名に埋める

黄鱗きいろ

名に埋める

 高校時代の友人から電話がかかってきたのは、深夜一時を過ぎた頃だった。


 特別親しかったわけではない。直接会話をしたのだって、彼が落し物をしたのを拾ったのと、回収するプリントを学級委員だった彼に渡したときぐらいだ。


 だから彼のことを友人と言っていいのかはわからない。この電話番号だって、LINEの「知り合いかも?」機能で手に入れたものだし、当然彼から電話がかかってくるだなんて初めてのことで。


 通話ボタンを押すと、彼は泣きじゃくりながら何かをわめいていた。高校時代の凛とした印象なんて面影もない、疲れ果てて酒に焼けたような声だ。


「助けてくれ」


「もう嫌だ」


「捕まりたくない」


 スマホの向こう側でわめく彼をなんとか落ち着かせようと、俺は声をかける。


「大丈夫だ」


「もう大丈夫」


「俺を信じろ」


 無責任な言葉だ。だが、こんなに弱りはてた彼を見捨てることはどうしてもできなかった。


 俺の説得の甲斐あって彼は徐々に息を落ち着かせていった。しかし、通話口から聞こえるすすり泣きは止まらない。


「何があった」


 端的に問う。


 彼はひゅっと大きく息を吸い込むと、消え入りそうな声で答えた。


「人を、殺してしまった」


 それだけを言うと、彼はまた声を殺して泣き始めた。うずくまっているようだ。俺は一瞬言葉を失った後、思わず言っていた。


「今どこだ」


「俺の家……」


「住所は」


「神奈川の――」


 彼が言った住所は、俺たちが通っていた高校の隣町だった。俺が今住んでいる場所から三十分もあればいける。


「そこで待ってろ」


 通話を切り、上着を着て外に出る。二月だ。雪がちらつきそうなほど寒い。俺はガレージにあった大型のスコップを二つひっつかみ、白のハイエースに放り込んだ。


 キーを回し、冷え切ったハンドルを握る。大きく息を吐くと、俺はアクセルを踏み込んだ。


 深夜で空いている大通りを全速力で走り抜け、細い道に入ったところで速度を緩める。目立つ真似はしたくない。これからしようとしている行為を考えればそのほうがいい。


 ゆっくりと徐行運転で彼の住むマンションを探す。立地はかなりいい。彼は学年でも有数の秀才だったから、今はさぞ高給取りになっているのだろう。


 指定された住所にたどり着き、帽子を深くかぶって路駐した車から出る。明かりがともるエントランスを通り抜け、エレベーターで七階まで上っていく。彼の部屋は七〇一。角部屋だ。


 監視カメラがありそうなところをできるだけ避け、部屋の前にたどり着く。表札の名前は『河野』。俺は一瞬指を止めた後、インターホンを押し込んだ。


 ややあって、雑音とともに男の声が聞こえてきた。


「ど、どなたですか」


「俺だ。笹田だ」


 ドアの向こう側にいるのは間違いなく彼のようだ。


 彼は――河野は、外から聞こえるほどバタバタと慌てて玄関に駆け寄り、ゆっくりとドアを開いた。


「笹田……?」


「入れろ。状況が見たい」


 チェーンが解かれ、俺は室内に入る。二、三歩進んだあたりで、鼻をつく饐えた匂いに気が付いた。


 止まりかけた足を動かし、正面の引き戸を開く。居間だ。ただし、正常な状態とはいいがたい場所だったが。


 引き戸の目の前に女が一人、うつ伏せで倒れていた。着ているのはセーラー服。全身血まみれで、なんとか逃げ出そうと抵抗した跡がある。部屋中に散らばる真新しい血痕という形で。


