訳無い少年心と喝采


 東京、新宿。都会に流れる人々の波はまるで何時もの如く流れてはまた流れ、五月最後の夜を謳歌していた。ある者は真っすぐ家路に着き、ある者は何かやり残した事はないかと酒を煽っていた。ある者は愛する人が待つ家に、ある者は孤独が待つ家に、ある者は周り続ける環状線を今宵の終の住処とした。此処は大都会東京、日本の首都である。明日をも知らない者達で埋め尽くされているのだ。今宵も人々は、それぞれの皮算用で生きていた。明日をも知らない未来に不安と希望に心を躍らしながら。





『いつか私を知る事が出来たならば、私は必ず君の役に立とう』


 JR新宿駅西口を出て、徒歩五分。繁華街の中にある大きなビル、その地下1Fに劇場スペース105はある。満席となれば500人は収容できる劇場だ。(立ち見客を含む)しかし、今日はそのキャパを大きく超え550人近くの人で溢れていた。あまりの人の多さに場内は少し蒸し返す暑さだ。慌てる様に空調がゴーゴーと音を立てているのが分かる。照明が落ち辺りが真っ暗闇になってから数十秒。透き通るような声で聞えてきたのは、そんな台詞だった。


『いつか君が真の意味で“私を知る事があるならば”、私は君を照らす光になろう』


 やがて一つの照明が明るくその声の主を照らし、私達はその声の主が一人の女性であることを認識する。開いた瞳孔は少しづつ収束していき、黄金の髪をした女性を皆が見つめた。500人を超える会場で、そう叫んだ彼女の声は劇場の奥まで確かに鳴り響いていた。それは、申し分ない声量であった。


――このしがない小劇団の公演に、ここまで客が入った意味には勿論理由がある。一つは、この小劇団の看板女優でもある『中野幸子なかのゆきこ』の存在だ。彼女は巷では、嘗ての映像世界を圧巻した神木百合かみきゆりの再来とも言われている。もう一つはこの劇団の演出家が、その神木百合を有名にした『大友映画』の演出家であったこと。名前は井崎玄瑞いさきげんすい。恐らくマニアなら知らない者はいないだろう。“昭和の日本映画界を支え続けた大友勝利おおともかつとし”監督。彼と共に挫折と栄光を、青春と矜持を懸けた者達。その生き残りである。


 そして、時代が新しく“映り替わる”としている瞬間、井崎はこの公演を以ってしてこう叫んだのだ。

『私はまだ“此処にいるわ”。だから、早くおいで』。津田源三郎、いや井崎玄瑞が想稿の『ヨダカの星』の開演である。

 この台詞により、主演を務める垂水さくらは舞台役者としての最初の一歩を踏み出した。後にも先にもない、彼の最初で最後の初登壇。初めての舞台である。


(のっけから台詞違うじゃんかよミリンさん! マジでアドリブなのか、これ……。無理だろマジで……。いいや、やらなければならない。何が何でも成し遂げなければならない。新菜にいなが見ているのだから!)



「お、出て来たな。ヨダカ役、あれが主役か?」

すすむくん、声が大きいよっ。でもなにあれー、動きがカクカクだ。ド素人じゃん、見れば分かるくらいに」

新菜にいなのほうが大きいだろ。そういう演出なんじゃないか? だって想稿ヨダカの星だ。あの井崎玄瑞ならば役者にそういう指示だって――」


『――ああ、僕は何処に行っても何処に行けど仲間外れだ。僕は一体どうすればいいというのか』これが“垂水さくら”による、これまた最初で最後ともなる舞台の初台詞だった。


「なにあれ。演出とかじゃないでしょ。見れば分かるし、聞いたらもっと分かる。お芝居が下手と言うより」

「素人そのものだな。あれが主役?」

「さっきのナレーション役の人は上手かったよね。惹き込まれたもん、この私が。一人で何役も最初にやってたし」

「確かに。だから余計に酷さが際立つ。これが狙いか?」

「お前等二人とも声が大きいんだよ。さっきの役者はリ・ミリンだろう。中国人だ。噂は聞いたことがある。完璧な容姿に完璧な日本語。そして日本人の独特の感性を中国人ならではに理解し、それを観客にぶつける」

