一朶に懸けた青春

 頭が重い二日酔いの朝。モーニングコールは素敵な女の子からではなく、おでんの屋台で出会った素性不明の中年のおっさんからだった。曰く、昨日の俺は覚えていないが、話はどうやら弾みご機嫌だったということ。曰く、謎の契約を果たし、これまた聞く限り「劇団ゆうぐれ突撃隊」だと言う。五郎丸さんならぬ“さち子”さんにしこたま飲まされているのは覚えているが、このおっさんは全く持って思い出せないでいた。二日酔いの回らない頭をフル回転さした結果、恐らくだが俺は就職先を見つけた気がする。曰く、そう、さっきから“そのおっさん”曰くだが、話を聞く限りではそうなのであろう。このあやふやな記憶とおっさん曰くが真実ならば、今日はおめでたい日である。ならば赤飯を炊く必要がある。


「いや、ならねーよ。ってか何だよ、ゆうぐれ突撃隊って。何が契約は完了済みだよ、サインなんてした覚えはねーぞ」


 津田源三郎つだげんざぶろうと記された名刺の名前の横には“演出家”の文字が見える。胡散臭さが倍増する。それに劇団ってなんだ? ゆうぐれ突撃隊? 意味が分からない。


「いやしかし、ネーミングセンスは良い気がする……“ゆうぐれ突撃隊”。いや全然よくねーか。無視するか? 新手の詐欺だろうこれは」


 そうそう。最近は都会でスカウトという名目であらぬ方向へ持っていかされる事案があると聞いた。それを教えてくれたのは引っ越しのアルバイト先の先輩である、小山こやまさんからだ。ちなみに小山さんは心の底から大嫌いであるが、その話は聞いていて良かったと身に染みて思う今日。


「そっち系のビデオに出演させられるかもしれない……。えっ、男優? いやいや相手は男の可能性も。ってかあのおっさんが相手か! そうだよ、五郎丸さんの知り合いだって言ってたし、それにあの人オカマだもん。もうぜってーそうじゃんかよ」


 危ない危ない。此処は大都会の東京。悪い奴は沢山いるのだ。そうらしいのだ。馴染みの店だからといって油断していた。いや馴染みではないか、偶に行くくらいなのだから。大体、劇団って何なんだよ。あれか、俳優か? 役者か?


「俳優も役者も一緒か? あれ……劇団ってなんだ?」


 何故かもう一度、津田源三郎の名刺を見た。言葉にして分かった、俺が何も知らないという事。『見聞を広めなさい』――何時の日にかの何処かの面接で誰か知らない面接官に言われた言葉。ようは世間知らずで、常識知らずって事だろう。では、世間とは何で常識とは誰が決めたのか。そう自問自答をして言い訳をする日々には飽きていた。


「……行ってみっかぁ? ハリウッドスターになれるって言ってたしな。もし、そうなったらこれは凄い事だ。それはきっと。それで売れたら自伝を書いてやる」


 久しぶりに、その重い腰を上げる。クリーニングに出したままのスーツを取りに行き、カッターシャツを着て、ネクタイを締めた。革靴を履き、踵を返す事無く駅まで進んだ。ここまで前向きに何処かに向かうのは何時ぶりだろうか。恐らく久しぶりの面接である。いや、もう就職は決まっているのか。サインもしたことだ。

 隅田川と首都高沿いの道を歩く。いつも歩いている道だが、今日はなんだか風景が少しだけ輝いて見えた。空は青く、太陽は眩しい。街路樹の桜は丁度満開で、心地よい陽射しが全身を包んだ。“この前を向く感覚”が懐かしい。そういえばと思い、名刺に記載されている住所を確認した。其処には“東京都調布市”と記されていた。


「いや、調布かよ! めちゃ遠いじゃねーか! なんで23区じゃない! もしかして、ゆうぐれ突撃隊ってすげー小さな会社なんじゃ? いや劇団? ってかだから劇団ってなんなんだよ!」


 それでもやはり、その感覚は懐かしく、二日酔いも何時の間にか消え果てていた。変わりに生まれたこの気持ちは何なんだろうと考えた時、これが“希望”なんだとすぐに気が付いた。昨日までの自分との違いに驚き、俺は車窓から眺める景色を見て少し笑った。





