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 1986年12月から91年2月迄、51ヶ月に渡るバブル期が崩壊すると、御光の家にも陰りが見え始め、新入社員教育での大手企業の施設利用頻度が年を追う毎に減少。それに合わせ、一般信者数も下降傾向にあった。

 バブル期に拡大した現金資産は、事業拡張時に多額の銀行融資を受けた際の、月々の返済に充てられるようになり年々降下していく。

 農作物は、付加価値の付いた高価なものは敬遠され、安値での販売が続き利益はない。それと共に、所有する農地の資産価値も下落した為、バブル崩壊以後 貸し渋り、貸し剥がしに方向転換した銀行からの融資は期待出来ない状況が続いた。

 礼子が施設奉仕を強要されたのはそんな頃である。


 彼女は御光の家が嫌いであった。施設の存在そのものを憎らしく思っていた。


 1995年(平成7年)中学校に進学すると、土曜日の午後と日曜日の終日は、必ず祖父に連れられ、施設で家畜の餌やりや小屋清掃、汚物処理に従事させられた。

 仕事の後は、天子の説教を聴くのに信者は皆、正座をしなくてはならない。足の痺れで、10分とまともに正座が出来ない礼子にとっては、苦痛の時間でしかなかった。

 幼少から人見知りでいじめられっ子だった彼女にとって、中学校生活は憧れであり念望であった。新しい友人を沢山つくりたい、部活動を通して集中出来る何かを探したい、今の卑屈な自分を変えるきっかけが中学に進学することで必ず見付けられる……そう信じていた。しかし、現実は部活動に参加できず、友人と休みの日に会うことも儘ならない。まわりに遠慮しながら、つい人の視線が気になり思ったことも言えなくなる。全てに後退り……以前と少しも変わらない……。礼子が拭い去りたかった過去こそが今の日常なのだ。

 いつしか「こんなはずではない」という言葉が、礼子の脳内を呪文のように連呼するようになる。


 中学二年の10月に祖父が自殺をした。

 祖父の死後、その生命保険金で光洋への借金は無くなったものの、祖母は神経衰弱で心身に異常をきたし日に日に食が落ちると、翌年2月に肺炎を患い、二ヶ月後には帰らぬ人となる。

 天涯孤独となった礼子は、御光の家を頼らざる他生きる術を知らない。光洋に言われるまま施設で暮らすこととなった。


 中学生の礼子にとって、信者としての勤めは厳しい。

 毎朝5時には起床し、他の信者と共に、御光の家に研修に来ている各企業の新入社員の朝食づくりに追われる。7時に配膳を済ませた後は、自身の中学登校の準備をしなくてはならない。ホームルーム開始直前に飛び込むように教室に入るのが常であった。

 授業が終わると走って施設に戻り、家畜小屋の清掃と研修者への夕食準備が日々の役割となっている。夕食の後片付けを済ませ、天子による説教が終わるのが夜の9時をまわり、その後解放され自分の時間となる。そんな生活が一年続いた。

 薄々は感じていたものの、高校には進学させて貰えなかった。その後の生活は今まで以上に厳しいものであった。修行の中で自身を見失って行くのが解っているうちはまだ良いが、次第にそんな意識も遠ざかり、御光の家という底の見えない沼に、何時しかどっぷりと浸かっていった。


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