第3話 俺の先輩

「まだ、奥さんとしてんの?」


「いえ、したいけどしてないです」

 俺は即答した。


「まじで!」

 彼も即答した。

 

 金曜日の夜。都内の熱烈中華食堂日高屋にて。

 がやがやした店内に、彼の一言が耳に突き刺さる。


「普通、結婚して10年もすれば、もうしなくなるでしょ」


「そうなんですか?」


「そりゃそうだろ。あんまり聞かないな。まあ、こんな話題は、周りの人間にも聞きもしないけどね」


「そんなもんですか……」


「この餃子を見てみ」

 彼は、皿に盛りつけられた餃子をひとつまみした。

 挟まれた餃子は、肉汁をたっぷり含ませて、ぷろぷる震えている。

「俺は、餃子は好きだよ。多分、好きな食べ物ランキングでベスト5位には入ると思う。でもさ、いくら旨い餃子も、毎日食卓に出てみ? 飽きるでしょ」

 彼はおもむろにポケットからスマホを取り出した。

「今はこれよ、これ」

 俺にむかって、line、Instagramを起動して、にやりとした。

「悶々するなら、現代っぽく、これで気になる子にメッセージ送れば楽勝よ」

 彼は餃子を一口で平らげ、「んがっ」と軽くゲップをした。

 

 放たれたほのかな餃子と胃液の混ざった香りに包まれた。目に映る全てのことはメッセージと感じながら、俺は行き場を無くして転がる枝豆を見つめていた。


 そんなものか。

 俺は自問自答して帰路についた。


 自宅に帰ると、娘のこよりが

「たあいあ!(ただいま)」

 と駆けよってきた。娘に先導されて、居間に入ると、キッチンでムスッとしている嫁が目に飛び込んできた。


「ちょっと、何か食べてくるなら、連絡してよ。天ぷら作ったちゃばけど」

 

 しまった、連絡を忘れていた。

 

 俺の焦りをよそに、嫁は食卓に置かれた天ぷらを片付け始めた。

「い、いや、食べるよ、天ぷら。俺、大好物だし」

 嫁と娘は、俺を白い目でじっと見つめている。

 取り繕うように、はははと苦笑いをかます。


「今度から、飲むなら飲むって言ってよね」

 嫁は再び天ぷらが置かれた盆を持ってきた。そのすれ違いざまに、嫁の頭皮からほのかに香る天ぷらの匂い。

 

 俺は確信した。

 ああ、やっぱり俺は嫁が好きだ。この生活感……


 動物のなかで嗅覚が一番優れているのはゾウだそうだ。

 なんでも、嗅細胞にあるGタンパク質結合受容体の一種である嗅覚受容体の数が、人間の約5倍はあるらしく、数キロ先の水を察知できる能力を持つ。自然界にとって、嗅覚というのは生存する上で必須の感覚器官であるとともに、危害を加えそうな民族の違いまでも察知できるという。

 俺は匂いというものに非常に重きを置いている。それは、フェロモンであったり、癒しであったり、果ては……


「ちょっと、さっきから私の周りでクンクン匂い嗅ぐのやめてくれん」

 

 まずい、また俺の妄想が現実に……


「もう、なんしよん。私の匂いを嗅ぐより、こよりのお尻を嗅いでよね」

 

 娘は満面の笑みでこう言った。


「れた‼」


 翌週、再び彼を日高屋に誘った。

 彼はビールをひと飲みしてから切り出す。


「どうよ? メッセージ送った?」


「俺は嫁一筋なんで、こんなもんは必要ないです‼」

 直球ど真ん中の俺の回答に、彼は目を丸くした。


「そんなに、可愛いのかよ、お前の奥さん。どれ、俺に見せてみ」

 と写メを要求してきた。

 俺はスマホを取り出すと、待ち受け画面を見せた。


 待ち受け画面は、当然、嫁と娘の2ショット。

 写真の比率は50対50だ。


 俺はどちらも同じぐらい好きなのだ。

 娘と嫁の可愛いさは、完全に別物だ。

 例えて言うなら、ラーメンとチャーハンが両方旨いのと同じ。同じ炭水化物というジャンルにおいても、半チャーセットが完全に市民権を得ているぐらいなのだから、彼にも理解は出来るはず。

 彼にそう伝えよう。心に固く誓い、話を切り出そうとしたとき、彼は興味を無くしたように言い捨てた。


「……まあ、普通かな」


「可愛いです!」

 俺は即答した。


 彼の名前は、高田野 淳二郎。

 バツ3。

 49歳

 現在、独身。

 口癖は、「課長、おっしゃる通りです」

 

 俺の会社の先輩である。

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