夕立の屋台にコスモスは咲く

『よだかの星』。宮沢賢治みやざわけんじの短編小説の一つである。

 容姿が醜い「よだか」は美しい鳥達の兄でありながら、鳥の仲間からは忌み嫌われ一人きりだった。同じ名前を持つ「たか」からもを勝手に使うなと言われる始末。鷹から改名を強要された「よだか」は故郷を捨て、自分の居場所と存在を探求した。しかし、自分が生きるために「虫たち」を食べる己に対して激しい自己嫌悪に陥る。何のために自分は在るのか? 何のために自分は生き永らえようとしているのか? 醜い容姿に立派な名前。もう焼け死んでもいいと太陽に願うも、お前は「夜の鳥」だからと断られ、星々にもお願いをするもまるで相手にされない。

 やがて居場所を無くした「よだか」はその命を懸け、精一杯に飛び回り自らの命を燃やし続けた。そしていつしか青白く燃え上がる「よだかの星」となり、今でも燃える存在として闇夜を照らしている。



「あら、いらっしゃい。いよいよじゃない、本番。今日は深酒しないようにね」

「言われなくても分かってらぁ、五郎丸ごろうまるさん」

「だから“さち子”だって言ってんでしょうが!」

「ところで、あの“二人”は来るのかい?」

「最近はあんまりね。バイト終わりに一杯引っ掛けるくらいかしら? まぁ小料理屋でアルバイトも始めたことみたいだし。ほら、稽古もあるんでしょう? あ、今日は牛スジあるわよ」

「おお、珍しいな。関東にはない具材だ。あと熱燗も頼む」

「その二人が入れろ入れろってうるさいのよ。関西では普通なのよね、おでんに牛スジは」

「ああ確か神木かみきもそう言ってたかなぁ……」

「そういや、百合ゆりちゃんも京都出身だったわね……。あら、やだやだ。雨が降って来たわ。夕立かしら?」

「夕立って、まだ早いだろう。夏はまだ先だ」

「でも、もう五月も下旬。それに今日は暖かかったから。もうすぐ梅雨よ」

「嫌いな季節だ」


 そう、神木が死んだのは丁度今日みたいな雨が降っている、梅雨の季節だった。大友おおともが亡くなったのも同じ季節、そして同じ日。同じ日のだった。恐らく神木は敢えて“その日”を選んだ。何が彼女をそうさせたのかなんて……もう分かり切っている。彼女は大友に恋をしていた。学生時代からずっとずっと。俺は敵わなかった、とうとう大友には最後の最後まで敵わなかった。

 それでも俺は大友に勝とうとした。大友勝利おおともかつとしにどうしても勝ちたかったのだ。死んで勝ち逃げしやがったあの野郎にどうしても勝ちたかった。その夢に神木を付き合わせてしまった。


「……まだ後悔しているのかしら?」

「してるからこそ、まだこうやって情けなくおめおめとこの世界にいる」

「それは津田つださんも“英ちゃん”も一緒じゃない」

「俺を“英介”と一緒にするな」

「男三人に女一人。そりゃあ取り合いになるわよ。それに百合ちゃん美人だし」

「俺はちげーよ」

「あら、本当かしら? 当時、誰がどう見たって津田さんは百合ちゃんに恋してたわよ」

「だからちげーよ、俺と神木の間にはもっと複雑で、こうなんというか」

「それをっていうのよ」

「……そうだとしたら世知辛いなぁ。最初で最後の初恋だ」

「誰もが最初はそう思うわ。熱燗、おかわりいる?」

「ああ頼む、さち子さん」


 平成十一年の五月二十九日。日中降り注いだ陽射しによって暖められたアスファルトは、微かに夏の匂いを感じさせていた。日が暮れると少し肌寒く、雨が降った事により丁度良い熱燗を飲む気温となっている。まだ少し、上着がないと肌寒い。そんな気温にそんな季節。この雨は恐らく春の終わりを告げ、夏の始まりを示している。