 両国駅から総武線に乗って新宿駅を目指す。そこで乗り換えだ。乗るのは京王線。京王線で調布市まで向かう。調布市とは所謂、西東京で23区外だ。上京してきた俺にとっては田舎のイメージがあった。だってそれはそうだろう、やはり田舎者が憧れるのは東京23区である。田舎者といっても俺の地元は京都市である。そう、嘗てはこの国の都だったのだ。ちなみに京都人は今でも京都を国の都だと思っている。一千年の歴史がその誇りを捨て切れないのだろう。地元が京都市の俺だが、京都市の中でもかなり田舎の方なので、やはり俺は田舎者であった。そして初めて来た新宿に俺は高揚した。


「やべー、人が多すぎる。建物が高すぎる。なんだあれ、モスラの卵かぁ? さすが首都、時代の最先端を行ってやがる」


 周りをキョロキョロと見ている俺は、さながら上京したての田舎者だった事だろう。東京にきて六年目だというのに、俺は両国からほとんど出た事がない。大学も千葉に通っていたので、中心部にきた事がほぼほぼなかった。唯一行った事があるといえば池袋に一回だけ。大全たいぜんの家に遊びに行ったくらいだ。

 人生初めての京王線に乗る。段々と高層ビルはなくなり、閑静な住宅地な風景となっていた。目的地はまだまだ先だ。布田駅を降りて歩いて十五分ほど歩くらしい。いざ近くなると調布市はやはり田舎であった。高層ビルはほとんどなかった。そう思いながら、俺が乗っている急行は目的地の布田駅を通過していた。それに気付いたのは大分後の事であった。





「おー来た来た。よく来たな、遠かったろう」

「来た来たじゃねーよ! 布田駅は急行止まらないじゃん! 気付かなくて高尾山まで行ったぞ! 教えてくれよ!」

「へー終点じゃねーか。登ったのか?」

「いや登ってねーよ、駅員さんに聞いてやっと着いたし。しかも何が歩いて十五分だよ、二十分は掛かったからな」

「津田さん、こいつが?」

「ああそう、こいつ。しかしお前口悪いなー。皆の初印象最悪だぞ。さすがクズ人間」

「あ、いやごめんなさい。初めまして、垂水です」

 つい、文句を言ってしまった。いやしかし、電話で津田に聞いたら本当に歩いて十五分と言っていたし、急行が止まらない事くらい教えてくれたっていいだろうと俺は思った。何も知らず、まだかまだかと思いながら気付けば終点駅だった俺の身にもなってくれ。いや確かに、何も調べなかった俺が悪いのかもしれないけどさ……。ってかクズ人間と言ったか?


「垂水君――下の名前は?」目の前にいる、津田の横にいる男が俺の下の名前を聞いた。年は津田と同じくらいだろうか? 小柄で微笑をしていて温和そうな人だった。

垂水たるみさくらです……」。あまり下の名前を言いたくなかった。言うと何時も同じ事を言われるからだ。幼稚園の頃からずっとだ。だから俺は俺の名前があまり好きになれないでいた。

「さくら? 男なのに? 女の子みたいな名前だな」。ほれ見ろ、また言われた。だから自分の名前が嫌なんだ。ちなみに俺に対して今言ったのは、年端もいかない少年だった。顔は整っていて美少年に見えるが、未成年か?


「未成年?」

「んな訳あるか! 二十三才だよ!」

「え、同い年かよ。今年で二十四才?」

「そうだよ、ってか同い年かよ。えーと、?」

「お前いま俺の事馬鹿にしたろっ! 別にさくらが男の名前でもいいじゃねーか! 全国のさくら君に謝れお前! お前だって女みてーな顔してんじゃねーか! オカマかよ、オカマはもうこりごりなんだよ!」

