月に行く女

第1話

宇宙服なしで月に行ける時代になった。


10年前、人類は生身で月に行くことに成功した。


正確には月の環境を弄って月の中でだけ生命活動が送れるように改良したのだが大したものである。


当時のニュースではアポロ11号の乗組員がスーツを着て月面に降り立ち星条旗を建てる有名なあの場面と現在の宇宙飛行士がラフな格好で月面に横一列に並んでサムズアップをしている様子が比較するように何度も放送された。


アポロ計画においても散々言われていたとおり、発表当初は陰謀だ合成映像なのではないかと言われ続けていたがその後何度も宇宙飛行士が宇宙服を着ずに月面を歩く映像が流れる度に人々にもその真実性が浸透していった。


疑ってかかっていた報道番組も10年も経てばまるではじめからそうであったかのように洋服で宇宙に行く飛行士たちの様子を特番で放送している。


一般人の月旅行計画も2年前からスタートした。最初は全世界から抽選で1万人、その後も1万人規模でぽつぽつと応募がなされ去年には日本国内だけで5000人が月面へと旅立った。


そして今月になって、先々月から公募していた一般人1名を月面に送る計画の抽選結果が発表された。


一般人1名のみとは大きく出たものだと発表当時は思った送られた1名は注目の的になるだろうと。キャッチコピーは「個人の活躍する時代へ向けて」。

そして私はそれに当選していた。


正直自分で応募したにも関わらず現実味がない話だった。


当選が決まっても意外にマスコミからの取材の依頼が殺到するなどということはなかった。旅行自体が当たり前となってしまって今更話題性がないのか、そこも個人の人権を尊重しての政府の対応なのだろうか。


応募のきっかけとしては少し複雑になる。私は今メンタルクリニックに通っているのだがそこに至った原因は社内の人間関係というところでそれ以上は控えさせてほしい。


メンタルクリニックの診察というのは診察と呼べるものなのかわからない問答を繰り返すばかりなのだがそれでも私の病状は一歩ずつスローペースではあるが確実に回復に向かってはいる。しかし、毎日の療養と変わらない日々の中で漠然とした新しい何かを見つけたい気持ちが私にはあった。


そんなときに目に入ったのが例の「個人の活躍する時代へ向けて」だ。もちろん当選のことは医者には内緒である。


私は今、月と地球をつなぐエレベーターを延々と上っている長年の宇宙計画の末、人類の技術の粋を集めて作り上げられた設備だ。

地上の景色が段々と遠ざかり成層圏に突入し黒くのっぺりとした空間を上へ上へと上昇する。ここに来てようやく月旅行が現実味を帯びてきた。


人類は月には生身で行けるようになったが宇宙空間には未だそれで行くことができずにいる。


毎年のように計画が立てられ宇宙飛行士を送り出しているが月の環境と宇宙の環境とではさすがに桁違いで開拓には少なくとも百年以上はかかると予想されている。


月に行っても私の病気が瞬時に寛解することはない。そんな夢のような話があってたまるか、あってほしいと思うのは事実だが。帰ってきても何も変わらない日常が続くだけだろうとも思うし、自分で新しい何かを見つけたいと言っておきながら現実はやはり厳しいのだと突きつけられた気分になる。


それでも私はこれから行く初めての土地の空気や地面の感触を想像して期待と興奮がないまぜになったような感覚を覚えた。



私は今日、月に行く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月に行く女 @murasaki_umagoyashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