美鈴

 再見ツァイチエン。それは一生忘れらない言葉であり、私の大嫌いな言葉。


 中国の西部に位置する山の麓にある、田舎の村で育った私の家は貧乏だった。貧乏は何も私の家だけじゃない。周りの家も貧乏だったし、それこそ村の収入はほとんどトウモロコシかなんかで作った酒に頼っていた。それも密造酒。毎日食べるのは痩せこけたトウモロコシにそこらに生えている雑草だった。あとは貴重な家畜の鶏だとかをしめて食べていた。家畜がいる家はまだ幸せで、それすらいない家は絶望的であったろう。私はまだ貧乏の中でも幸せだったと思う。子供の記憶ながらヤギもいた気がする。

 故郷の風景は今でも忘れないでいるかな。山々に囲まれた自然豊かな場所、川遊びをして溺れかけた名も思い出せないあの川、鶏の卵を初めて持ったあの温かい感触……一緒に暮らす父と母と、一つ下の弟の顔。私達家族は逞しく生きていたと思う。でも私は“売られた”。


 私は“黒孩子ヘイハイズ”だった。所謂、戸籍の無い子供である。なぜ私がなのかって? 理由は、政府が掲げた人口政策――後にと呼ばれるもののせい。とくに農村部では後継ぎとして男の子を欲しがる傾向が強かった。一番最初に生まれた私は女の子。弟が生まれ後継ぎが健全に出来た頃、私は親から見放された。なに、私みたいな子はこの国の何処を探してもそこら中にいる。一人っ子政策が生んだ“闇っ子”だ。それも貧乏だったからしょうがいない。生れ付き大層顔の良い私は、小金持ちの“おじ様”に買われ、家族以外の他に“愛と人権”すらも失った。こんにちは絶望、さよなら希望。


 ヘイヘイ今日もいかしてんじゃん、おじ様。こうやって猫撫で声上げて、気持ち良いフリしてりゃ満足なんだろう? 年端もいかない美少女と毎日寝て満足かい? そりゃぁ良いねぇ……私も満足だよ。おじ様と過ごして数年間、毎日毎日あんたの精液の味には飽き飽きしていた頃合いに、この私に戸籍を与えてくれたではありませんか。その一言を聞いた時は至上の満足だったよ、このせいで至上の悦びだったよ。だから感謝しているよ。

 ねぇおじ様、私の夢を言ってもいい? 私ね、実はずっとずーっと、あの故郷を離れたかったんだ。遠くに行きたかったの。でも行先ゆくさきはおじ様の下じゃない。それは遠く離れた東の国。“日本”に行きたかったの。え? 日本は近いかって? 馬鹿だなぁ、おじ様は。私からしたら日本は遠い国なんだよ。夢のような国なの。平和でさ、努力次第で這い上がれる国なの。私はそう聞いているわ。だから行く必ず行く。だからさようなら“おじ様”。良い夢を見てね。もう会う事はないわ。だからね、再見ツァイチエン


――ああ、この言葉。別れる間際にお母さんから言われた言葉だ。だから。私を捨てた“あの三人”を思い出すから。そっかぁ、なんか納得。





「まずネギマだろ。あとしいたけ」

「いいねぇ。せせりも捨て難い」

「じゃあ、ハツも」

『それはいらん!』

「……ああ。垂水たるみ藤堂少年とうどうしょうねんも“臓物ぞうもつ”は嫌いだったか」

「いい加減覚えろよなー大全たいぜん。演劇界は結構な縦社会なんだぜ? 俺が怖かったらお前等二人とも、もうアレだから」

「はいはい、少年。砂肝は食える?」

「いやー、いいや」

「俺もいいや」

「お前等、仲良しかよ!」

「だから先輩を敬えよ! ってかいい加減、先輩の好き嫌いくらい覚えろってなぁ、大全たいぜん!」

「先輩って同い年だし……それも好き嫌いが多すぎて子供みたい。未成年?」

「ぶっ飛ばすぞ手前ぇ!」

「二人とも御託はいいから、次の飲み物を頼もう。俺はレモンサワー」

「飲むの早いな、さくらちゃんは!」

「だから“ちゃん付”はやめろって言ってるだろ。俺がまるで女の子みたいになるでしょうがよ」

「お前等だって俺のその“少年”呼びやめろよ! 同い年だろ!」

「先輩じゃなくて?」

「ああ、先輩だった。藤堂先輩とうどうせんぱいと呼べ」

「藤堂先輩、熱燗飲む?」

「うん、飲む」

「可愛いいかよ」

「可愛いだ。未成年?」

「おう分かった。お前等、今日は三回泣かす」


 稽古場近くにある、焼鳥屋さんがある。地元の人が足蹴なく通う焼鳥屋さんだ。東京都調布市に、それも急行も止まらない布田ふだ駅という駅が最寄り駅の『ゆうぐれ突撃隊』の稽古場。しかもその急行の止まらない駅から歩いて二十分。その稽古場の近くに、今俺達がいる焼鳥屋があった。

