東京詩的おでん

 1999年の世紀末。世界と言う時代は目まぐるしく動き続けている。しかしながら、ノストラダムスの大予言はこの年の7月に世界が滅亡すると吹いていたが、何はともなく7月は終わり、無事この世は8月の夏を迎え入れた。相変わらずと暑い夏の始まりだ。蝉の鳴き声は世界滅亡回避を嬉しく思えているように例年以上に鳴き続けている気がする。それもそうだろう、蝉にとっても急に7月で終わりますと言われても、たまったものではない。それもまだ地中には自分達の子孫もいる。俺達は来年も鳴くし、その来年も鳴く。外から聞こえる蝉の声は、俺にはそう叫び続けているかのふうに思えた。


「おい、石田いしだ。そろそろ、起きろ。稽古に行くぞ」

「おおー、なんだえらい早起きだな。垂水たるみ


 同じ部屋に住んでいる、石田がまだ眠そうな声をあげつつ瞼をこすりながら起きた。六畳一間に男二人が住むには少々狭いが、如何せん俺達には金がない。しかし、夢だけはあった。売れたいという夢だ。無論、役者でである。


「つーか、蝉の声がうるせぇなぁ。もう少し後になってから鳴いてはくれないか」

「まぁまぁ、蝉も喜んでいるのさ。世界が終わらなかったのを。蝉もそう言っているような気はしないか?」

「なんで最近お前は詩的なんだよ。はぁ、すっかり役者だなぁ垂水は」

「それはお前もだろう」

「はっ、そういやそうだった。行くかぁ、稽古」

「そう言って、煙草に火を点けるな」


 石田にぶつくさと文句を言いながらも、俺も煙草に火を点けた。夏の日差しが降り注ぐ朝焼けの窓を見ながら。扇風機のゴーと言う音と共に、煙と薄いカーテンを揺らした。片付けられていない食器に、カップラーメンの容器は残ったスープがまた少し。エアコンの無い六畳一間のボロアパートの一室。当時の俺達がいたのはそんな、一室の夏の朝の中だった。





「ちぃーす」

「ちぃーす!」

「おう、さくらに大全たいぜん。今日は早いじゃないか」

「珍しいね。それにお酒の匂いがしない。昨日は飲んでないんだ」

「そ、そんなぁ座長。毎日毎日飲みませんってばぁ」

「おはようございますー」。そんな折、一人の美少年が入って来た。名前は藤堂長助とうどうちょうすけ。名前だけは古風なやつである。先輩ではあるが。

「うわっ、少年! 酒くさっ!」

「うわ、ほんとだ。絶対飲んでたじゃん」

「いやいや、飲んでない飲んでない。つーかその少年呼びはやめろって」。そして役者の癖に“嘘が下手”である。致命的である。

「飲んでただろー、俺とさっきまで」。藤堂少年の次に稽古場に入って来た人が、ミリンさん。髪は長い金色で、胸はでかい。そして背も高くモデルみたいな体型をしている。

「あ、朝まで飲んでだのは二人だけの秘密にしようぜって、ついさっき言ったのはミリンさんでしょうが! すぐに言う! いつもそうやってすぐに言う!」

「うるせー。お前が酒くさいのが悪い。大体アルコールの分解が遅いんだよ長助は」

「ミリンさんが化け物なだけでしょうに!」

「あー、うるせーぞ。お前等朝っぱらから。お、今日は全員揃っている日かぁ。ちょうどいいな」


 そうこうしていると、二階の事務所から津田のおっさんが降りてきた。見れば分かる、津田のおっさんも二日酔いだと。きっと昨日も深酒をしていやがったなぁ、このおっさん。最近は毎日二日酔いだって顔をしていやがる。

 そうそう、五月末に新宿スペース105で上演された「劇団ゆうぐれ突撃隊」の公演は大成功と言っても過言ではない形で幕を下ろした。理由は主に、まぁ津田のおさっさんが、津田源三郎つだげんざぶろうという男が井崎玄瑞いさきげんすいという、これまた本当に有名な演出家であった事がマスコミにリークされた事にもよるんだが、大切なのは中身であろう。そう、舞台に立っていた役者が本物であった。

 そう言えば、俺達の公演が終わってから出た新聞記事の一文を気に入っている。

「井崎が最後に残した時代の役者達もうしごたちの輝かしいほど眩しい朝焼けの実力」。悪くない、悪くないよぉ、これを書いた人。名前は分らんが、きっと大部分は俺の事を指しているのであろう。何故ならばこの俺は主役だったのだから。センスがある人だ。何時かこの記者は大成することであろう。