「違うんだ笹田」


 背後についてきた河野が震えた声で言う。俺がすぐに答えられないでいると、彼は両手をせわしなく動かしながら俺の前に回ってきた。


「違うんだよ、悪いのはこいつで」


 河野はまるで親に悪戯がバレた子供のように不規則に息をしながら、今にも見捨てられそうな小動物のように必死で訴える。


「こいつ、親戚の子供なんだけど」


 おぼつかない視線が俺と女を交互に見る。俺は女を見て、それから部屋の隅にある女物のカバンを見た。ブランド物だ。女子高生が持つには高価すぎる。


「正当防衛だったんだ」


 俺の袖に縋りつき、彼は泣き崩れる。


「殺すつもりじゃ、本当に殺すつもりなんて」


 嘘だ。正当防衛ならここまでの有様にはならないはず。


 俺は全身の震えを息の形にしてなんとか吐き出し、女の死体を凝視したまま口を開いた。


「捨てに行くぞ」


「えっ」


「山にでも埋めちまおう」


 土足のまま居間に入る。乾いて固まりつつある血を踏んで、死体の前に立った。


 しゃがみこむ。鼻と口の前に手をかざす。呼吸はない。女は動かない。


「お前、明日仕事は」


「あるけど……」


「じゃあ今日中にこいつをなんとかしないとな」


 意味を理解できず河野は沈黙したようだった。俺は立ち上がって、つとめて表情を変えずに彼を見た。


「仕事を休んだらお前が疑われるだろ」


 彼はハッと気づいた顔をして、何度もせわしなく頷いた。


「ここから行ける山……」


 山があったとしても、この市に捨てるわけにはいかないだろう。だが、あまり遠すぎても今日中には戻ってこられない。俺が考え込んでいると、河野はうつろな目のままぽつりとつぶやいた。


「……高校」


 宙を泳いでいた彼の目と目が合う。


「俺たちの高校の裏山に捨てに行こう」


 ぴくりと眉の端が揺れる。


 いい案だ。あそこは夜に用務員がいないから、目撃される可能性も低い。


 俺はこみあげる恐怖を振り払うように死体から一歩離れた。


「カバンあるか。旅行用のでかいやつ」


「え、うん、あるけど……」


 河野は慌ててキャリーケースを持ってきた。海外旅行か出張でもしたのか、たっぷり四、五日分は入りそうな大きさがある。俺はそれを開けると、女の死体を引きずってキャリーケースの中へと押し込んだ。丸まらせればなんとか入るかと思ったが、頭が邪魔でなかなか蓋が閉じない。


「……やっぱりこのままじゃ入らねえか」


「笹田?」


「河野、手を貸せ」


 所在なさげに立つ彼を手招き、一緒にキャリーケースの蓋に手をかける。


「せーの!」


 思い切り体重を籠めると、バキッと音がしてキャリーケースは閉まった。開かないように押さえつけながら、河野にカギを締めさせる。


 キャリーケースを立てる。乾いた血が表面に付着している。濡れタオルで拭きとる。河野にカモフラージュのための着替えを持ってこさせた後、俺たちはキャリーケースを引きずって玄関へと向かった。


「……行くぞ」


 そっと金属製のドアを開き、顔だけを覗かせて外を確認する。時刻はまだ深夜二時半ごろだ。人の気配はない。


 ドアから体とキャリーケースを引きずり出し、俺たちは下に止めたハイエースへと足早に向かう。


 閉まるドアの隙間から見えた靴箱には、女物のブーツが数足置かれていた。






 裏山に向かう車内は無言だった。河野は目を伏せたままだし、俺も言うべき言葉が見つからない。


 俺は沈黙をなんとかしようとラジオに手をかけようとして、止めた。


 ひゅうひゅうと音を立てる河野の息を聞きながらハイエースは深夜の大通りを滑っていき、やがて見覚えのある住宅街へとたどり着いた。


 過去に自分が住んでいた団地を横目に、住宅街の奥にある高校へと向かう。そういえば河野は一軒家に住んでいたのだろうか。接点がなかったのでよく知らないが、団地では見かけなかった気がする。