 俺達は稽古終わりにいつもこの店に来ていた。俺と大全が入って数週間。何時の間にかこの店は俺達の馴染みの店となっていた。毎度来るのは同じのメンバーで、俺と石田いしだ藤堂少年とうどうしょうねんの三人だ。この三人は年も同い年だから、何かと話が合った。この藤堂少年は先輩面を吹かしているが、同年代とあまり飲んだ事がないのだろう。いつも嬉しく俺と大全と話す。まるで初めての友達を見付けた様に話す。その嬉しさが俺達には愛くるしくて、どうも彼を先輩とは思えない。何故そう思うのか、そう思う自分達の心の理由も分かっている。藤堂少年はどうやら昔だったらしい。原因までは聞いていない。聞かずとも、分かる。分かるし、何時の日か藤堂少年の口から言ってくれる事であろう。


 それに彼の演技力に関しては初めて会ったその日から、俺は一番だと思っている。この事実を絶対に藤堂少年には言わないが。だが、俺が初めて目の当たりした演劇は藤堂少年の演劇であり、引き込まれたのも彼のせいである。決してこの事実をこれから先も言うつもりはないが。

「ほれほれー、先輩の酒は飲み干しなきゃダメなんじゃよ?」

「わーってますよ! 飲んでるじゃないですかぁ、先輩だってぇ飲んでないじゃないですかぁ」

「飲んでるよぉ、めちゃ飲んでるよぉ。あ、大将! 熱燗二合、それ二つください! ほれさくらちゃん、飲め飲め」

「藤堂さん、めっちゃ飲むじゃないですか。さくら死んでますよ、もう無理でしょ」

「たいぜん君よぉ、お前は優しいなぁおい。お前も飲め、これ飲め」

「さっきもいただいたっす。もうマジで無理っす。さくらに飲ましましょう。こいつは“潰れてからが本番”ですから」

「そうなの? しょうがないなーお前は。潰れたら本番ってお前は、ヒーローかよ、こんちくしょう! さぁ飲め飲め!」

「いやぁ、ネギマくださいよ、ネギマ。あ、つくね食べましょ?」

「もう滅茶苦茶じゃないですか、鬼ですかあんたは」


『“そっ”。酔ったら藤堂長助とうどうちょうすけは調子に乗るよ。』

「ですよね、結構面倒くさい――」



 それは酔いつぶれている俺の中でも聞こえる“透き通る声”だった。綺麗な声で、反応した大全が一番に驚いた事だろう。その声はこの場末の焼鳥屋には似つかわしくない程に、響き、輝き、力を放っていた。俺は後に知る。これが、この時こそが、彼女から聞いたのこの力強さこそが、巷で噂の【言霊ことだま】で在ると。



「……あぁー、さん。どうもっす。え、ずっとカウンター席にいらしたんですかぁ。すみません、俺、気付かなかった。えー全く気付かなったあ。変だなぁ? あ、俺そろそろ終電だな。帰る、帰るわ。お前等また明日な。うわー、明日朝からバイトだった。朝からバイトだったあ。忘れてたぁ」

 藤堂少年、もとい先輩は火が噴くのを見計らい見事に退散。その逃げ足は、今まで見た事が無いほどの逃げ足。その去り際は確かに俺達にとっては勉強になった。そして勘づく。俺達は多分、今から関わってはいけない人と関わろうとしている。


「相変わらず逃げ足だけは早いな、長助ちょうすけの奴。まぁあいつは昔からあんなもんだったか。で、貴様等は結構飲むそうじゃない? 大将! この店の酒、全部熱燗にしてくれ!」


――残ったというか、残っていたのは、超ミニスカートで胸もでかい綺麗な姉ちゃんだった。スタイルは抜群、どう見ても容姿は端麗、そして髪はド派手な金色だ。その瞳は蒼く、そのきめ細やかな顔立ちは東洋人であるが、鼻の高さは欧米人そのもである。ハーフか?


