“見えた”でしょう。私がなんたるか」
「さっき、さっき見えました。禍々しいものですか?」
「へぇ君にはそう見えたんだ。まぁ、そうかもね。夢半ばでこの世を去るのだから。君には嫉妬もしているし、それを感じたのかな。隠す気もなかったけど」
やはり直感。この人はかなり危ないし、そして魅力だ。そう、ミリンさんが持っている人に自分の思いを伝える術とかそんなレベルではない。この人は危険が過ぎる。いいやしかし、これが役者の本質なのか?
「君は、何になりたいの?」
「なにに?」
「そう何に」
言いたい事は分かる。映像か舞台にかだ。
「舞台役者です」。ふと、いや何も反動が無いかのようにスーっと声に出た。ええ、なんだなんだ。俺はそもそも何で此処にいるんだ? 芹沢新菜と結婚するため? でもあいつはどうしようもなく口が悪い。ではなんで役者をやりたいんだ? そしてなんで俺は今この瞬間、この人の前で舞台役者になると言ったんだ。好きだからか、そう好きだっんだ。人前に出る自分が、何時もとは違う自分がそこにいるのが、何よりヒーローになりたかったのだ。
「私は明日にも死ぬ命。単刀直入に聞くわね。誰にも流されず、権力にもお金にも、恋にも流されず。君は一生舞台役者でいれる自信はある?」
「自信はありません。ですが自信はあります」
(自分が自分では無くなる瞬間――それは、誰もが追い求める変身願望そのものではないか。誰もが自己のしがらみから解放される自由な瞬間ではないか。芝居とは、それそのものではないか)
「――自分を変えられると思ったからです。ただ、今の俺が思うのはそれだけです」
「ふふふ。では、君のお芝居を見るまで私も頑張ってみようかな。みてみたいもの、君のお芝居」
「それは是非。まだ芝居のいろはも分かりませんが。それに幸子さんのお芝居を見ないままでは俺も嫌です」
「ふふふ、上には上がいるわよ。沢山ね」
「敵ではございません」
幸子さんはそう言った俺に対して、凄く笑った。凄く凄く笑って、津田のおっさんの肩を叩いていたのであった。とにかく俺はこの日、五郎丸さんが言っていた本当の大女優と出会った気がする。いや出会ったのだ。確かに。カリスマの化け物に。
「お、ようやく来た。いい加減その遅刻癖、直せよな」
「うるさいわね。
「あー、はいはい。永井さんがお呼びだぜ。なんでも大事な話らしい」
「どうせ、来年の公演の事でしょう」
「いや、どうやら今年らしい」
「はっ?」
「それも師走の月末で一か月間」
「はぁ? じゃあクリスマスはどうすればいいのよ!」
「知るかよ、それに相手いないだろう」
「進君もいないくせに。なに、相手してほしいの?」
「件のゆうぐれ突撃隊と共演だってさ」
「えっ?」
『好きなんだよ! どうしようもないくらいに!』
『そんなの分かってる! でも一緒にはなれないのよ!』
『なんで、関係ない。あいつらなんて……!』
『そんな風に言わないで! みんな仲良かったじゃん! こんな、こんな関係で私は映画を撮りたくない! なんでなんで仲良く出来ないの!』
『大嫌いなんだよ、大友も永井も! 昔から嫌い合ってたんだよ、俺達はっ!』
『嘘つきっ! げんすいなんか大嫌いだ! あなたは役者の私しか見ていない! 役者の本質しか見ていない! 人の本質なんか見ようともしていないくせに!』
ああ、そうだろう。見ていないから俺は演出家なんだ。俗世の戯言なんか聞くかよ。役者なんて、所詮人形だ。だから俺はやるんだよぉ、最後まで演出家らしくよ。男なら一度決めた道を行くのが道理だろうが。俺はいく、何が何でも行く。俺は利己の中の利己を行く。
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