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皇紀八三七年華月(八月)十四日 一時三十分

ワリャリョ連峰七〇〇〇 メートル峰付近、野営地


 流した涙が凍り付き。頬を引きつらせる痛みで覚ますと、そこは暗い天幕の中だった。

 ああ、病院じゃないんだ、ここは標高七千 メートルの稜線の上の幕営地なんだと思い出す。

 その途端、全身を殴りつけるよな寒さに包まれ、吸っても吸っても息苦しい酸素の足りなさに苛まれる。

 ガチョウの羽毛を詰め込んだ寝袋の中で縮こまり何度も意識して呼吸を繰り返していると、次第に暗さに目が慣れ隣で寝ている少女が私を見つめているのが見えた。

 黒いちぢれっ毛、褐色の肌、吸い込まれる様な黒さの瞳を持つ猫のような大きな目。

 シスル、私より八つは下の女の子なのに、見た目は少し男の子っぽいけど可愛い女の子なのに、今まで無数の修羅場を駆け抜けて来たという戦士。

 でも、いつも私はこの子のこの美しい瞳を見るとそれが嘘のように思えてならない。


「姉ぇよ、また夢を見たのか?」


 彼女はまるで男の子の様な物言いで問う。前に寝言で妹の名を呼び、それを聞かれて以来私の毎夜みる夢の事は彼女にはバレている。

 私は一言「うん」と答えると、彼女は寝袋から羽毛服の袖に包まれた腕をにゅぅと出し、私の寝袋に手を突っ込み、あの二俣の角を優しく撫でだした。

 ピニタがしてくれたみたいに。

 そうすることで私が落ち着くと、彼女はその鋭い勘で少し前から見抜いていた。

 私は大人しく撫でられる。ピニタの笑顔が閉じた瞼一杯に広がる。

 ひとしきり撫でられると「落ち着いたか?」と問うので、また「うん」と答えると。満足そうな笑みを作って「良かった。おやすみ」と、腕を引っ込め寝袋に潜り込んでいった。

 本当に落ち着いたので眠ろうと目を閉じてふと気づいた。

 今日の夜風は大人しい。と。

 いつもなら陽が落ちれば風速十何 キロもの突風(これでもこの辺りではそよ風だとか)が駆け抜けるこのスーパイ尾根だが、今日に限ってはなぜか勢いがない。

 星が観たい。

 そんなどうでも良いような衝動が胸の中から沸き起こり、いやいや、そんなつまらない事の為に零下ウン十度の寒空に身を晒すのか?と思いとどまりつつも、結局は衝動に負け、左右で眠る仲間を気遣いつつ寝袋を這い出て、羽毛服の頭巾を被り、こんどは天幕の戸口で眠るオタケベ少佐に『申し訳ありません』と口の中で詫びつつ、四つん這いでその立派な体躯を乗り越える。

 何時もくじ引きで一番寒い戸口に寝る順番を決めるのだが、大抵負けるのは少佐殿だ。よほどくじ運が悪いのだろう。

 天幕の素早く開けて頭を外に突き出すが・・・・・・。

 猛烈な寒さのお陰で出るのは諦める。少佐を跨ぐ形で外を見た。

 頭を上げて、前を見ると延々と続く雪と氷に覆われた暗灰色の岩の尾根が続き、その果てには次に登る峰、標高七一八一 メートルのスーパイプカラが黒々とそそり立っている。

 その陰に隠れ、まるで星空を突き刺すように屹立するのが、オルコワリャリョ、標高七四九七.五米メートル

 私たちの目指す山、未だかつて、その頂きを何人たりとも犯させていない真の未踏峰。

 この地域の原住民イェルオルコの人々が『怒れる神の山』と恐れ敬う、登れば天罰が下るとされる天譴てんけんの山。

 それが、スーパイプカラをまるで衛兵の様に従え、その陰から満天の星を背景に私を見下ろす。

 寒さ以外の身震いがした。怖気づく心が私を寝袋へ帰れと命じる。でも私は踏みとどまり頭を吹き付ける風に逆らわせ東に振ると。

 星明りに青々と輝く広大なチュルクバンバ氷原がまるで海の様に横たわり、その向遥か五十粁キロむこうにはインティワシ連峰が頂きに白雪を被り延々と南北に連なっている。

 そしてその上空。数えきれない、いや、数える気すら起こさせないほどの何百万、何千万もの星々の輝き。

 寒さも、酸素の薄さもちょうど自分の胸の真下に少佐殿の体があることも忘れ、魅入られたようにその無数の煌めきを見つめる。

 ふと、人は死ねば星に成るという昔話を思い出した。

 あの、星の中に、ピニタも居るんだろうか?

私がここで死ねば、星に成るのだろうか?

 そうしたら、ピニタの傍に置いてくれるだろうか?

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