「そういえば、演目は宮沢賢治のよだかの星なんですってねぇ。本当に懲りない男」

「だがには持って来いの演目だ。それに当の本人も自分の名前にコンプレックスを抱えている。男なのに女みたいな名前だってな」

「顔は可愛い顔してるじゃない、いっそのこと女の子になってしまえばいいのに」

「……あいつの心は男だよ。それに誰もがさち子さんみたいに強いとは限らないだろう?」

「それ、嫌味かしら? 強くなんてないわ……ただ必死に誤魔化してるだけよ。“自分自身を”」

「なぁ、もう一度やらねぇか? “あの時”みたいによ。前に言ったろ、座長も待ってるって」

「“彼”……元気してる?」

「ああ、元気にやっているよ。皆の精神的な支えとなっているし、リーダーには持ってこいだな。相変わらず実家からはりんご農園を継げと催促が来るらしいが」

「継げばいいのにね。そうしたら年収なんて軽く何千万よ」

「それでも舞台役者を続けたいんだろう」

「それでも、きっと未だに演技はからきしでしょう……」

「五郎丸さんと二人でやれば無敵だったけどな。懐かしいなぁ、あの日々が」

「場末のスナックに、寂れたバー。小汚くて狭い居酒屋。よく営業回りしてたわねぇ。あなたの映画製作費用を稼ぐために」

「まだ終わっちゃあいねぇさ」

「珍しく心酔してるじゃない、垂水たるみ君に。私はまだ見ていないけど、どうなの?」

「玄爺もミリンも認めた。他の奴等もな。表現力はまだないし、演技力の点で言えば座長よりひどい。それに活舌も悪いし、鼻濁音も無声音もできちゃいねぇ。それでもあいつは舞台役者に求められる物を持っている。誰もが羨む物を」

「“”ね……これだけは生まれ持ってのセンスというか、技術云々じゃないわ。関西人だからという訳ではなく?」

「それも関係ある。ようは、生まれ持ってのの天才が“最上の環境で育った”ということだ。聞いてるだろ、あいつら“二人”の会話。あれだけでそこらの漫才師や落語家より面白い。それに、さくらの間は他の役者のモチベーションを上げる。噛み合うんだよ、全員の台詞が。底上げしやがるんだ」

「それって」

「ああ。間違いなく『垂水さくら』は【天衣無縫の役者】だ――」





 1999年――平成11年の5月30日。大都会東京のこれまた大都会の新宿の一角にある『スペース105劇場』にて、いよいよ『劇団夕暮れ突撃隊』の公演が始まろうとしていた。俺にとっては初めての本番で初めての舞台である。それも何故かの主役。       え? 役者経験はだって? まだ始めて一か月少しのペーペーですよ。そうだよ、そうだよ、未だに右も左も分かりませーん。上座も下座も分かりませーん。台本も完璧に頭に入っておりませんとも。大体ですよ、話が急だと思いませんか。急に入れと言われ、急に本番に出ろと言われ、おまけに主役ですよ。ええ、頭が可笑しいんですよこの劇団の人達は。

 しかしながらです。この状況に馴染んでいる俺も、きっと頭が可笑しいのでしょう。いいですよいいですよ、全ては己の野望の為にです。俺は一流の役者となって、有名になって、お金持ちになって、女にモテモテになって、そしてあの芹沢新菜せりざわにいなと結婚するのですから。

 それに少し不思議なんです。かなり緊張するかと思えばそうでもなく、むしろ早く舞台が始まってほしいと思っている自分がいます。この感覚は人生で初めての感覚であり、何とも言い難いものでした。


「よーう、さくら。緊張してっかぁ?」

「ミリンさん。それがあんまり緊張はしていないみたいで」

「ほう、生意気な。まだ台詞も覚えていないくせに」

「いや、緊張はしているんですよ。ただ……それと同時に早く舞台に立ちたいと言うか、何ていうか……体が震えるんです」

「やっぱ生意気だな、さくらは。それはな武者震いってやつだ。俺達舞台役者は常にそれを感じて、そう思ってんのさ。いつもとは違う自分を、こんなはずではなかった自分を、本当の自分を、自分ではない自分を……誰もが抱える“自己のしがらみ”。それの解放だ。謂うならば、だな」