「あの、もしかしてミリンさんですか?」

「もしかしても何も、ミリンさんだよ」

「ミリン、もうウチに酒ねーよ。あんたが全部飲んじまってる。飲み過ぎなんだよ。お前がいると店が潰れちまう」

「何を大将、ボトルで頼んでるだろうが」

「そのボトル代を貰った覚えがない。兄ちゃんら、ミリンと一緒のあそこの劇団員だろう? 早く逃げた方がいい。ここからも、ミリンからも」

「一言多いな、大将。そんなんじゃ売れないぜ」

「お前がいるから売れないんだよ。早くツケを払え。“何年分”だと思っていやがる」

「さぁ、五年分かぁ? あと五十年は頼む」

「勘弁してくれ。破産する」。大将と仲が良いのか? 良さ気ではあるが……。この人がミリンさん? 本当にミリンさん? 藤堂少年が逃げるくらいの? そもそもミリンってなんなんだよ。調味料かよ、ミリンには嫌な思い出しかないぜ。


「俺は美鈴ミ・リンだ。正しくは多分、李鈴リィ・リン。あとは雨涵ユーハンとか。まぁ色々ある」

「えっ、つまり本名は」

「ミリンでいいよ。俺は美鈴ミリンだ」

「はぁ。何故、名前が三つ? あるのですか?」

「戸籍が無かったから。想像つかないだろ、お前達には」


 はぁ。本当につかなかったし、いまいち何を言っているかが分からなかった。一つ分かった事は、女性なのに何故か一人称が“俺”なこと。俺なわりに、その容姿は街を歩けば誰もが振り返る美女なこと。あと、多分かなりの酒飲みなこと。


「ミリンさんって、中国人ですか?」

「イエス、チャイニーズ。お前等二人が噂の新入りだろ?」

「ああ、はい。え、ミリンさんはなんか骨折したって聞いたんですけど……」

「それな。もう治った」

「えっ、もう治ったのですか」

「うん、根性で」


 俺も大全も同じ気持ちを抱いたろう。この人はやばい。何がやばいかと言われるとそれが具体的に何かが分からないが、この人はやばい。関わったら絶対に駄目な人だ。駄目と分かっているのに、引き寄せられる。まるで磁石みたいにこの人の“空間”に引き寄せられる。直感的に感じているのだ。目の前のこの女はやばいと本能が感じ取っているのだ。だけども、引き寄せられる。これがフェロモンてやつかぁ? 男子たるもののさがなのか?


「ところでさ、このあと飲みに行かない? 良い所があるんだよ。生憎この店にはもう酒はないそうだ。居酒屋なのに」

「焼鳥屋だ」

「えっ、えっ、今からですか。もう僕達結構飲んでて」

「縦社会って習った? 長助は言わなかったか? 上の人間が言う事は絶対だぜ? お前等日本男児なんだろ? いいから来いよ」

「行くって何処に……」

「新宿! テキーラ飲みにな!」


 感じた直感、その本能は正しかった。関わったら本当にいけない人だ。しかし何処か不思議な気持ちにさせられる人でもあった。それが何かは分からない、何かは分からないが、心の底から嫌でもないという気持ちにさせられる。言葉のニュアンスなのか、不動の佇まいがそう思わせるのか、美人で綺麗でエロいからなのか、果たして分からない。

 いいや、きっと俺はこれが“何なのか”には気付いている。俺が藤堂少年に感じた気持ちと一緒だ。“ミリンさんは演技”をしている。そしてこの心地よいまでのミリンさんの喋り方の正体が、俺達には分かっていた。恐らく、この人は



「ここな、最近熱いアーティストが集まるライブハウス」

「なんかまじでアンダーグラウンドって感じですね」

「最近、インディーズで売れるってのが流行りでな。HIPHOPとかもそうなんだけど、今日はパンク系がメイン。お前等、ああー…さくらと大全だっけ? 音楽は何が好きなんだ?」

「急に言われても、ジャズとか? あとはアニソン」

「俺もそんな感じっす」

「いや二人とも渋すぎだろ。今日のトリのバンドは見物でな、まだ若いが良い音楽をやりやがる。パンクロックだけどな、その中にJAZZを取り入れた演奏をしやがるんだよ。『サンフラワーズ』ってな。確か京都出身だ。同郷だろう、二人とも気に入るんじゃないか?」