 だがそんなことを聞けるような車内ではない。俺たちはただ沈黙のまま、高校の裏手にある小高い山へと車を入れた。


 開けたところに死体を埋めるわけにはいかない。五分ほど登ったあたりで車を止めると、俺たちはスコップとキャリーケースを持って、森の中へと足を踏み入れた。


 荷物をほとんど引きずるようにして、山の斜面を下っていく。平らな場所は掘りやすいが、見つかってしまうかもしれない。俺たちは斜面が厳しい場所を選び、そこで足場を整えた。


「……掘るぞ」


 河野は両手でスコップを握り締めながら、こくこくとうなずく。俺もそれにうなずきかえすと、スコップの切っ先を土に突き立てた。


 霜で湿った土は、予想よりも遥かに重かった。映画や漫画でよくあるようにはいかない。俺たちは全身汗だくになりながら、ほとんど耕すようなささやかなスピードで地面を掘り進めていった。


 数時間かけて、人ひとりがようやく埋まりそうな穴ができあがった。左手首に巻いた時計を見る。夜明けまであと一時間。――時間切れだ。


「もういい。埋めるぞ」


「え……」


「このままじゃ間に合わない。この後掘った土を戻さなきゃならないんだからな」


 無心で手を動かしていた河野はぽかんと俺を見上げて頷いた。


 木のそばに置いておいたキャリーケースを開ける。腐臭が一気に顔に吹き付け、俺は何度も咳をした。すぐ近くにいた河野もそれをもろに浴びてしまい、慌てて俺から離れると、地面に向かって嘔吐した。


「大丈夫か」


「……大丈夫、大丈夫だ、すまない」


 胃の中のものを吐ききった河野と一緒になって、死体を持ち上げて穴へと落とした。穴といっても、これではほとんどくぼみだ。だが、もうこのまま逃げるしかない。


 俺たちは無言でスコップを手に取ると、掘った土を死体にかぶせていった。






 土をかけ終わった俺たちはカモフラージュ用の服に着替え、バンに乗って山道を下っていった。足元に広がる住宅街の向こう側から、ゆっくりと線のように陽光が漏れ、朝焼けが空の下半分を照らしていく。


「朝だな」


 ぼそりと言う。河野は答えない。


 朝練の学生と数度すれ違う。なんとか間に合った。これなら目撃者は多くないはずだ。


 住宅街を通り過ぎ、大通りに出て、河野の住む市へと差し掛かる。彼はうつむいたままだ。


「あれ、親戚の子供じゃないだろ」


 ぽつりと、聞くつもりではなかったことを口にしてしまう。河野は分かりやすく肩を震わせた。


「……援助交際か」


 彼はすぐには答えなかった。大きな交差点に差し掛かり、右のウィンカーを点滅させる。カチカチとなるその音に紛れるようにして、河野は小さく言った。


「一回だけのつもりだったんだ」


 懺悔なのか後悔なのか、それとも責任転嫁なのか。河野は頭を抱えて絞りだすように言う。


「俺、一回だけ、悪いことをしてみたくて、それなのに」


 目の前の横断歩道を、高校生が渡っていく。窓は締め切っているのに、楽しそうな笑い声が聞こえてきそうだ。


「あいつが脅してくるから……」


 俺は横目で河野を見る。生真面目な奴だ。本当に魔が差しただけだったのだろう。


 信号が変わり、アクセルを踏む。


 ほんの数十メートル走れば、河野の家の最寄り駅だ。


 駅から少し離れた路肩でバンを止める。俺をうかがいながら外に出ようとしていた彼を、俺は手を出して引き留めた。


「家の鍵、貸せよ」


「え……」


「このままじゃ生活できないだろ。お前が仕事してるうちに掃除しておくから」


 俺の言葉をゆっくりと飲み込んだのか、彼はぐしゃぐしゃに顔を歪めながら、俺の手に自宅のカギを置いてきた。


「ありがとう笹田、本当に、ありがとう」


 扉が閉まりきり、足音が遠ざかっていく。俺は半分だけ開いていた口をゆっくりと閉じ、それから何故か穏やかな笑みを浮かべた。


「お前結婚してたんだな。――小崎」


 俺は、自分の知っている旧姓で、彼を呼んだ。

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