「それ、俺も思いました。演技って自分からの解放ですよね。自分が決めた自分を否定する為の唯一無二のもの」

「帰る場所だけは残しとけよ。じゃないと帰れなくなる」

「帰る場所とは?」

だよ。それで自己を見失ってしまった役者は山ほどいる。麻薬みたいなもんだ。実際出るからな、脳内麻薬が。“自分を否定して誰かになる”ってのはぁ、そういう事って覚えとけ」


 舞台袖で待機していた俺達に、開演十五分前だと山北やまきたさんからの知らせが入った。同時に会場は満席であり、補助席では足りず立見の客もいるとの情報が入った。500人収容可能なはずの劇場が、立って見る人もいるという。


「受付は大変だったよ、座長。今度からはアルバイトか誰か雇わないと。照明の準備が出来ないよ」。山北さんはそうぶつくさと言っていた。ちなみにこの舞台で山北さんは出演しない。お金もなく、人も足りないこの劇団は毎回少数で回しているらしい。舞台に出て、裏方をやって、また舞台に出てなんてのは日常茶飯事らしかった。だから大体みんな裏方でも役者でも何でも出来る。


「ごめんごめん、山北君。私もここまでとは考えていなくて。想像以上だよ……幸子ゆきこちゃん様々だね」

「いあや、だから言いましたよね! その幸子さんいないんですよね!? 出てきたのが俺だったら落胆するのでは!?」

「ここまでの理由はそこまでじゃねーよ、さくら」

「はい、それはどーゆう事かな藤堂とうどう少年!」

「だから少年じゃねぇ!」

「津田さんの身許がバレてますよね。そりゃあ続けてたらこうなるとは思っていたけれど」

玄爺げんじいがマスコミ、芸能関係者も多数来てるってよ」

「はいはい、それはどーゆう事でありますか座長さぁん、加藤かとうさぁん」

「津田さんの身許って、なんだ?」

「あれ? 津田さん言ってなかったのか、この二人に」


「……言ってねぇ。というか、ミリン。お前がもう口を滑らしてるもんかと。玄爺、永井の姿は? あったか?」


「ああ、あったよ。今度の大河の“主役級”を引き連れて」

「やっぱ“来やがったか”。笑いに来たか、それとも何か盗むつもりか……」

「ちょいちょいまてーい! 玄爺さん、いま今度の大河の主役級って言ったか?」

「永井……永井ってあの永井英介ながいえいすけか?」

「おおーなんだ大全たいぜん。お前知ってるのか」

「知ってるも何も、有名な脚本家じゃねーか。次の大河の脚本も永井英介だろ、たしか」

「だぁーかぁーらぁー、大河の主役ってあれか、芹沢新菜せりざわにいなも来てんのか玄爺!」

「大友映画の一番の功労者。なんであの永井英介がここに?」

「大友映画なら、俺も知ってるから! 映画好きだから見てたから! それより玄爺ぃ、答えてくれよぉ、無口になんなよぉ」

「……もう隠しても意味はねぇか。昔な、作ってたんだよ」

「何を?」

「新菜は来てたのかよぉ、どうなんだよぉ」

「映画を」

「永井英介とですか?」

「ああ。大学の映画研究会から一緒でな」

「それって……俺、知ってますよ。昔、永井英介の自伝を読んだ。大友勝利、永井英介、そして井崎玄瑞。その三人から『大友映画おおともえいが』が始まったって……。津田さん、あんたもしかして」

「おお、井崎玄瑞いさきげんすいなら俺でも知ってる! 映画は好きだから! あいつの演出は良い。俺は映画通。で、それより本当に新菜は来てるの? 頑張っちゃうぜ、俺」


「その井崎が、俺だよ」


「はい?」

「マジで言ってますか、津田さん」

「俺は役者じゃねぇ、嘘は吐かない」

「おいおいおい、冗談はダメだよー津田のおっさん。俺はな、芝居は知らないけど映画は知ってんだよ。特に大友映画はな。あんたが“あの井崎玄瑞”だというならば、この俺が気付かないはずがないだろう」

