人の価値観
@dsmfoe9
第1話
道に落としたハンカチをそっと誰かが拾う。
その手はちいさくて、けれど、わたしなんかより温かい。
「おねえさん! これ」
男の子は小さく会釈して去っていく。その一連の流れに何も言えないで、
あっけらかんと私は立ち住んでいた。
今のよごれた世の中で、あんなにも優しい子供に出会えるなんて。
それに触発されたのか、少しだけ、だれかにも優しくなりたいと思えた。
その子にはまた会った。
今度は仕事の帰り道、ちょうど近くの幼稚園の脇を通っていたときだ。
ほほえんで、手をつなぐ父と子の背中。
お父さんってたくましいものだなと人知れず思う。
「おねえさん! また会ったね」
男の子は朗らかに笑う。
なんてことはないのに、その優しさが苦しくなる。
仕事でも、私生活でもうまくいかなくて毎日がむしゃくしゃする。
本当は自分のせいだとわかっているのに、どうしても誰かのせいにしたかった。
病気になってずっと楽に入院生活をしたい、と脈絡もないことを思う日もあった。
でも、新しい自分に変わりたいとわかっているから、それが余計にイライラした。
私はようやく挨拶をする。
おそらく不器用であろう私の会釈姿にも、男の子はにぱっと笑ってくれる。
「お姉さん。いやなことあった?」
なんで、そう口をついて言葉が出そうになる。
「じゃあこれ」
男の子はハンカチを差し出す。
私はまたびっくりして、言葉につまってしまう。
視線を男の子とハンカチに行ったり来たり、どうしていいかわからなかった。
自分が泣いていると気づくと、ようやくなにかから解放された気がした。
重い肩の荷物が、音を立てて割れるようだった。
ストレスが、人を壊すのはいくらでも見てきたけど、まさか自分に降りかかる
とは思いもしなかった。
偶然、人の優しさに老いも若いも関係ないとやっと知ることができた。
大のおとながわんわん泣いている。
近くを通る婦人達は訝し気な反応を示し、目の前の男の子は涙を拭いてくれた。
「どうかしましたか?」
保育士であろう妙齢の女性が私に声をかけた。
彼女は心配というよりは、事態を把握したいという気持ちが顔に出ている。
すいませんなんでもないです、と嘘をついて立ち上がる。
昨日から何も食べてないせいで足元がおぼつかないけど、どうにか自分を奮い立た
せて。
事情を説明して私が不審者ではないことを懸命に伝える。
彼女はなおも訝しいままであったが、どうにか留飲を下げてくれたみたいだ。
私はゆっくりとあいさつをする。
もちろん、ハンカチを貸してくれた男の子にだ。
いつ以来か、会社ではなく学校で習った懐かしいあいさつだ。
ぺこりと頭を下げて家路に戻る。
ちゃんとクリーニングしてまたあの子にハンカチを返そう。
きっと、そのほうがいい。
雨音がしたたかに路面をたたく。
「やべえ、今日雨ふるって言ってないじゃん!」
タンタン、タンタン。
私が駆ける音も、そのなかの有象無象に消えていくのだ。
人の価値観 @dsmfoe9
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