第51話 現実:技術-車両 「代燃車(石油代用燃料使用装置設置自動車)」-或いは木炭自動車
★代燃車:ガソリンがなければ木炭を使えばいいじゃない
代燃車とは、車体後部等に設した木炭ガス発生炉で木炭などを燃やし、その際に発生する木炭ガス(一酸化炭素)を燃料にガソリンエンジンで走る車両の事である。
それは燃料である石油の入手が困難であった戦時中や戦後間もない頃に使用された車両であり、その名称は大日本帝国の商工省(当時)で木炭ガス発生装置を「石油代用燃料使用装置」と呼称していた事から、それらを搭載した車両の正式名称が「石油代用燃料使用装置設置自動車」であるとされ、略して「代用燃料車」あるいは「代燃車」と呼ばれた事による。
一般にガソリンエンジンを搭載した車両をベースにガス発生装置を追加で設置し、液体燃料である石油に代わって木炭やそれ以外の同様な固形燃料(薪・石炭(無煙炭)・コークスなど)を用いる事例もあり、車載ガス発生装置で加熱し不完全燃焼させ発生したガスを燃料とする車両で、見慣れない大きな装置が車体の後部などに追加装着されていたが、それがガス発生装置であった。
いずれも固形燃料を使用して内燃機関動力用のガスを確保するシステムである。
木炭ガス発生装置は主に、エンジンが共通であるバスと大型トラックや、出力と装置の搭載に余裕のある比較的排気量の大きい普通乗用車、普通・小型貨物自動車などに改造の上で搭載された。
バスの場合は専ら木炭バスや薪バスと呼ばれ、鉄道車両では、ガソリンカーや小型内燃機関車などにもそのような改造例が見られた。
これらの代燃車はガソリン車に比べ馬力は半分程度でベース車両に比べ動力性能が劣るなど不便な点も多く取扱も面倒であったが、昭和25年の民間石油輸入解禁まで使われていた。
だが戦後に石油事情が好転すると徐々に淘汰され、現在においては動態保存されている車両は数少なくなっています。
木炭等のガスは内燃機関の燃料としては低質で実用上の弊害も多かったため、正規水準のガソリンや天然ガス供給が改善されるに伴い用いられなくなったが、1990年代以降では、環境分野での啓蒙活動の一環や戦時下の状況を伝え残すために木炭バス(木炭自動車)を自作・復元する団体も存在します。
なお、貧困を極めるからボランティアと募金を寄越せと言ってくるアフリカ諸国だが、それ等の国で一般的に使用されたと言う話は聞かない……ずいぶんと余裕のあることで。
▼代燃車、その可能性:
代燃車は50年以上前に考案されたシステムではありますが、細部にわたりよく考えて作られており、当時の高い技術力や石油が入手出来ないという追い込まれた状況下で発揮された底力を感じさせられます。
代燃車は石油の入手が困難であった時代に利用されていましたが、近年においても石油などのエネルギーが入手困難になる可能性はあります。
その一例として震災などの緊急時が挙げられ、石油や電気といった遠方から運ばれるエネルギーはそのような場合に途絶えるリスクを伴うため、緊急時の交通手段として身近にある「木」を燃料とする代燃車に着目し、代燃車の性能は今まで定量的に評価される機会がなかったため独立行政法人交通安全環境研究所は、木や木炭を燃料とする代用燃料車の測定試験結果をまとめました。
ですがエンジン始動時に発生する不完全燃焼のガスの中にアルデヒトや芳香族炭化水素が含まれており、これらが体によくない成分のために、現状のままで「代燃車のリバイバルは難しい」などと結論付けている。
更に一酸化炭素を主成分とすることから、過去には炉の周囲へのガス漏れなどで、乗務員や乗客の一酸化炭素中毒事故も多発、死者も生じている。
また代燃車はエンジンを一発で始動させることが難しく、燃料となるガスをあらかじめ発生させておく必要もあるため、エンジンが始動するまでに数時間を要することもあります。
