第2話 淑女の微笑みと内緒の誘い
結局、あの後『何でも言うことを聞く』という約束は曖昧なまま、古文の宿題を野々宮さんに貸し出した。
「ホント!? まっじで助かる。ありがとー!!」と、拝み倒す勢いで言っていた様子を見ると、充輝としても貸した甲斐があるというものだ。
「それにしても……」
充輝は授業の傍ら、真崎さんの様子が気になり、時々様子を伺っていたが、クラスでの真崎さんの様子はというと、何一つとして、普段と変わらなかった。
黒板をに書かれた板書を眺めては、ノートに板書を書き写す。
休み時間になれば、スマホを眺めている時間がほとんどで、誰かに声をかけられれば、多少の会話をする。
記憶は定かではないが、おそらく、真崎さんは、あの場所に充輝がいたことに気づいているはずだ。しかし、あまりに普段と変わらなすぎて、本当に妄想だったのでは、思えるほどだった。
「おーい。充輝。昼飯どうするー? 俺は今から購買行くけど」
「あ、俺も行くわ」
「それなら、急がないと昼飯なくなるぞ。先行ってるからな!」
駿平は充輝を置いてさっさと購買へと小走りで向かっていった。
お昼になるとこの学園の購買は、文字通り人で溢れる。購買の規模もそれほど大きいというわけではなく、おにぎりやパンといった主食はあっという間に無くなってしまう。
充輝も、スクールバックから財布を取り出し、先に出ていった駿平の後を追おうと、教室から廊下へと急ぎ足で向かうと――
「きゃっ」
「おっと」
教室から出てすぐの曲がり角で、充輝のクラスに用があったのか、出入り口のところで鉢合わせになった。長い黒髪の女子生徒は、突然飛び出してきた充輝に驚き、後ろによろめく。
「ご、ごめん。大丈夫か?」
「あ、いえ。私はだいじょう、ぶ……」
充輝と偶然ドアの前で鉢合わせたのは、隣のクラスのクラス委員の
飯泉さんは真崎さんの幼馴染であると同時に、側付きのような役割を果たしている。人当たりが良く、清楚で貞淑。充輝も含めた多くの生徒がそんな印象を持っている。
そんな飯泉さんは、いきなり目の前に現れた充輝に一瞬、驚いた様子だったが、すぐに落ち着き保った声で、話しかけてきた。
「おや? 誰かと思えば、瑠璃奈のクラスのクラス委員の久野島さんではないですか。そんなに急いでどちらへ?」
「あ、えっと、購買に行こうと思って」
「そうでしたか。お急ぎなのは分かりますが、前方には注意してくださいね。久野島さんは瑠璃奈のクラスのクラス委員でもあるんですから」
「あ、はい。すみません。気をつけます」
充輝の口から自然と敬語が出てしまうくらいに、飯泉さんの所作や口調は落ち着いている。本当に同年代なのだろうかと思わず疑ってしまうくらいだ。
「では、私は瑠璃奈に用事がありますので」
飯泉さんは丁寧に小さく一礼すると、充輝の横を通り抜けようとする。
そんな時、充輝の頭に、一つだけ聞きたいことが思い浮かび、気づけば慌てて飯泉さんに声をかけていた。
「あ、あの。飯泉さん。少し聞きたいことが」
「はい? 何でしょう?」
まさかこんなところで、声をかけられるとは思っていなかったのだろう。飯泉さんはきょとんとした顔をしてこちらを見た。
「えっと、その。真崎さんって、ゲームとかってやったりするのかなぁって」
「ゲーム、ですか?」
「はい。スマホでやるやつとか」
飯泉さんは、突然の問いに少しの間、思案する。
「それは、私の口から話すようなことではないかと。気になるのであれば、久野島さんから、瑠璃奈に聞いてみてはいかがです?」
返す言葉もないくらいに、正論だった。
気になるのであれば、自分の口で聞けばいい。ただ、充輝は昨日『アノ出来事』がどうしても頭をよぎり、聞こうにも聞き出せないようなジレンマに陥っていた。
「それとも、瑠璃奈に声をかけられない事情でも?」
「えっ、あっ……それは」
そんな事情を知ってか知らずか、飯泉さんは、いたずらっぽく笑う。
充輝は、心を見通されたかと思い、ドキリとする。もし、それをこっそり覗いていたことがバレてしまったときには、例え、偶然通りかかってしまっただけであったとしても、問答無用で覗き魔のレッテルを貼られてしまうことだろう。
「ふふふっ」
飯泉さんは、口許に手を添え小さく笑う。
その姿は淑女そのものだったが、どこか妖しい魅力も兼ね備えているようにも充輝には見えていた。
「な、何か?」
「いえ。失礼いたしました。何でもありません。お話はそれだけですか? 久野島さんもそろそろ購買に行かないといけないのでは?」
「あ、確かに、そろそろやばいな。変なこと聞いてごめん。それじゃあ俺は行くわ」
飯泉さんの言う通り、そろそろ購買が混み始める頃だ。これ以上出遅れると、本当にお昼にありつけなくなる可能性だってある。飯泉さんに礼を言って、その場から離れようとすると、飯泉さんが、何かを思い出したかのように声をかけてきた。
「そういえば。久野島さんは、今日の放課後、何かご予定はありますか?」
「えっと。部活に顔出すくらいかなぁ、と思うんだけど」
「そうでしたか。もしよろしければ、放課後に少しだけ私にお時間をいただけませんか?」
「えっ?」
まさかの誘いに拍子抜けしたような声を上げてしまう。すると、その様子を察した飯泉さんは、充輝に少しだけ身体を寄せ、耳元で小さく呟いた。
「ここで話すわけにはいかない内容なんです」
優しい薔薇の香りふわりと風に乗り、充輝の鼻腔へと届いてくる。ただ囁かれているだけにも関わらず、なぜか顔が火照っていく。
そして――
「ダメ、ですか?」
近づけていた身体を離し、今度は上目遣いで、充輝のことを見つめてくる。潤んだ瞳と、ほのかに朱に染まった頬は年相応の少女の顔だった。
「い、いえ。ダメではない、です」
充輝の口は自然とそのように動いていた。
「ありがとうございます! では、今日の放課後、十七時にこの学園の屋上テラスでお待ちしておりますね」
「あ、は、はい」
ニッコリと微笑み、今度こそ真崎さんのいる教室へと入っていった。
「なんだったんだ? 一体……」
嵐のように過ぎ去っていった出来事を頭の中で振り返ってみる。
放課後の呼び出し。
人目につかない場所でしか話せない話。
「まさかな」
充輝は、頭の中で思い浮かべた、妄想告白シチュエーションをかき消しながらも、どこか陽気な足取りで、購買へと向かっていった。
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