「んで、なんですか。津田さん」

「今日は、何か重大発表?」

「さくらも大全。お前達もこの数か月で随分と力をつけてきたな」

「そりゃあなぁ、天才だもん」

「お前は遠慮と言う言葉を知らないのか、さくら」

「座長ー、これ新調したんです? 欲しいなぁ持って帰っても?」

「ダメに決まっているでしょう、山北やまきた君。きみは何時もすぐに備品を持って帰ろうとする」

「あ……だめ。吐いてくる――」

「あはは! 情けないなー相変わらずー! そんなんじゃ俺は口説けないぜ?」

「えっ。藤堂少年、ミリンさんを口説こうとしてたんすか」

「ああ? なんだ知らないのかよ、初めて会った時から長助は俺にホの字なんだぜー?」

「ホの字って、なんか少し古いっすよミリンさん」

「古いってなんだよ、さくら。お前だって俺の胸ばかり見ているじゃねーか。気付いてないと思ったかぁ?」

「ッな! 見てないですもん!」

「お前等うるせーよ! それで津田さん、話ってのは」

「やっぱ加藤かとう君がいると、こうピリッと引き締まるねぇ。ありがとうね」

「座長が普段からもっとしっかりしていれば――あ、いや。すみません、何でもないです」

「……なぁさくら、そういや座長さんって怒ると怖いんだっけ?」

「と、聞いている。主に加藤プロからにだが。俺も見た事ねーよ。あんなに温和そうなのにな」


『次の公演が決まった。場所は池袋サンシャイン劇場』


 瞬間、それまで身勝手に談笑していたはずの皆が動きを止めた。そして、その劇場は俺でさえも耳にした事があった。おおよそ、小劇団が単独で公演するところではないことも。そして、一番感嘆していたのは加藤さんだった。


「……まじっすか。津田さん」

「まじだ」

「スペース105が借りれたことも、奇跡みたいなもんだった。はははっ、まじかよ。まじで俺達があそこで? 夢の中の夢だった。あの劇場に立つ事が」

「す、すごい所なんすよね? 俺でも聞いたことがある劇場だ」

「映画上映とか、コンサートもやっているねぇ。収容人数は105の倍近くあるよ。二階席もあるからね。君達二人は初舞台があの人数だったから、分からないかもしれないけど、たしかにこれは……」

 座長も感極まって泣き始めた。山北さんも、ミリンさんも、そして普段は無口な玄爺げんじいでさえ、目頭に涙をためていた。加藤さんに限っては、トイレで吐いている藤堂少年に喜びをぶつけるかのようにドアを叩いていた。


「おい藤堂! 聞いたか、池袋だ! サンシャインだ! とうとうやったんだ俺達はよ! あの“ブラックボックス”の主戦場だぞ!」

「きごえでますよぉ……じってますってぇ、やったじゃないっすかぁ。でも、今は本当にちょっとまっでぇ……嬉しくて気持ち悪いぃ。ああ、じくじょう」。トイレの扉越しに聞こえる藤堂少年の昨夜の後悔。その中に、嬉しさがあると誰しもが分かっていた。しかしながら面白い奴だ、吐きながら嬉しさを表現するとは。役者とはこう斯くてあるべきなのかもしれない。


「演目は?」そんな中、普段喋らない玄爺が口を開いた。

「演目かぁ。長期公演の段取りを組んでいてなぁ、実は」

「ああ、一か月とかやるやつ? でもそれってこの人数で出来るの?」

「キャストも変わるから、長期は出来る。客を飽きさせないためにな。大手しか出来ないお金儲けだぜ、津田さん」

「分かっているよミリン。だから、一か月の内に演目を変える。それも三部作に分けて」

「三部作って、津田のおっさんよぉ。それは正に人気の映画じゃねぇかよ」

「そうだよ、。前に言ったろ? 舞台とは生放送で映画の一本撮りをやっているようなもんだと。その映画をやる」

「とうとうぼけたか? おっさんよぉ、二日酔いが三日酔いくらいになっていないか?」


「自伝だ」

「そうね、自伝ね。自伝?」

「俺の自伝をやる」

「はっ?」


「……それで、サンシャイン劇場をか。『演劇集団ブラックボックス』のホームとも言える劇場じゃ。永井英介が許すはずがないと思っていたが、それでか? げんすい?」

「ああそうだ、玄爺。最後まで迷惑を掛けるよ」

「全くだ。それでも、貴様がやると言うならばやってやるよ。座長もそうだろう?」

「ええ、はい。勿論です」

「意味が分からないな。でもまぁ、凄い所ならやってやんよ、津田のおっさん」

「おお、頼むさくら」

「なんだ? 今日はやけに潮らしい。もしかして五日酔いか?」

「まぁそんなところだ」

「いや、控えろよ」


「それから、もう一つ。喜ばしい事の話のあとに申し訳ないが。幸子ゆきこがいよいよだそうだ。明日、皆で行きたいと思う。極力予定は空けておいてくれ。時間は正午にここに集合。そこからみなで病院に行く。恐らく最後の別れだ」