さらに、ガスを発生させるために使用する木材の種類によって、エンジン始動までの時間が変化することもあり、戦後のまだ発展途上だった自動車で鍛えられた熟練の高齢ドライバーならともかく、何も考えずにキーを回せば……どころかプッシュスタートボタンを押すだけでエンジンが始動する現在の自動車の便利さに慣れたヒヨッコには荷が勝ちすぎるのではないかと思われます。
デジカメ以前の「オート」モードの無い手動カメラのなどと同じで、代燃車を運転するには現在の自動車に比べ、空気と燃料の混合割合(空燃比)の調整など多くの操作が必要となります。
また、代燃車のバスでは上り坂に差し掛かると乗客が降りてバスを押していたと言われていますが、それも納得できる程度の出力なのです。
これは、既存のガソリンエンジンを流用できることから比較的簡単に改造できましたが、木炭ガス発生装置によるガスの熱量が小さいことや、吸気温度が高く充填効率(体積効率)が落ちるなどの問題があり、エンジンの発生出力は極めて低く、これが上り坂では乗客らが降りて後ろから木炭バスを押すといった光景も見られた所以で、おおむね発進加速時や緩い勾配において、同じ条件のガソリン車より1段低い変速ギアでゆっくりと走らざるを得ず、またそれでさえ出力が足りない実情が多々あったからです。
▼木炭自動車:もう木炭車と云う言葉は死語になった。
木炭をエネルギー源とし、車載した木炭ガス発生装置で不完全燃焼により発生する一酸化炭素ガスと同時にわずかに発生する水素(合成ガス)とを回収、これを内燃機関の燃料として走る自動車である。
とは言え、戦後70年も経てば木炭車と云われても困る人ばかりだろう。
「炭で走る蒸気自動車ですか」と聞く若者がいたが、あくまで蒸気機関は外燃機関であり、木炭車はガソリン車と同じ内燃機関である。
古い知識人で、木炭車を日本の知恵が生んだ傑作的大発明と云う人がいるが、あくまで第一次世界大戦が終わった20年代、自動車の動力源の一つとしてヨーロッパで生まれた独・仏・英・伊など非石油産出国が生んだ知恵であり、それらは太平洋戦争中の物不足のなか燃料が無くとも自動車は走らせなくてはならないので生まれたのが木炭車だと思い込んでいる人達なのだが、ルーツは欧州でありそれが日本で普及したというのが正解だ。
第一次世界大戦中の1910年代から第二次世界大戦終結直後の1940年代にかけ、戦時体制にあって正規の液体燃料(ガソリン、軽油など)の供給事情が悪化したイギリスやドイツ、日本やフランスなどの資源に乏しい自動車生産国で広範に用いられたことで知られているが、日本の木炭車導入は陸軍主導だった。
これは大戦前に事態を予測した陸軍が、日本の森林資源を考慮し薪ガス優先の代燃研究を始め、サンプルカーを欧米から輸入との熱の入れようで、タール除去装置で特許まで取得している。
その後の第二次世界大戦中、予想通り日本ではガソリンは統制物資となり、民間の乗用車・トラック・バス、みな木炭車に改造された。
なお戦後、進駐軍の兵隊達が「ストーブカー」と呼んで喜んでいたと言う。
▼代燃車:燃料は木炭だけじゃない、また固形燃料だけだと言ったがアレは嘘だ
日本での俗称は木炭車でしたが、木・薪・石炭・コークス・天然ガスなどで走る車を代用燃料車=代燃車と呼びました。
もっとも木炭とは炭/スミを指し初めの頃は炭でしたが、戦争が激しくなると炭も貴重品ということで、薪で走るようになり、終いにはそれでも足りず、遂には木片が主流になったのですが。
戦争中、車業界では炭も薪も代用燃料と呼んだから、車は木炭車と言うよりもやはり代燃車でした。
代燃機関は続々開発されましたが、昭和13年のリストでは、愛国式・燃硏式・陸式・浅川式・ミウラ式・理研式・大阪バス式・白上式・東浦式など、数多くあったことが伺えます。
