第5話 水浴


 なみなみと水の入ったポリバケツを持つと、オートは勢いよく自分の頭にぶちまける。


 蛇口を勢いよく捻って出た滝のような水を、再びバケツの中へと溜める。うろ穴以外で水分を得られなかった為、今までの不足を取り戻すかのように浴びていた。これだけでオートは、人間界に来て良かったと思える程だった。


 バケツに水が溜まったので、今度は傍らの一二三にも浴びせる。


 心なしか喜んでいるように見えるのは、クラゲを模した魔獣だからだろうか。何度もそうしていたせいか、気が付けば二人とも完全に濡れ鼠と化していた。


「はしゃぎすぎじゃない?」


 まるで雨上がりのようにずぶ濡れになった地面を見て、ハクトは苦笑いをした。


 あまりにも身体が汚れていたので、オートは水浴びを提案された。水道があると聞いた少年は、勢いよく外へと飛び出して今に至る。


「こんなの知ったら、もう次元に戻れねえじゃねえか……」


 オートは渡された石鹸で、一二三を洗いながら呟いた。どうやら魔獣にも、洗浄剤は使って問題無いようだった。


 二日に一回あるか無いかだった水分補給が、ここに居るだけで毎日出来る。その点においては遥かに、次元より暮らしやすい場所だと感じた。少年は自覚していないが、人間界の方が住むのに適しているは当然の話だ。


「次元って?」


「グレーの空と荒野がある場所だ。お前らも居ただろ」


 水浴びのお陰で上機嫌だったせいで、オートはハクトの問いに何の疑いもなく答えてしまった。先ほどより警戒心が薄れてきているが、本人に全く自覚は無かった。


「あそこって次元っていうんだ。僕らは結界とか魔物の巣って言ってたけれど」


 ハクトの言葉を耳に入れず、オートは再び溜まったバケツの水を頭から浴びていた。普通の人間ならば、風邪やらを心配するところなのだが、少年は我を失うかのようだった。


「君はずっと結界……次元に居たの?」


「まーな」


「次元で何をしてたの?」


「魔獣を始末して、ソサリウムを集めてた」


 つらつらとハクトの問いに答えてしまっていたが、オート本人は自覚していなかった。


 ひとしきり水遊び。または水暴れを存分に味わったオートは、濡れ鼠のまま一二三へと身体を預けた。


 太陽は沈んで、空には星が顔を覗かせていた。グレーの絵具で塗りつぶしたような次元のものとは違って、まるで表情があるように見えたから不思議だった。


 俺がこうしている間にも、ノイリは魔獣と戦っているのだろうか。オートはピンク色の髪の少女の顔を浮かべると、心に生まれた罪悪感に歯を食いしばる。


 自分が居なくなって、きっと彼女は心配している。俺だけならまだしも、一二三まで連れてきてしまった。いまノイリは一人っきりで、次元をさ迷っているに違いない。次々と生まれる懸念事項に対して、少年はどうしようも出来ない自分を責め立てる。


 やっぱり、次元に帰ろう。戻ってノイリに会って、ここで起こった全ての出来事を話すんだ。ソファのようにもたれかかっていた一二三から身体を離すと、目の前には紺色の髪の男が居た。


「…………」


 紺色は何をするでもなく、黙ってオートへと睨みを利かせていた。くそったれ、と少年は心の中で悪態をついた。まるで逃げそうな気配がしたから、牽制に来たようにしか見えなかった。


 結論から言って、オートの勘は正しかった。


 紺色の男は彼が逃げようものならば、八つ裂きにでもするつもりだった。少年一人であれば逃げおおせたが、今の彼には一二三が居た。一人で次元に戻ったら、ノイリに怒られるような気がしたのだ。


「……これから結界に行くが、妙な動きをしたら殺す」


 結界とは何なのか分からない少年だったが、今の自分に拒否権は無い気がした。オートは黙って紺色に着いていくしかなかった。


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