「なんと……結局同じ舞台には立てずか」

「おいさくら! 今はそんな話は――」

「いやいい、大全。さくらの言うとおりだ。役者は舞台上に立ち続けなければならない。例え泥水を啜ったとしても……しかし死ねば全ては終わりだ」

「加藤君、無理はしないでね。一番仲がよかったのは君だから」

「そうだなー、昨日も一昨日も毎日行ってるもんなー、加藤は」

「な、なぜそれを」

「俺も毎日行ってるからなー。加藤君は毎日来るって。あいつ喜んでたよ。好きなら好きって言っちまいなよ? 後悔するぜ、このままだと」

「だから好きではないと」

「それを好きって言うんだよ。まぁ、役者に好きという感情は不要だけどな。なぁ、さくら」

「なんでそこで俺に振るんです。分かりませんよ、僕にはそんなこと」


『はいはいっ! 朝のミーティングはここまで! 稽古を始めるよ、みんな! さぁ今日も頑張っていこう! 役者に何があれどしなければならないのが、芝居です! 全ての気持ちを芸の肥やしにしなさい! 何せ経験が物を言う世界ですから! 全ての思いを舞台上でぶつけてこそです! さぁ準備運動、準備運動!』



「――ああ、津田さん、玄爺」

「ん、どうしたミリン」

「改めて、ありがとうな」

「お前の為ではない、これは俺の為でもある」

「知っているよ。それでも言いたかった。玄爺にも」

「げんすいには、沢山と迷惑を掛けられたさ。今更じゃ。それにミリン、それは君もじゃよ。ここは良い所じゃったか?」

「……ああ、そうだなぁ。良い所だった。幸子とも出会えた。それに――」

「垂水さくらに、石田大全か。俺も最後に良い役者と出会えたよ。それはミリン、お前にも言える事だ。後悔はしてねぇさ、俺は最後までお前をここに迎え入れた事を」

「さすが、世界に轟く映画を作った演出家だ。悪い話だが、この前の公演で当局は俺を掴みかけている。だから、その時は」

「なに、俺ももうすぐさ」

「だから自伝なんじゃろうが」

「まぁな」

「……この劇団はどうなる」

「玄爺がいる。それにあのバカな二人も。しかも一人は天衣無縫の役者ときた。有事の際は五郎丸ごろうまるさんに事を頼んである」

「……天衣無縫かぁ。俺もなりたかった」

「あれは才能だ。諦めろ。そしてミリンは必ず帰ってこい」

「それこそ当局次第さ」





 1999年8月1日。その日の朝は、いやと言うほどに空は晴れていたのに夜になると雨模様となっていた。夕立ではなく、纏まった雨であった。ガタンゴトンと揺れる電車に乗り、帰路につく。調布から両国へ。果てしなく遠い時間である。一時間半くらいかかる。徒歩の距離も換算してだが。

 久しぶりに、五郎丸さんがやっているおでん屋に足を運んだ。今日はバイトも休みで、石田は用事があるとかで新宿で降りていた。なので、今日は久しぶりに一人で飲もうと決めていた。


「……あら、いらっしゃい。久しぶりね一人は。熱燗でいいかしら」

「ええまぁ。はい。あ、あと」

「大根と玉子とちくわでしょう」

「ああはい、なんかすみません」

「今日は急に降ってきたわねぇ。朝はあんなに晴れていたのに」

「ですねぇ。あ、うまい相変わらず」

「そりゃそうでしょうに、私が作ったおでんよ。……何かあったの?」

「まぁはい。嬉しい事とか寂しい事とか。なんか、もうじきらしいんですよね、幸子さん。五郎丸さん色々と知っているんですよね? なんか昔の事とか」

「……まぁねぇ、昔からの馴染みよ。勿論幸子ちゃんともね。懐かしいわ、本当に――」


なーんにも分かっていないのねぇ、信じられない! この人は藤田五郎丸ふじたごろうまるさん! あの大友映画にも出ていた名脇役なのよ! 知らずにこんな伝説の人と話している何て、あなたそれでも役者の端くれでしょう! 信じられない! いや名乗るな、もう名乗るな役者と!」


 雨が降る夏の夜、おでんの屋台で思えばもう一人客がいたと今更になって気が付く。それもこのような場所に似ても似つかわしくない、若い女性だ。目立たない服装にハットの帽子。逆に目立つその服装に気付かなかったのは、俺が可笑しかったからかなのか。幸子さんの話を聞いたからか、サンシャイン劇場に出れると浮かれていたのか、いいやそれとも、津田のおっさんの二日酔いの異常さに気付いていたからなのか。それが勘違いであってほしいと、今日この日に一人で五郎丸さんに確認をしたかったからなのか。

 とにかく、気が付かなかった。普段は絶対に気付くはずなのに。目の前の相手が誰なのか、あの日の舞台も言っちゃあ悪いが、彼女だけを見ていた。だから、これは雨のせいにした。自分が可笑しいのは雨にせいにした。


「だから、私は“さち子”だって言ってんでしょうがぁ!」

「いいえ五郎丸さんですぅ!」

「このアマぁ!」


 雨脚は更に強くなり、雨音は近くを走る総武線の音も、雑踏の音も、店から流れるラジオの音も聞こえなくなる程だった。それでも聞えてきたのは、二人が喋る怒声の音。傍から見るオカマと美少女が喧嘩をしている様を見て、俺は何だか映画のワンシーンみたいだなぁと思った。


 そして気付いた。「芹沢新菜せりざわにいなじゃん」


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