これは昭和12年開始の支那事変(日中戦争)に反対した欧米が、ABCD(A米国・B英国・C中国・Dオランダ(考えてみればこれらは古くからの日本の貿易相手である))包囲網を結成して日本を経済封鎖したため石油やゴム鉄が不足したためで、これにより代燃車が登場したのである。
なお{ガソリンは血の一滴}は戦時中の標語だが、これは経済封鎖でゴムと石油が不足したためで、経済封鎖による資源不足に対して日本軍がボルネオの石油・マレー近辺のゴムを押さえるために始めたのが太平洋戦争だった。
こうして戦時中全盛を極めた木炭車は、物資不足の敗戦後も生き延びて、昭和26年、代燃車のガソリン車への変更禁止解除まで活躍しましたが、代燃車には炭薪ばかりでなく天然ガスも使われていた。
中でもヤナセが開発し昭和15年に発売した装置は、今のLPG車と思えばいい。
過日、江東で温泉掘削中メタンガスが噴出、火が点いて騒いだ報道があったが、江東から千葉方面地下にガス層があり、大多喜にはガス会社があり、ヤナセはそれを圧縮してボンベに詰め直接ガスとして利用したようだ。
▼仕組み:
●ガス発生装置:車載ガス発生炉+煤(タール)分離除去装置
車載発生炉に焚べた木炭や薪など固形燃料の不完全燃焼により発生炉ガスと呼ばれる一酸化炭素を主成分とする可燃性のガスが得られる。
特に木炭を使用する場合、発生炉中に水蒸気を吹き込み一部を水性ガスとして使用したものもある……ある種の水素自動車と言えるかもしれない。
水素を内燃機関の燃料として使用するという発想は内燃機関の黎明期から既に存在して、実際に水素自動車も製造された。
世界初の内燃機関で走行する自動車は1807年にFrançois Isaac de Rivazによって製造されたDe Rivaz engineで水素を燃料として使用したと言う。
- 閑話休題 -
こうして発生したガスに含まれる煤を分離除去してエンジンまで供給する機能を車載用にコンパクトにユニット化したものが、ガス発生装置である。
ここから発生した木炭ガスをガソリンエンジンの気化器まで導き、途中の管に『燃料切替弁』を設けて接続し、ガソリン車としても使える様にするのが一般的だったといわれる。
なぜならガソリン車としての機能は、エンジンが冷えて始動が難しい状態において始動専用に短時間ガソリンを用いる場合や、戦争終結後に配給外の非正規ルートから得た闇ガソリンによる運行時(ガス発生炉を積んだままで、闇物資を取り締まる当局には外見上木炭車のように見せかける)に役立ったからだ。
これは一般のガソリンエンジンを搭載するバスやトラックを改造して利用したことから、必然的に外観は当時主流であったボンネットバスやトラックと同等で、燃料供給装置として車両後部や側面に張り出した焼却炉に似たガス発生装置を持つことが特徴であるからだ。
なおガス発生炉は、通常バスの場合は車体後端にオーバーハング搭載、乗用車は後部オーバーハングに(場合によってはトランクルームを潰して)搭載したが、トラックの場合は貨物積載性を考慮して運転台直後の荷台一隅に積む事例が多かった(これらに隣接して燃料の薪炭を積載する荷台も設けられた)。
貨物車両の場合、助手席側からの乗降性を犠牲にして助手席側前輪フェンダーとドアとの間、ステップにかかるように発生炉を積む事例も見られた。
極端な事例では、小型車ダットサンの車体前端・ラジエータ前方に小型発生炉2基をハの字型に積んだ例がある。
●始動・燃料供給機構の操作:
今のLPG車と同じだから既存のガソリンエンジンをそのまま流用できエンジン改造は不要なので比較的簡単に代燃車に改造できたが、その運用には多分な問題があった。
ガス発生炉式自動車は蒸気機関のようなボイラーを使っていない。
その性質上、単純にガス発生炉の火力を強くすれば出力も向上するというわけではない。