「へぇ? 中国人なんだ。日本生まれなのかな」

「いや、中国生まれ中国育ち。それであの演技だ。相当努力したんだろうな、並大抵の努力であそこまで流暢な日本語と表現力はできない。間違いなく一級の役者だよ」

「それはもかな、永井ながいさん」

「……お前がいずれ世界に行こうと言うなら、ああいう役者はみておけ」

「なにそれ。なんかむかつく」

「おっ、また一人出て来たな。背が高い。あれは上手いだろう、そんな気がする」


『おい、居るかい。まだお前はを“かえないのか”。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれではよっぽど人格がちがうんだよ――』


「あっ、いいかもぉ」

「上手いな。それに立ち方、魅せ方も。己の武器を知っている」

「そりゃあ、ある程度はいってもらわないと困る。あの井崎が手掛ける劇団だ」

「あっ、今出て来た人! あれも絶対素人だ~」

「だから声が大きいって。今日俺達が来ていることは知られたら不味いんだから。ただでさえ新菜は可愛いくて目立つんだから」

「え、なにそれ? なになにー進くんー。私の事、可愛いって思ってるんだ?」

「それより永井さん、いくらなんでもこれは酷過ぎるのでは。確かに上手い役者もいますが、素人を二人出していますよ? それともこれが井崎玄瑞の演出というものなんですか? 言ったら悪いが、上手いと言ってもあのレベルの役者はブラックボックスにだってたくさんいますよ」

「へー、そうなんだ。今度見に行こうかな」

「いや、まだ見た事なかったのかよ! お前……永井さんがいる前でよくそんな事を言えるなぁ。ウチの主宰だぞ、一応」

「へへーんだ!」

「……何かがあるんだろうな。あの二人に」

「何かとは?」

「進、新菜。お前達はこれから先この世界でてっぺんを獲る役者だ。だが見ておけ、下から這い上がってくるやつがどれだけ凄いかを」

「……永井さん?」



 またアドリブじゃねーか! なんなんだよ、なんなんだよぉ! この人達正気か? こんなんじゃ物語そのものが成立しないだろう! ミリンさんも加藤かとうさんもずっとアドリブ! いやいや、あの稽古の日々は何処にいった? みんなこれ台詞を覚えたくないだけだろー! いや違う……そうか、そういうことか。

 台本は確かにあった。でも簡素なものだった。驚くほどに簡素で、しかも台詞が書いてあるというよりは、場面場面の粗筋しか書いていない。後にあるのは本当に重要な台詞だけ。この劇団は……恐らく――。


『ならばこそ、私はあなたの役に立ちたい! ああ、いま分かってしまった。私はいまになって分かってしまった! 何も無い私です、何も無い鷹です! いいや、鷹にも鳥にもなれません! だから私はあなたを知りたいのです!』


 さんがいるからだ。この人は文字を読めないんだ。確かに即興アドリブは津田さんの趣味だろう。それでも玄爺げんじいが言っていたそれに特化しているという言葉がずっと頭の片隅に引っ掛かっていた。この劇団はミリンさんに合している。この人が中心なんだ、この劇団の。そして、それぞれの心情を瞬時に読み解き、最適の台詞の掛け合いをしている。“これは即興なんかではない”。永年培ってきた

 そうかいそうかよ。津田のおっさんがそこに俺達二人を引き合した意味が今なら少し分かる。きっと俺達は、最後の仕上げの隠し味に過ぎない。ここで俺達がいつもの通り掻き回す。この出来上がった『ゆうぐれ突撃隊』を俺達が入って混ぜ回す。それによって起こる化学反応。その先に何が待っているのか……果たして俺には分からない。とにかく俺はきっと普段通りでいいんだ。そう。“いつものように喋るだけ”だ。


! 知ればそなたは幻滅するであろう。だから寄るな来るな!』

『しかし、寄らねば私は“ヨダカの星”になれません!』

『ならばこっちに来れば良いではないか! ヨダカよ!』

『いやいや、さっき名を捨てろと言ったのはあなたではないですか! たかさん!』

『それは俺の本名だろうが!』

『いや、役の名前でもありますよ!』


 それまで少し静寂に包まれていた空間が、一瞬にして大勢の笑い声に満たされた。そしてその笑い声はしばしの間、絶えることは無かった。笑い声が絶えない……つまりかなりウケたのだ。役者は観客が鎮まるまでしばし間を待つ。それでも絶える事のない歓声は舞台上の役者を困らせた。


(なんだこれ……セリフを今喋っても聞えねーな。ああ、これが噂に聞く“笑い待ち”ってやつかぁ?)


