第5話 俺の後輩
「先輩となら、別にいいですよ」
彼女は上目遣いで、俺を見つめてきた。
「えっ……、 何が?」
俺はあえて確かめた。
「そりゃあ……」
右隣のデスクに座る彼女は、ゆっくり俺の方へ手を伸ばしてきた。
ごくりと生唾を飲み込み、その後の言葉を待った。
「一緒に残業ですよ」
彼女は、にこりと笑い請求書を俺に回してきた。
だよね。
「でも……高田野さんと二人きりになったら、仕事はさっさと切り上げて帰りますよ」
彼女は長い前髪を耳にかけ、せっせとデスクに積まれた書類を整理している。
美人ではないが、丸く小さい鼻と健康的に膨らんだ頬が不思議な安心感を与え、職場内だけでなく、他の部署の人間からも一定の人気がある。
そして、このセリフ。
とにかく、意味深なことばかり言ってくるもんだから、きっちり自分の特性を理解している切れ者だ。
なんども言うが、俺は嫁一筋だ。さっさと仕事を終わらして、1分1秒も早く帰りたい。俺は心を無にしてパソコンのキーを叩く。
「爪ちゃんと切ってるんですね」
彼女は、請求書と発注書を仕分けしながら、話しかけてきた。
俺は軽く咳払いをして答える。
「まあ、身だしなみは大事だからね」
彼女は「ふーん」と意味深に口元を上げる。
「普段は、たまに抜けてる時がありますよ」
「そ、そう……? よく見てるね……」
彼女から見られてる感がひしひしと伝わり、さっきまで順調に作成していた企画書が止まってしまった。
彼女は左肘をつき、頬杖をついた。
「最近、奥さんとうまくいってるんですか?」
「えっ、何、いきなり」
唐突な彼女の問いかけに、今まさに打ち込んでいた製品納価の入力を間違え、得意先の利益率が93%になってしまった。
「私……、今日はまだ、帰りたくないんです……」
彼女は目を潤ませた。普段つけている柑橘系の香水が漂ってくる。
ちょっと待て、いきなりどうしたんだ。
誠実にいくべきか、流れに任せるか。判断に迷った俺は、「そ、そう」と、小久保から言わせたら、女性の誘いをはぐらかすという粗相を選択してしまった。
彼女は目を閉じ、暫しの沈黙が流れた。
そして、何かを確認するかのように下を向くと、にっこり微笑んだ。
「あっ、1時間経った」
「えっ、あ、うん。そうだね」
「今月、残業代稼ぎたかったんです。目標たっせ~い」
そう言うと、彼女はてきぱきと身支度を整え、
「先輩、お先に失礼します」
と、軽く肩をボディタッチして帰っていった。
俺は思った。
おれ、サビ残ですけど……
結局、仕事が終わって帰宅したのは、午後11時を回っていた。
娘は既に寝ており、嫁はリビングでコーヒーを飲んでいた。
「おかえり、遅かったね。今からから揚げ温めるから。あっ、上着貸して」
俺は嫁に上着を渡すと、ソファに座りこんだ。
チャンスだ。
今日は、娘も早く寝ている。
2人きりの夜が訪れる。
俺は上着を持って立ち尽くす嫁を横目で見ると、共鳴したように目があった。
見つめ合う二人。
そして、嫁は口を開いた。
「何か……、女の人と食事に行った?」
「えっ? いや、何で?」
「上着から香水の匂いがするんだけど」
香水?
なにそれ?
まさか、あの時……
「最近、食べて帰る日も多いし、前から怪しいと思ってたのよね」
「いや、これは」
「あなたにとって大事なんは性欲だけなの? どれだけ、私が家事と育児で大変か知らんやろ? 何よ、させたくなくてしてないんじゃないっちゃばのに」
嫁はそう言い終えると、憤慨した面持ちでリビングを後にして、寝室のドアをぴしゃりと閉めた。
俺は思った。
おいおい、思いっきり誤解だよ。
そして、こうも思った。
わざとだったら凄いな。
彼女の名前は、高岡 みなみ
恋愛経験は不倫のみ。
俺の1つ下の後輩である。
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