完全燃焼させてしまえば、十分な一酸化炭素を得ることができないからである。
木炭バスの燃焼炉では、一般の焼却炉とは逆に積極的に不完全燃焼を生じさせる必要がある。
ガス発生炉始動直後はガス発生量が不足しており、やがてガスの濃度が高まるが、その後は燃料の消耗によってガスの発生量は減少する(通常の液体燃料車や天然ガス・プロパンガス車のように、タンク・ボンベからエンジンへの燃料供給を瞬時にコントロールするということができない)。
このため、運行経路を通じた乗車率や道路の勾配等を先読みし、送風機や、煙突に設けた弁を操作する高度な技量が求められ、急勾配を控えるルートでの運行は事に困難を極めた。
その始動手順はと言えば1930年代のシボレー代燃車を例にすると、上部の蓋を開け、初めに少量燃えやすい細片と新聞紙などを左の釜に入れ、上部カマスの中にある木炭や薪などを追加で入れ、下の焚き口で点火し手回しブロアーで火が回ったら上の蓋を閉め、外気遮断酸欠で発生した未燃焼ガスは棕櫚繊維などのフィルターへ行き、煤を除去されたガスを水タンク通過で冷却して綺麗になったガスをキャブレターに送る、という順序である。
代燃車の朝は、こんな作業が一時間近いのだからさあ大変。
さらに言えばタクシーやバスが出払った車庫前には、天日で乾燥するために薪が拡げられていた。
このようにガス発生炉式自動車のエンジン始動は容易ではなかった。
1942年9月の日本陸軍による試験では、朝の起動時に最低8分から最大50分、平均して20分を要したという。
また、始動手順の一例としては次のようになる。
1.炉の点火蓋を開けて火種による焚き付けを入れ、炉内に燃料(木炭、石炭、薪等)を投じて着火、送風機(通常はバッテリーおよびエンジンダイナモ電源の電動だが、手回し式の事例もあった)を作動させ、燃料の火勢を強める。
2.ガスの発生が始まったところで、マッチなどで点火してガスの濃度を確認、ガス炎の色で十分な濃度と確認したところで、コック切り替えでエンジン側にガスを送って配管内の空気を排出する。
3.ここでようやくエンジンスロットルを半開させ、セルモーターまたはクランクレバーでエンジン本体を始動するのである(それでも確実に始動するとは限らず、人力や始動済みの他車による「押しがけ、引きがけ」や、配給ガソリン少量を併用しての始動補助をしばしば要した)。このような手順は燃料に関係なくほとんどのガス発生炉式自動車の共通点で、始動作業に携わる運転手らはこの間、常時一酸化炭素中毒に注意する必要があった。
炉内燃料の2/3が燃えたあたりが燃料再投入のタイミングであり、実用上の航続距離はそこまでということになる(坂上茂樹の燃料の種類も込んだ考証によれば、バス・トラックの場合、一例として薪自動車 60km、木炭及び半成コークス自動車 80km、石炭自動車 120km 程度であった)。
ただし始動作業が煩雑・始動性も甚だ悪いため、当日の運行開始時に発生炉に着火してエンジンが回り出したら、あとは1日の仕業終了まで炉とエンジンは作動させ続けざるを得ない事例が多かったので、実際の航続距離はもっと悪かったと考えられる。
●整備:
発生したガスからススや水蒸気を除去するフィルターの設置は必須であるが、濾過能力不足のため、ガスには水分やタール成分が含まれてしまうことが多かった。
これらはシリンダー内でのピストンリング固着やピストン焼きつき、エンジンオイルの極端な劣化など、木炭自動車独自の弊害として現れたことから、木炭・薪ガスエンジン車では、通常のガソリンエンジン以上に頻繁な点検・整備が求められた。
車載用のガス発生炉は、定置式のそれに比べて構造面での制約が多く、薄い鉄製の炉は常時900℃以上での過熱状態となるため、劣化は早く、その修繕・交換での維持コストは安くなかった。