「オカマじゃねーよ! 藤堂だ。藤堂長助とうどうちょうすけ

「長助? 意外と古風……」

「てめぇいま俺の名前を馬鹿にしたろ! ぶっ飛ばすぞ!」

「お前だって俺の名前を馬鹿にしてんじゃねぇか!」


「あーはいはい。お前等、初対面だっていうのに仲がいいな。“さくら”、先ずは座長に挨拶しろ。お前はそんなんだから就職が出来ねーんだよ」。津田は俺に

そう言って、先ほどの小柄で温和そうな人を俺に紹介した。というか、俺の事を下の名前で呼ぶなと言いたかったが、とりあえず今は我慢した。座長ってことは一番偉いのか? つまりここの社長みたいなもんか。

「あ、ごめんなさい。初めまして、垂水さくらと申します」

「初めまして、さくら君。私は『劇団ゆうぐれ突撃隊』の座長を務めています」

「あ、どうも。あの、あまり下の名前で呼んでほしくは……えーっと、座長さんのお名前は?」

「座長だよ」

「え、だから名前は」

「座長だよ」

「え? 座長って名前?」

「津田さんのことは……もう知っているか。うちの演出家であり脚本家で、あと舞台監督もやってもらっている。君とさっき喧嘩をしていたのが藤堂君で、若手のホープだ。音響と照明もやってもらっているけれどね。で、あっちの一番背が高いのが、加藤鷹かとうたか。愛称は“加藤プロ”。うちの一番の実力派だよ」

「一番は幸子ゆきこでしょう、座長。初めまして、さくら。座長は今はこんな喋り方だが、普段はもっとおっかねぇからな。気を引き締めろよ」

「ああはい、宜しくお願い致します。というか、下の名前で呼ばないでほしいんですけど……」

「あとかいるんだけどね、皆今日はアルバイトだったり、病気療養中でね。また次の機会に紹介するよ。まぁそれでも少人数で細々と公演をやらしてもらっているよ。公演は小さな劇場で年に数回、正に“小劇団の中の小劇団”だね」


「それでだ、さくら。今日は今いる劇団員との顔合わせもあるが、恐らくお前は劇団も芝居も役者も何一つ分かっちゃいねーだろう? 一つ、稽古でも見ていけ」

「というか、津田さん。俺はまだ入るって決めた訳じゃ――」

「いいから一度見てみろ。あんな契約が俺も有効だと思ってはいねーよ。一度見て、それからお前の意思で決めろ。入るか、入らないかな」



 東京都調布市にある、最寄り駅が布田駅という急行も止まらない西東京の田舎町に建っている二階建てのプレハブの小屋で、小さな劇団の稽古が行われようとしていた。一階の稽古場であるカーテンで陽の光は全て遮られ部屋は一瞬真っ暗になった。昼間なのに本当に真っ暗になった。正に漆黒の闇だ。

 何も見えなかった空間に、突如一閃とも言える光が射す。稽古場の後ろの方に座っていた俺はその光に目が眩んだ。瞳孔が開き過ぎて、光を多く瞳に取り入れてしまったのだ。やがてその光に慣れ始めた頃、光が射した場所に一人の人物が佇んでいた。さっき少し言い合いになった藤堂長助だ。そして俺はその藤堂に見入ってしまった。真っ暗闇の光の演出が俺にそう思わせたのか、それとも彼がさっきとはまるで違うになっているからだろうか、それは分からない。恐らく両方だろうが、俺は少年を見入ってしまっていた。


(さっきとまるで雰囲気が違う……。なんだこの感覚)


 ダァン! と少年は稽古場の下に敷いてある木の板を鳴らし、台詞を喋った。それにも俺は驚愕した。彼が台詞を喋った瞬間、よりまして別人に思えたからだ。いいや、間違いなく別人である。先程、俺と言い合いになっていた彼とはまるで違う別人。やがて加藤プロが出てきて、二人の掛け合いになった。加藤プロも雰囲気はがらっと変わっていた。この二人、果たして二重人格ではないのであろうか。これは在り得ない事だと、二人を見つめながら俺は思った。

 時間にして五分もなかったと思う。だけどその五分は人生で初めて体験した五分だった。お芝居だなんて、小学生の頃の学芸会レベルだと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、人がと思い、一番感じたのはどうしようもないくらいの空間を包んだ二人の熱気だった。