「まぁ、さくらなら気付かないだろうな。どうもありがとう、屋台のおでん屋で俺達の映画を語ってくれて」

「えっ、まじなの」

「……皆さんは知っていたのですか」

「まぁな。俺も加藤さんも最初は知らなかったけど」

「元々ね、大友監督が亡くなったあとに、私が誘ったんだよ。あ、ちなみに私も大友映画に出た事があるんだよ。……エキストラだったけど」

「それはもう、出たって言わないですよ座長! だめだ、色々とあり過ぎて頭の整理がつかない」

「つくだろ、垂水。この劇団は間違いなく凄い劇団だ……俺は昔、大友映画で救われたんだよマジで。これはやるっきゃねー。やるしかねー、マジで」

「そうだぜ、大全。俺達はやるしかない。這い上がるしかねーからよ。井崎玄瑞という男を知ってるなら、お前なら、この意味が分かるだろう?」

「分かりますよ、ミリンさん。嘗て、映画界は大友監督亡きあとに井崎玄瑞を追放した。があったはずなのに」


「よし、分かった。とりあえず落ち着こう。この話は本番が終わってからにしよう。とにかくだ、とにかくだよ。その話が本当だと仮定して、永井英介が来てるならばだ。新菜も来ているという事になる。だったらだ。だったら、の『河上進かわかみすすむ』も来ているという事になる。……これはチャンスだ。河上より俺の方が主役に向いているという永井英介に対しての大きなアピールになる! 即ち! 来年の主役は俺にとって変わる!」


「いや、もう撮影はじまってるし無理だろ。下手したら終わってる」

「いまさら変えたら、制作側がスポンサーに違約金とか払わんといけないし。無理だよさくら君」

「あはは、本当にぶれねぇなぁ、さくらは。好きだぜ俺は」

「3年後くらいに変えたら? その目標。あ、そろそろ5分前だ。ではでは、開演のご挨拶といきますか。行ってきます」

「お願いします、藤堂君」

「さくら、大全、私語はもう慎めよ。もう間もなく本番だ。行くぞ……この公演、“俺達の未来”が掛かっている」

「良い事を言いますね、加藤さんは」


 やがて客席の照明が落ち、劇場は漆黒の闇となる。何も見えない中、俺はこの感覚が初めての感覚ではないと思い出す。そう、あれだ。小学校の学芸会を思い出す。元来、人前に出るのは苦手だった俺なはずだが、発表当日になると胸が高鳴ったのを思い出す。そうなんだよ、苦手なだけで実は好きだったんだよ、人前に出るのは。


 きっと男子ならば誰もが憧れる変身願望。俺はずっと【ヒーロー】になりたかったんだ。そして真のヒーローは、いつだって遅れてやってきやがる。そう、正にこの俺の事だ。待たせたな、今から行ってやるよ。





『結構、人は入ってますね。広いですよねここ。300人は入るのでは?』

『500人だよ。すすむ君は空間認識能力が欠けてるね。それでも舞台役者?』

『いつも池袋の劇場だから。ここは初めてだから分からないよ。それに新菜にいなも初めてだろう? 舞台は』

『見た事くらいあるもんねー、はるかの』

『悠は歌劇だろ。また少し畑が違う』

すすむ君、そんなんじゃ女の子にモテないよ。いいかな、肯定だよ肯定。先ずは肯定するの』

『それより、永井さん。本当に井崎玄瑞はこの公演をやるつもりらしいですね。看板役者の中野幸子なかのゆきこが出れないというのに』

『私、その人を見に来たんだけどなぁー。それに病気なんでしょ? 大丈夫なのかな。何時か共演したいのに』


『“中野幸子は確かに良い役者”だ。井崎が久々に惚れ込んでいた役者だからな。それでもお前達二人にはまだ劣る。それでもなお、あの井崎がこの公演を押し進めた理由がきっとあるはずだ。なにか理由が……』


『例えば、どんな理由ですか? しがない小劇団の公演だと、俺は感じています』

『私は幸子さん目当てだったぁ』

『あるとすれば、それ以上の“何か”を見つけた。例えば“お前達のような役者”を見つけたか』

『ほう、それはまた。そんな役者がいたら俺は堪りませんよ』



『ああ、“天衣無縫の役者”だっけ? そんなの、私しか在りえないのにね。進君、残念でーした。もうがいたね』

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