第2話 俺の娘
「言っときますけど、今日は寝るよ」
嫁の奈那乃は、俺を一瞥してさらりと言い放つ。
俺は長いうどんをごくりと飲み込んだ。
麗らかな小春日和の、とある休日の昼。
嫁の何気ないその一言に、昼飯の冷凍うどんをすする箸を止めて、暫しの沈黙が流れた。
そんな俺の様子を、嫁は気にも留めず黙々と冷凍うどんをすすっている。
俺は、毎回奥歯につまる小葱のいやらしさを感じつつ、至って冷静な素振りで切り出した。
「いやいや、藪から棒に、いきなり何の宣言なの?」
嫁は、うどんをズルズルすすり、最後の長い一本を勢いよく吸い上げた。
「……だって、期待させたら悪いやん」
最後に口に吸い込まれる長い一本から、茶色い汁がぴちょんと音もなく跳ねる。
「さっきから食器渡す時も、通路ですれ違う時も、さらりとタッチしてくるし」
「……」
――なぜ、俺の魂胆がばれたんだろう。
図星をつかれた表情を察知されないように何か発しようとしたが、嫁はそれを制止するように空のどんぶりを持ち上げて台所に向かう。
「あれ? 今日はしたいんやないん?」
「……いや」
「あら? そうなん? 私の勘違いかいな」
「……いや、はい」
「ほら、やっぱり」
嫁は、ほらねと云わんばかりに、両眉を上げて間髪入れず答えた。
「今日は無理でしょ。あなたが座ってるテーブルの下から香ってくる匂いに訊いてみてよ」
嫁は、俺の足元をちょいちょいと指差した。
分かる。
テーブルの下を見ずとも俺は分かっている。
何かと問われれば、達観した笑みを返すだけだが、分かる。
いや、まあ達観した笑みではなく、鼻をしかめて頷くだけなのだが。
「れた!」
テーブルの下から、天井を突き破るような嬌声が聞こえ、それとともに鼻腔をくすぐる、ある香りも薫ってきた。
この臭み。
出たな、こりゃ。
俺は思った。
ああ、確か、暖かい空気は上にあがってくるんだよね。
空気などの気体は、温度が低下すると密度が大きくなるため、下に留まる。その反対として、温度が上昇すると、密度は小さくなり上昇する。数式は忘れた。俺の人生に何の関係もないからだ。
俺は目を閉じて、若い記憶をたどり学校で習ったであろう気体の原理を思い出した。
いや、違うな。
学校で習ったんじゃなくて、一昨日ビックカメラでエアコンを買い替える時に、DAIKINの販売員さんに教えてもらったんだ。確か、その販売員のおじさんは、すきっ歯で屈託のない笑顔だったな。顔色も黒かったし、どこか肝臓でも悪かったのかな。そんなどうでもいい情報も、ついでに思い出した。
まあ、そうだよね。うんちってエネルギーの塊だもんね。
そりゃ上昇していくでしょ。
今、俺は冷凍うどんの鰹節の香りと、便臭のハーモニーを堪能している。
そういえば、ケミストリーって化学反応って意味だよね。昔、PIECES OF A DREAMを飽きるほどカラオケで歌ったっけ。嫁と一緒に歌った日が懐かしい。あの頃はよかった。
半端な夢のひとかけらが、不意に誰かを傷つけていく。
今なら分かる。その意味。
俺の夢……、それは忘れてしまいほど恥ずかしく、それでいて誰にも触れてほしくないほど愛おしい。まあ、話せば長い。
あれは、10年前の夏。その年は、例年に比べて気温が高く、じっとしていれば脳まで焼かれる暑さであった。どこの局もこぞって異常気象の特集を組んだ。「酷暑」という言葉生まれたのもこの年だ。
じりじりと容赦なく日差しが降り注ぐ、日曜日の午後4時、俺は……
「ちょっと、夢の話もいいんやけど、ごめんけど、オムツ替えてやってね。私は洗い物で忙しいっちゃばね」
嫁は、あごで指示をした。
「……はい」
俺は現実に引き戻された。
「ぱぱ、あえて!」
彼女は叫んだ。
彼女の名前は、小松崎 こより。
3歳。
快便。
おむつ外れず、トイレは専らテーブルの下。
俺の娘である。
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