またできるだけガス発生効率を維持するため、内部の清掃も毎仕業ごとに実施せねばならなかった。
これは燃えカスの配分が固化した「クリンカー」が発生しやすかった石炭燃料で特に顕著で、このためクリンカーの生じにくい中国産無煙炭の供給が途絶えた太平洋戦争末期には、車載ガス発生炉に石炭を使用する事例は廃れた。
▼歴史;
●世界:
日本国外では炭素燃料のガス化 (en:Gasification) を利用して燃料を取り出し、これを利用して動作するエンジンを総称してWood gas generator(木材ガス発生器)と呼んでいる。
古くは日本の木炭バスよりも先行して、第一次世界大戦期から定置式ガス発生装置の技術を活用してヨーロッパ各国で自動車に導入された。
フランスは第一次大戦後も木炭ガス自動車の開発に熱心であり、1926年には自動車税半額減免、1928年以降は自動車税免除と補助金交付を実施するなどの手段で、木炭ガス車の平時の普及に努めていた。
第二次世界大戦中も純粋な石油事情の悪化からこのような機関は、ドイツなどの枢軸国側の国家のみならず、フランスやイギリスなどの連合国、スウェーデンなどの中立国でも広く用いられた。
1950年代以降は燃料事情の改善により多くの国で廃れたが、近年では趣味の一環で自作される例が生じている。
アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁 (FEMA) は、将来的に石油が枯渇した場合や第三次世界大戦などの破局的な戦争や災害が発生した場合に備え、1989年にオークリッジ国立研究所に高出力の新型木炭ガス発生装置の研究を依頼している。
なお、周回遅れの北朝鮮においては化石燃料不足の影響もあり、多くの木炭バスおよび木炭自動車がいまだに現役である。
そして木材資源を浪費して禿山の山々が増えていく。
●日本:
日本では燃料用の原油が不足した第二次世界大戦前後の1930年代末期から1940年代後期にかけ、民間の燃料消費を抑え、軍用の燃料を確保するため使用された。
1910年代以降のヨーロッパにおける木質ガス発生装置開発の影響は文献等で伝えられていた模様であるが、日本における木炭自動車の最初の記録は、日本板硝子の前身・日米板ガラスの創立者である実業家の杉田與三郎 (1885 - 1966) が1925年に個人的研究の範疇でガソリンエンジンのトラックを改造して製作したものとされる。
杉田の実家は薪炭商であり、また日本国外への外遊経験などもあったことから着想した模様である。
1925年8月、大阪での試運転に際しての新聞取材では、廉価な松炭を燃焼させて水蒸気を加えたガスを燃料として利用しているむね説明されており、後年における湿式発生炉の一種であった。
実際に杉田自身の手で長距離試運転も行われたが、どうにも後が続かなかった。
1927年には、当時フランス車パナール・ルヴァッソールの輸入元であった大阪の稲畑商店(現・稲畑産業)が、フランスから木炭ガス発生炉搭載の自動車を初めて輸入している。
この頃から国産による自動車用木炭ガス発生炉開発が始まり、ガスエンジンの権威であった浅川権八による「浅川式」(1928年)、日本陸軍の技師・三木吉平による薪対応型の「三木式」(陸軍での開発であることから「陸式」とも_1928年 - 1929年)、フランスで木炭ガス発生炉工場に勤務した経験を持つ技術者・白土允中による「シラト式」(1930年)などのガス発生炉が発表され、新案特許を取得するようになる。
以後太平洋戦争中までに大手企業から中小零細企業、さらには自動車を運行する事業者の自社開発に至るまで様々なガス発生炉が出現したが基本的な原理に大差はなく、これらは木炭含有の水分によらず給水による加湿を行う『湿式』(浅川式など)と、木炭含有の水分のみで必要な湿度を補えるとの考え方に立つ『乾式』(三木式など)に大別される。