 “自分が自分では無くなる瞬間――それは、誰もが追い求める変身願望そのものではないか。誰もが自己のしがらみから解放される自由な瞬間ではないか。芝居とは、それそのものではないか”。



「よ、どうだった? 初めての舞台演劇は。まぁ稽古だけど」

「……舞台って何なんですか。TVドラマとか映画とかと何が違うんですか? お芝居ってなに?」

「それは、これからお前自身が体感して、見つけていくものだ。でも、今日の少しの稽古を見てお前は“何かを感じたんだろう”? それで充分だ」

「とりあえず、二階に上がってお茶でも飲もうか。さぁ上がろう、さくら君」



 稽古場の二階に上がり、お茶を飲んだ。何故か少し手が震えていた。今日の行きに感じた感情が希望ならば、この今の感情は間違いなく“感動”だった。

 興奮を収めるようにお茶を飲んでいた俺の耳に、TVから流れる音声が入ってきた。何でも今度の大河ドラマに、まだ若い十八才の若手女優が選ばれたというのだ。昨日の今まで、そんな情報に一ミリたりとも興味がなかったはずなのに何故か耳に入った。


「けっ、若くして売れてもいい事なんてありやしねぇ」

「藤堂、妬みはやめとけ。それこそ売れないぞ」

「加藤さん、悔しくないんですか。こいつより幸子さんの方が上ですよ」

「おめぇら、運も実力の内だって言ってんだろ。妬んでる暇あるなら芸を磨いて来い」

芹沢新菜せりざわにいなですか。彼女、実力はありますよ。子役からやっていますしね。ナレーションや“声あて”なんかも。あ、今は声優と言いますか」

「確立されてきたよな、声優も。昔は売れない劇団員の仕事だったのに……今じゃその声優志望もいるらしいし」

「“時代”は……変わりましたね。津田さん」

「それでも俺達のやる事は変わりはしねーよ、座長」


――めちゃ可愛いじゃん!」


「さくら、可愛いじゃない。俺達は此処から“こいつ達”に勝たなきゃなんねーんだ」

「勝つ? 勝つとかあるんですか、芝居に」

「さくら君、それがあるんだよね。私達は“売れないと意味が無い”からね。舞台演劇で売れてスターになるような人なんて、ほんの一握りだから」

「“現場からの叩き上げだ”。覚えとけよ“さくらちゃん”。おめーら一般人がTVとかでよく見ている“役者”より、俺達“舞台役者”のほうが芝居はうめーんだ。俺はぜってー負けねぇ」

「自分達より芝居が下手でも、売れる奴がいる。がようは重宝される。例えば、顔とかな」

「芸能界は所詮、お金だからね。しょうがないよ。うちは小さな小劇団。目も当ててくれないさ。でも“いつか必ず”……その思いでやっているよ」


 座長は唇を少しだけ噛みしめて、俺にそう言った。大変そうな世界であることは肌に感じとれた。お茶を飲み干した俺の心はもう既に決まっていた。この劇団に入ると。演劇も役者も俳優も、いまいちよく分かってはいない。だけど、きっと舞台演劇は一番な気がした。そして心に決めた。俺は、この今TVに出ている芹沢新菜と結婚すると。とにかく俺は、一日にしてまだよく分からない舞台演劇に一目惚れし、新菜にいなにも一目惚れしてしまった。人生で一日に二回も一目惚れした奴なんてのは、きっとこの俺くらいだろう。



 その日、稽古場を出るときに演出家の津田源三郎はこの俺にこう言ったのを、今でも覚えている。

「ゆうぐれ突撃隊は売れない小劇団だ。だが、全員がいつの日か脚光を浴びる為に日々研鑽している。個々の実力はどの劇団よりも劣っていない。何時の日か全員が大河ドラマに出たっていい。それに見合う実力は持っている。俺達はその思いでやっている……貧乏から這い上がる為にな。将来は世界で一番売れる劇団だ。お前もまだ若い、そんな“一朶に懸ける青春”も悪くはないだろう?」


 確かに悪くはないと、そう思ってしまっている俺がいた。それは、津田のおっさんの言葉には不思議な力があるとも感じた、ゆうぐれ突撃隊と邂逅した日であった。

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