『ヨダカさん、早く名前を捨てて星になってくれませんかぁ? そうしないと舞台が終わらないんで』

『いやいや、それでさっきから、君は誰なのですか!』

『夜空ですよ、そらです。ヨダカの空です』

『いや、概念が役なんかよ――!』



 やがて物語は終幕近くとなり、拍手喝采が鳴り止まぬ中、舞台の幕は閉じた。閉じたあとも天に届く程の喝采は鳴り止むことはなく、カーテンコールは何度も続いた。これはそれ程の舞台であった。そして誰もが認めた。改めて津源三郎の否、井崎玄瑞のその実力に。そしてその井崎が最後に残した時代の役者達もうしごたちの輝かしいほど眩しい朝焼けの実力に。





「永井さんは、最初から気付いていたんだ。の凄さに。……試したのかな、私達を」

「気付いていないさ。途中までアレは本当に素人だった。でも変わった。本番中に何かが吹っ切れたか――」

「“うそつき”。最初から気付いていたでしょう。私、分かるもん。永井さんの眼が違った。隠してた。何で分かったの?」

「まぁまぁ新菜。永井さんは分からなかったって言っているんだ、今はいいじゃないか」

「進君! 君は悔しくないの!」

「え」

「あんなの見せられて、魅せられて! 役者失格だよ! しかも進くんの同業じゃん!」

「それでも実績も実力は俺達の方が上だ。はこの世界に沢山いる。それは新菜も知っているだろう? 俺達はこれからそいつ等と戦っていくしかないんだ。そして勝つしかない。しかし、下から這い上がってくる奴等もいる。それを忘れるなと永井さんは言いたかったんじゃないのか?」

「そんなことはわかっていますぅー! ばーかばーか! ばか進くんめー!」


「上にも下にもいてお前達は大変だなぁ。でもなぁ良かったろ、見に来て。あれが井崎玄瑞、いや今は津田源三郎か。あれが俺達の敵だ。“あの素人”、気ぃつけろよ。んじゃあ俺は帰るわ」


「……かえちゃった」

「いつもそうだ、あの人は」

「気をつけろって」

「新菜はどう思った?」

「進くんが言うまで言わない」

「演技力はゼロに等しい」

「でも」

「ああ、あれは“間”の化け物だ。会場に起こったあの笑いがそれだ」

「精鋭揃いのブラックボックスにもいない?」

「いないな」

「へぇ、面白いじゃん。名前なんていうんだっけ。覚えて帰ってやろうかな」





 遠くない未来、恐らく小中劇団は淘汰されるだろう。それでも役者の演技力を培うのは舞台ならではの緊張感があるからこそだ。当時の俺達がそうであったように。

 田舎の大学の、それも小さな活動の中で俺達は出会った。そして後にそこから一人の歴史に残る大監督と、一人の大女優を生み出した。……私こと、永井英介ながいえいすけと呼ばれている至宝一人の稀代なる脚本家もだ。そして皆、仲が良かった。

 だがしかし、面倒な男が一人いた。初めて出会った“小学生の頃”から偏屈な男。『くそ野郎』と言っても過言ではないだろう。名は井崎玄瑞。当時から大嫌いで、今でも大嫌いな人間だ。しかし、その井崎がの才能を開花させやがった。


『俺はよ、歌劇は好きじゃねぇんだ。“俺達”には煌びやかな舞台は似合わない。泥の中にこそ光る原石もあるってもんだ。いいか、俺達は太陽から逃げるんだよ。夕日に突撃するんじゃない。夕日を背にして走るんだよ。逃げに逃げ続ければ、いずれ出会う。朝日とな。そうしてそこで漸く、朝日という名の太陽をぶん殴るんだよ』


「大層な。そのお前の訳の分からぬ少年心が、百合ゆりを殺したんだ。もう一度太陽をぶん殴るつもりなら、この俺が止めてやる。役者は消耗品じゃねーんだよ、げんすいよぉ」





 “移り行く時代”の中、逞しく生きていた者達がいた。激動の平成初期。彼達は正に其処に生きていた。嘗ての昭和の栄光を胸に掲げ、彼達も生の中で歩を進めんとしていた。――これはそんな時代の中、逞しく生きた舞台役者達の話である。

 不思議な事に彼達というものは何時になっても、時代と言う夢を謳歌し、刹那に人生を歩み、そして舞台上で最後まで輝いた。泥水を啜りながらも板の上に立ち続けた。


 これは“そんな夢”に取り残された、舞台役者達の物語である。

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