乾式は加湿不要で、もともと水分含有量の多い薪の使用にも適するという特徴があるが、反面薪を使う場合は加工済みの木炭よりもタールなどの発生量が多い欠点があり、湿式との優劣は一概に判断しがたい。
しかしいずれの方式も燃料の薪や木炭をいぶすため、蒸気機関程ではないにしても、エンジンをかけるのに非常に時間がかかる欠点があった。
熟達者でもエンジン始動準備に一時間程度を要したといい、戦場ではこの遅さは命取りになることから軍用には全くと言っていいほど使用されなかった。
(とは言え、当時のガソリンエンジンもそれなりの手間がかかったようではあるのだが)
また、発生炉は使用中絶えず高温に晒されるため熱による劣化が激しく、短期間(数ヶ月~2年以内)での修繕・交換が避けられなかった。
1932年頃からバス会社などに試行的に木炭ガス発生炉を採用する事例が生じ始めたが、この頃は外資系石油会社の日本進出に伴って日本国内のガソリン価格が大幅に下落していた時期でもあり、出力低下と取扱の不便さが伴い、しかも割高な木炭車は定着しなかった。
商工省は1934年6月に「瓦斯発生炉設置奨励金」制度を創設、バス会社等への手厚い補助を組んだが、導入事業者があまりに少なく補助金予算9万円の1割程度しか使うことができず、制度創設3年目の昭和11年度は枠を3万円に減らすような実態であった。
それでも1937年以降の日中戦争激化で燃料統制が始まると民間自動車の木炭燃料へのシフトは避けられなくなり、各種のガス発生炉開発推進とも相まって導入例が急増した(商工省補助申請は1936年度18件に対し、翌1937年には50件を超え、以後は急速に増加した)。
1938年(昭和13年)には、東京都でバスに初導入され、1939年(昭和14年)には、民間普及促進のため木炭車の全国キャラバンが実施され、1941年(昭和16年)には民間普及促進のため歌とレコードが作られた。
戦時中は、軍需関連業務でガソリンの特配を受けられる特殊な例外や、地元産の天然ガスを燃料に使用できるガス産地のような例を除けば、日本全国で木炭車が多用された。
国産供給可能とはいえ、まとまった量の木炭を入手することは容易でなく、政府主導の木炭配給も滞りがちであった。
自社で木炭生産の炭焼きを行うバス会社や、木炭に加工されていない薪をそのまま使用する例も見られた。
このため、太平洋戦争末期から終戦直後にかけては、乾燥・細断のみで燃料を使用できる薪ガス発生炉が好んで用いられるようになった。
石炭の中にも、良質な無煙炭の一種には車載炉におけるガス発生に適した性質のものがあり、わずかながら石炭を利用した事例もある。
日本では戦後、配給制度の正規ルートを通さない米軍横流し品や台湾人などが運営する闇市で闇ガソリンが出回るようになったことで多くのユーザーはこれを利用するようになり、さらに配給制度が撤廃され燃料調達が容易になると、木炭自動車は本来のガソリン車状態に復元された。
またバス業界に戦後も多く残った木炭バスは酷使で老朽化が進んでおり、GHQによる自動車生産統制緩和が進行してガソリン・ディーゼル燃料のバスが新造されると短期間で代替されて淘汰された。
1951年5月に運輸省が「ガソリン事情の好転」「森林資源の保護」の2点を挙げ、木炭自動車の廃止にむけて動き出す事を発表した後は急速に姿を消した。
1980年代以降、事業者や博物館などで木炭バスを製作するケースが散見される。
但し、これらはかつて実際に木炭バスとして使用されていた車両の復原(レストア)ではなく、主として1950年代の古いガソリンエンジンバスをベースに、木炭車改造された復刻品がほとんどである。
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