「そうなんですか、今日は何時までですか。明日俺達も稽古とバイトなんす。早く帰りたいっす」

「素直に言うねぇ、さくらだっけかぁ? 朝までだよ、さぁ飲もうテキーラ!」

「飲みますから! 何杯飲んだら早く帰る権利与えられますか!」

「この街全部の酒を飲み干すまで」

「頭が可笑しいんですか」

「俺達三人ならいける」

「じゃあやってみますか!」

「街の酒を全て飲み干すか、それは良いねぇ! やってやろうぜ垂水よぉ!」


 ズン、ズン、と低音が鳴り響くライブハウスで、俺達は酔っぱらった中でテキーラを浴びる程飲んだ。お金はどうしたかって? ミリンさんのツケだ。『いつか必ず払う』と言って、彼女はボトルごと頼み、それを全員に振舞った。それが許されるのが彼女なんだと認識した。皆は盛り上がり、最初はいやいや連れて来られていた俺達も、この日の夜を大いに楽しんだ。明日のバイトや稽古や二日酔いを明後日に忘れ今宵を楽しんだ。夜が明ける、その朝まで。





「よっ、久しぶり。元気かぁーって、元気じゃないか。病院いるんだもんな」

「ミリンこそ、元気なの? 事故で骨折したって聞いたけど」

「根性で治した。変わりに愛車のCBXはお釈迦になっちまったぜぇ」

「あら、難しい日本語。また頭が偉くなった?」

「それを言うなら賢くなっただろ。バカにすんなよな、幸子ゆきこ

「あはは。それはそれは確かにそうだよねぇ。でも初めて会った時のあなたからしたら、本当に凄い事だよ。私は嬉しいなぁ」

「幸子の演技を見て、今の俺がいる。幸子がいたから今の俺がある」

「ミリンがいたからこそ、今の私もいるわ」

「……それも、そっか! りんご食べるか? このりんごは良いりんごらしい」

「へぇー良いりんごなんだ。食べる食べる! ミリンは今日も二日酔い?」

「まぁな。昨夜はちょっと“飲み過ぎた”よ」

「へぇ楽しかったんだ。どうだったかな、“新人君達”は」

「分かるのかよ、さすが幸子だな」

「津田さんから全部。ミリンが治っていないのに治ったって事も。勝手にギプス外したら駄目だよ? 治るものも治らなくなるよ?」

「“治らないもの”だって、あるさ」

「またそうやって偏屈になる」

「良い奴等だったよ、本当に。津田が連れて来た意味が分かる」

「名前は、なんていうんだろう?」

「『垂水さくら』に、『石田大全』。津田さんはさ、幸子より凄くなるだろうって」

「へぇー。それは嫉妬しちゃうな。どんなお芝居するんだろう?」

「まだ見た事はないよ。でも、良い芝居をする。それが分かるような奴等だ」

「じゃあ津田さん、私じゃなくてもうそっちに夢中なんだ。あの人らしいけど……」

「正直に言うと、そう。でも神木百合かみきゆりの生まれ変わりと呼ばれる幸子には負けているよ」

「うふふ、嬉しいなぁ。そう言ってくれるのはもう、津田さんかミリンだけ」

「機会さえあれば、世間は幸子を認めるよ」

「……ねぇミリン? あの言葉ね、今日に言ってもいいよ。今日はそれを言いに来たのでしょう?」

「ああ言いに来た。だってもう死ぬのでしょう、幸子は」

「どうやら」

再見ツァイチエン、幸子。俺もすぐに」

「ばか、それはだめに決まっているでしょう。ミリンはに立ち続けなさい」



 私は幸子を見て、この劇団に入った。彼女の芝居は本当に素晴らしかった。彼女は私の絶望を払ってくれたのだ。私が芝居を続ける理由……それは幸子がいたから。だから私が演劇を“止める”事は無い、私がいなくなるその日まで。“忠義”は尽くす。私を拾ってくれた『ゆうぐれ突撃隊』の為に。私は私が終わるその日まで“俺”を演じ続ける。全ては日本に来てから救ってくれた、幸子のため。そして私を捨てた三人を見返す為にも……。


 あの日の夕日を見返す為に、私は『ゆうぐれ突撃隊』にいる。西の空に沈む太陽に威勢を張り叫ぶ為に。

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