第8話 剣豪

 ドージョーに入ると、クラウスはブンゴから木刀を手渡された。よく使い込まれた様子が、掌から伝わる。

 ドウセツの背に従い、クラウスはドージョーに案内された。ドウセツがシンタに支えられて足を踏み入れると、それまで木刀を合わせて鍛練に励んでいたサムライたちが、一斉に打ち合うのを止め、ドウセツに向かって深々と一礼した。誰もが腰を折ったまま動かず、ゆっくりと歩くドウセツの一挙手一投足に注目していた。


「オヤカタ様、これに」


 誰かがドウセツに近づき、何かを手渡した。ドウセツの手元に、何か長いものが握られた気配がある。おそらく木刀であろう。クラウスがそれを理解するのと、ドウセツに付き添ったシンタ少年が、ドウセツから離れるのは、ほぼ同時だった。

 クラウスは無言のままドージョーの中心に進むと、一定の間合いを取ってドウセツの気配に向き合った。木刀を中段に構える。


「……油断はなし、か」


 ドウセツは動かないという左足を後ろに引いた姿勢で、半身前に出た右手に木刀を握り、やはり中段に構えたようだった。周囲ではサムライたちが一斉にドージョーの壁際に移動し、その場に膝をついて座る気配がある。

 まるで結界だ、とクラウスは感じた。ドウセツを中心にサムライによって作られた、外からの何人の干渉をも許さない結界。クラウスと『会話』をするために用意された、場。


「……見えぬ故に、真実を見る。それ即ち『心眼しんがん』の理」


 ドウセツは左足が使えない。ここまでの様子で、それは疑いようのない事実だとクラウスは理解していた。そして、それが剣を振るう上で、油断できる材料にはなり得ないことも、理解していた。

 ドウセツの気配は、底が知れない。廊下で感じた圧倒的な威圧感。かと思えば、好々爺にすぐさま切り替わる様子。そしていまは、木刀とはいえ剣を握ったにも関わらず、静かだった。例えるならば、波ひとつ立たぬ朝の湖面。どこまでも透き通る水が、ただ静かにクラウスを見つめている。

 あれほどの激情と、これほどの静けさが一人の人間の中に同居できるものなのか。この静けさこそが、ドウセツなのか。感情と気配を完璧に制御できることだけでも驚愕に値するが、ドウセツはそれだけではなかった。

 クラウスは中段の構えを僅かに崩し、右寄りに木刀の切っ先を倒した。ドウセツの動かない左足側を狙おうと考えた。だが、それをすぐに実行することはできなかった。踏み込めないのだ。なぜかはわからない。ただ、このまま踏み込めば、返されるように感じた。明らかにドウセツの弱味を突いた一刀だとしても、だ。

 それどころか、今度はドウセツが踏み込んで来る想像がクラウスの脳裏を過った。その剣は速く、どうにか避けて返す方法を模索する。

 クラウスはその場から一歩も動いていなかった。ドウセツもまた、その場から一歩も動いていない。だが、向き合って僅かな内に、クラウスは既に何度もドウセツと『打ち合って』いた。それはドウセツが意図的に発している気配によるものだ。気の強弱、緩急によって、クラウスを攻め立てる。それを受け、攻め手を模索するクラウスは、集中力を最大に使う故に体力と精神力を削り取られる。実際に打ち込み合っている方が、まだいいのではないかと思えるほどの、それは精神世界での戦いだった。


「……なるほど。そなたは確かに『心眼』の入口に立っている。だがいまのままでは、そなたも感じている通り、その先へは踏み込めぬ」

「……わたしは、その先へ進まなければならない」

「自分以外のもののために、だな」

「いいや、それは違う」

「ほう。では、何のために?」


 クラウスは大きく息を吸い、止めた。疲弊した精神に一喝を入れる。


「あの方こそが、わたしの存在の全てだからだ。わたしは、あの方が目指す地平に共に立つために、この場に立ち止まるわけにはいかない」

「なるほど。それすら我欲と申すか」


 ドウセツの気配が刹那、緩んだ。クラウスはそれを見逃さなかった。息を止めたまま、踏み込む一歩を出す。その一足で、ドウセツとの間合いを詰めたクラウスは、老サムライの左半身を狙う一刀を見舞った。

 踏み込みの速さ、木刀の速度、相手の挙動、どれをとっても回避や防御が可能な状態ではなかった。少なくとも、これまでの戦いの中では、返されたことはない。取った。クラウスはそう思った。

 だが、直後響いたのは、木刀と木刀が触れ合う乾いた音だった。

 なに、と思った理解が自身に染み渡る前に、クラウスの手に衝撃が返った。ドウセツに合わせられた、と悟る前に、クラウスの手から木刀が弾かれて落ちた。


「礼節。自律。護剣。クラウス殿、そなたは我らサムライの心理に近いものをお持ちだ……異国の方ではあるが、このドウセツが『心眼』の手解きをさせて頂こう」


 一体、どうやって返し刃を打たれたのか、クラウスには少しもわからなかった。そして、自分が『心眼』の入口に立っていて、その先へどうすれば進むことができるかも、やはりわからなかった。


「そなたには、決定的に欠けているものがある……このドージョーの客人として迎えよう。共に暮らし、共に鍛練を積むことで、そなた自らがその答えを見つけられよ」


 ドウセツの言葉は穏やかで、それでいて強い。波打たぬ湖面は、透けているのに底が見えない。

 自分に欠けているものを考えて、クラウスは多すぎる答えに辟易する。だが、そのどれも、いまドウセツが求めた答えにはならないと思い、言葉にはしなかった。ドウセツがクラウス・タジティに見たものは、おそらくいまの自分ではわからない何かだ。

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