第67話 現実:医学-医療-感染症 「地方病」
★「地方病」:日本住血吸虫症
▼概要:
固有名詞『地方病』は「日本住血吸虫症」の山梨県における呼称であり、これは日本・中国・フィリピン等でみられる住血吸虫症の一種で、ミヤイリガイ(オンコメラニア)という巻貝を中間宿主として成長した寄生虫(日本住血吸虫)が経皮感染によってヒトやウシ、ネコなどに感染することによって発生する感染症である。
日本では単に地方病といえばこれを指すことが多く、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。
日本国内では、広島の片山地方・九州の筑後川沿岸・千葉の利根川流域と山梨は甲府盆地底部一帯などの、ごく限られた特定の地域でのみ存在する風土病として流行したもので、中でも古くから甲府盆地が国内最大の罹病地域として知られてきたが故、特に山梨県下では官民双方広く一般的に「地方病」と称し地域特有の奇病と見なされていたが、広島で「片山病」、福岡で「マンプクリン」と、離れた場所でそれぞれ別の名前で呼ばれ、さらに中国では「シーチチュン(血吸虫病)」と呼ばれていた奇病が実は同じ病気であったと解明されたのは、研究者の努力もさることながら、情報伝達技術・交通機関の発達といったインフラ整備によって多くの人間が情報を共有できるようになったことも大きな要因である。
1904年に桂田富士郎が甲府市でこの寄生虫を発見し、1913年に宮入慶之助と鈴木稔が佐賀県鳥栖市において、寄生虫の中間宿主がミヤイリガイ(オンコメラニア)であることを発見したため、病名に「日本」の名が付されることとなった。
原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要し、日本国内では埼玉県・荒川流域の東京都のごく一部など6地域にのみかつて存在した風土病であったが、別に日本固有の疾患というわけではない。
むしろ日本では1978年に発生した山梨県の罹患者を最後に新規感染者が確認されておらず、1996年には山梨県知事の天野建によって「地方病終息宣言」が出され、住血吸虫症を撲滅制圧した世界唯一の国となる。
Wikipediaの「地方病」という項目が大変面白い読み物となっている。
▼その生態:
地方病(日本住血吸虫症)という病気は、その名もずばり日本住血吸虫という寄生虫により引き起こされる病気であり、この寄生虫が人の体内で生育・繁殖し、それにより高熱・激しい腹痛・下痢・果ては肝硬変などの重大な症状を発症したのち最終的に死に至る。
終末期の罹患者は腹が腹水で大きく膨れ上がることから「水腫脹満」とも呼ばれ、江戸期以前はこの名前で通用していた。
日本住血吸虫の中間宿主はミヤイリガイ唯一固種であるが、最終的な終宿主はヒトを含む哺乳類全般であり、終宿主の糞便に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)が水中のミヤイリガイに接触することにより感染源となる。
これはミヤイリガイの生息する河川や水路などで直接水に触れることによってセルカリアに感染し罹患するからだ。
▼山梨地方病撲滅期成組合:
プロとは時に命をかけて働く人間である。このような仕事をこなす水田耕作に従事する農民は感染の危険性が常時付きまとっていることになるが、しかし仕事ではない不要不急な子供たちの川遊びなどによる感染は、正しく指導することで防ぐことが可能なため、その原因の判明後は子供たちへの啓蒙対策が急務となった。
また堆肥として使用していたヒトの糞便の場合、一定期間貯留し虫卵を腐熟させ殺滅させることが感染源を絶つ有効な手段であったため、糞便を貯留するための改良型便所の設置も奨励されたが、対して排泄場所をコントロールできない保虫動物に対する対策は困難なものであったが、いぬネコなどの愛玩動物の管理監視体制が強化され、残る管理監視できないノネズミなどの野生動物は計画的に捕殺された。
さらに、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、やがてそれは官民一体による地方病撲滅運動に発展し、1925年(大正14年)に『山梨地方病撲滅期成組合』が結成され、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって進められた。
だがミヤイリガイは水陸両生かつ行動範囲が広く、水中だけに生息するとは限らなかった。つまり、水中でミラシジウムに感染したミヤイリガイが、陸上に上がった際に露などの水滴に触れれば、その水滴中にセルカリアが泳ぎ出すこともあり得たのである。
▼土地利用・農業形態の転換:環境破壊
戦後の山間地を中心とした農家の養蚕業による桑畑への転化と、その後の甲府盆地中西部における果樹栽培への産業転換に伴う土地利用の変化、甲府盆地中央部においても高度経済成長に伴う宅地開発などにより、古くから稲作が中心で長期間にわたって水を張った状態を必要とする水田が次々に減り、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。
この際の果樹栽培転換は甲府盆地全体の農民に強い影響を与えた。
先祖代々稲作を続けてきた土地ではあったが、同じく先祖代々苦しめられてきた地方病と決別するためなら反対する者などいなかった。
「この種を食い殺せ」
「駆逐してやる!! この世から…一匹残らず!」
さらに水田が減ったことに加えて機械化が進んだことにより、農作業用の家畜はほとんど姿を消し、ウシなどの感染家畜の糞便に含まれる虫卵が激減した。
肥料に関しても、堆肥などの自給肥料から化学肥料などのいわゆる金肥に転換され、虫卵が感染源となることが物理的に回避されるようになった。
また下水道の普及も遅れていた甲府盆地では、奇しくも垂れ流し状態であった一般家庭で使用されていた合成洗剤の排水によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。
複合汚染……
▼日住病全国有病地対策協議会:地方病終息宣言へ
その発足以来、関係各省庁への積極的な陳情を行い、寄生虫病予防法改正(水路コンクリート補助事業の期間延長)をはじめとする撲滅活動推進を果たし、水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、消毒などの取り組みによる効果は、新規感染患者の減少という目に見えた形で現れた。
ただしそれらの要因は、地方病対策だけのために意図的に行われたものではない。コレも高度経済成長期における日本のさまざまな生活環境の激変や都市化が殺貝剤散布や水路のコンクリート化などと相乗効果となり、結果として日本住血吸虫の撲滅へ寄与したと考えられている。
各地の対策事業が落ち着いた1982年(昭和57年)5月27日、甲府古名屋ホテルで開催された第23回大会において解散が宣言され、その活動を終えた。
「我が親愛なる山梨県民の皆様。
長きにわたり多大な苦難を強いた事、誠に申し訳なく思います。
此度の事業は、官民連携し国の過ち、延いては農政の至らなさを自ら正そうとしたが故の決起でもありました。
彼の者達、日本住血吸虫の所業は決して許されるものではありません。
故に、山梨の安寧を願い立ち上がった者達のその志を軽んずることはできません。
ソレを私達の心に刻みつけ、省みるべきは人の手の入った里山として在るべき真の姿にあると思い至りました。
管理された自然、それが延いては県民が一丸となり、強大な災禍に立ち向かう為の力となるでしょう。」
▼総論:
日本が世界の寄生虫対策の舵取り、イニシアティブをとる理由は、日本がさまざまな苦難を乗り越え、日本住血吸虫症ばかりでなく、数々の寄生虫病を制圧してきた経験を持つ公衆衛生先進国だからである。
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