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 温められた小屋の中に入った途端、メガネがさっと曇り慌てて外して外套の袖で拭き上げまた付け直す。

 あらためてみる室内はまるで故郷の私の家の様だ。

 今の一番奥に置かれた石造りの暖炉にはしっかり薪がくべられ、揺らめく赤い炎の上には大きな銅製の鍋が掛けられている。

 お母さんは何時もそこで羊肉の煮込みを造ったり、羊のお乳で淹れたお茶を沸かしてくれていた。風邪をひいた時は甘い蜂蜜を入れてくれるあれだ。

 そうそう、同じ暖炉でお祖母ちゃんはもっと大きなお鍋で乾酪チーズを作ってたっけ、あれは冬の間の貴重な食べ物に成るだけじゃなく、いい値で売れたんだ。

 私は、お祖母ちゃんの歌う歌が好きで、乾酪作りの時は何時もそばにいてずっと聞いていて、その傍には必ずピニタいたっけ。

 視線を感じて我に返ると、あの薪割をしていた女の子が私の傍にいてじっとこちらを見つめている。

 私はまた、彼女の顔をピニタのそれに重ねてしまう。

 

「何をしてる?早く食べよう。ああ見えてもライドウの拵える飯は美味いんだ」


 と、また少佐を呼び捨てにする彼女。ホント何者?

 食卓にはすでに皿が二枚三組並べられ、真ん中には炊き立てのご飯が山盛りになった大皿が置かれている。

 少佐殿が大きな鍋を片手で軽々と暖炉から降ろし、卓の鍋敷きの上に置くと、お玉杓子で皿の中に並々と中身を注いでゆく、その度にたまらなく美味しそうな香りが鼻をくすぐる。


「二日前に罠にかかってた鹿を馬鈴薯とか玉葱とかといっしょに煮込みにした奴だ。さぁ食いな」


 そいう前に女の子はもう席についていて、しゃもじを皿に突っ込み大きな鹿肉の塊を掬い上げていた。

 私はその隣に座って「では頂戴いたします」としゃもじをとる。

 お皿の中には赤ちゃんの握りこぶしほどは有ろうかという良い色に煮込まれた肉の塊やら、ホクホクした馬鈴薯やら、とろりと蕩けかけた玉葱やらが赤茶色の煮汁の中に浸っている。

 まずは肉の塊をしゃもじで崩し口に運ぶ。

 歯の出番はなく舌の上で転がすだけで肉の繊維が崩れ芳醇な旨味が口いっぱいに広がる。美味しい、本当に。

 

「赤葡萄酒で煮込んだからな、鹿肉の臭みも消えるし肉も柔らかくなる。飯に掛けて食っても上手いぞ」


 横を見ると早速彼女は山盛りにしたご飯の上に煮込みを掛けものすごい勢いで食べている。本当によく食べる子だ。


「そうだ、そいつの事を紹介してなかったな。おい、シスル、大尉殿に自己紹介しろよ」


 ご飯の塊を音を立てて飲み込むと、ほっぺたにご飯粒を付けたままで私をあの黒く綺麗な瞳で見つめながら。


アガはエルツァンポ郷のおさブドゥンが娘、シスルだ。今は故有ってライドウの下で働いている。よろしく頼む」


 食事が終わると、少佐は大きな手付き湯飲みに湯気の立つ飲み物をたっぷり注いで出してくれた。たっぷりと牛乳の入った珈琲だ。砂糖もたっぷりでとても甘くておいしい。


「さて、早速だが今日の所はこれからお前さんがここで何をしてもらうか説明する。両の耳かっぽじってよーく聞いてくれ」


 と、少佐殿は自分の湯飲みを卓の上に置き、私をその大きな目で見つめ。


「まず最初に雪山や高山での基本的な歩き方を、道具や装備の使い方を交えて教える。次にこけたり滑ったりしたときの身の守り方を叩き込む。こいつが身についてなきゃまず間違いなくお前さんは絶壁から転げ落ち肉団子に成るか、雪渓を滑り落ちて永遠に氷漬けになるかのどっちかだ。その次には岩登りや氷壁登りの基礎技術。ここは安心しな、本当に基礎の基礎、しか教えない。経路工作の仕方までやってたら何年かかるか解らねぇからな、その後は高山での野営術やらけがや病気の対処法等々をみっちり仕込んだら、仕上げにインティワシ連峰の山に登って高度順化をかねた実地訓練をやる。この内容をおよそ半年かけてこなしていく。ここまでで何か質問は?」


 ・・・・・・。ある程度は予測してたけど新兵訓練みたい。いいや、それどころじゃないかも?。と言っても私が進んで選んだ道だ。ここで怖気づいてなるものかと、私は平常心を装い少佐を見つめかえし。


「一点、質問なのですが、戦闘訓練は必要ないのでしょうか?小官も一応は訓練を受けていますが、敵の支配下においては高度な戦闘術が必要になるかと思うのですが」


 私の質問に少佐は一瞬驚いて見せたが、すぐに頬を緩めて。


「流石、あの怖い少将閣下相手に啖呵を切るお嬢さんだ。けどな、安心しなよシィーラちゃん、お前さんの一人くらい、俺やそこの小さいのが守ってやるって、それに向こうには『インティキル』って言う強い味方が居る。大船に乗った気持ちでお前さんは山登りの技術を磨きな」


『そこの小さいの』って、この角付尾っぽ付きの女の子のことよね?この子が私を守るって?

 これも大いに疑問だけど、その前にもっとわからないことが。

 

「あの『インティキル』って、何でしょうか?」

「俺たちの目的地であるワリャリョ連峰あたりを縄張りにしてる原住民の武装勢力の事さ、連中の言葉で『太陽の牙』って意味になる。まぁ、そのへんもおいおい教えてゆくさ、あ、そうだもう一つ、この教程で戦闘術が無い理由があった」

「何なんでしょうか?」


 少佐は今までの気さくな雰囲気をがらりと変え、表情も厳しく声音も落とし。


「標高七千 メートルの世界じゃ、人間同士仲良く殺しあってる暇はねぇって事だ。酸素の濃度は地上のおよそ四割、気温は零下二十度、常に風速二十 メートルの突風が吹き荒れる。そんなところじゃ世界その物がお前さんを始め人間すべてを情け容赦なく殺しに掛かって来る。人殺しの技術なんか持っていても意味はねぇ、テメェが生き残る技術だけが頼りって訳だ」

 

 以前、インティワシ連峰の環境についてノワル曹長が言った『風の地獄』という言葉が頭をよぎる。

 私は、これからそう言う場所に行くための準備を始めるんだ。

 自分で自分が固唾をのむ音を聞いた。

 ・・・・・・。泣きたくなってきちゃった。

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