第50話 現実:技術-路線 不要不急線
▼不要不急線:『不謹慎』などと言っていた奴の祖先は戦時中『非国民』と言っていた。
日中戦争から太平洋戦争に向かう最中の1941年(昭和16年)8月30日以降に、政府の命令により線路を撤去された鉄道路線のことである。
不要不急線に選定された鉄道路線は、要するに軍事輸送上重要度の低い路線である。
また休止に至らなかったものの、複線のうち1線を撤去され単線化されたものも同様の趣旨である。
●戦時中:
太平洋戦争末期に日本の公共交通機関の路線で不要不急線の認定をした目的は、勅令第970号(改正陸運統制令)による重要路線への資材転用、もしくは勅令第835号(金属類回収令)による武器生産に必要な金属供出であった。
つまり第二次世界大戦中レールを兵器の材料にしたり、他の重要路線の建設に充てるために、ローカル線や観光路線は役立たずの「不要不急線」として休止され、そのレールが撤去されたのだ。
また金属類回収令が公布される以前から政府はその要請により、あくまで『任意』での鉄材供出を求めていたのだが、これに応える形で公布以前に撤去を行ったケースも存在する。
一例としては、1939年(昭和14年)9月に単線化された鞍馬電気鉄道の二軒茶屋 - 市原間がある。
逆に一時は不要不急線に指定されながら、松代大本営地下壕建設のため廃止を免れた長野電鉄河東線 屋代 - 須坂(24.4km)(2012年(平成24年)4月1日廃止)もあれば、有馬線や橋場線の橋場駅付近のように、正式な廃止手続が取られていない区間も存在する。
●戦後:不要不急の成れの果て……
戦後になると、国鉄線はその多くが復活したのだが、私鉄では再開するための費用が捻出できず、そのまま廃止となった路線も多い。
ほとんどの路線は手続上「休止」扱いとされたが実質的に「廃止」であり、再開されなかった路線はその後正式に廃止された。
国有鉄道の多くの路線は戦後線路を復旧し営業を再開したが、民営鉄道の場合は戦後復活を果した例がケーブルカーを除くとほとんどない。
また、復活を果たしたものでも後の「赤字83線」や「特定地方交通線」などの取組みの中で、再び廃止された路線も少なくない。
●その他:昭和初期の12年間だけ高松市の仏生山―塩江間(16キロ)を結んだ「塩江温泉鉄道」。
日本に現存する標準軌幅の営業用路線はすべて電化路線であり、日本が領有していた外地を除くと、 過去を含めても営業用の路線として非電化だったのは琴平電鉄塩江線が唯一の例である。
日本内地における、史上唯一の「非電化『標準軌』鉄道線」(外地では南満州鉄道のあじあ号などの例はある)であった琴平電鉄塩江線も戦時統制下のガソリン不足で湯治客輸送を目的とした路線ゆえに廃業させられ不要不急線として廃止に追い込まれ、車輌を含めた資材は外地へと供出されてゆきました……その路線は「高松の奥座敷」と呼ばれる塩江温泉に至る国道・県道を沿うように敷設されており、廃止後60年以上を経てなお一部に廃線遺構が残る。
塩江温泉郷の歴史は古く天平年間に遡り、開湯伝説によれば行基が開湯したと伝えられ、空海も修行し湯治を万人に勧めたといわれる。
何故なら、伝承によれば奈良時代の神亀3年(726年)に行基が近隣の大滝山に讃岐側塩江から登り山上に大瀧寺を建立し、その後空海も訪れて寺院を再興したといわれる。(八十八番大窪寺との関係が深い)
なお塩江は、古くは潮江と記されており、江は井(泉のこと)の転訛とみられ、塩気のある泉から塩江となったといわれる。
渓谷沿いに10軒ほどのホテルや旅館が並び、小ぢんまりとした温泉街を形成、とりわけ温泉資源に乏しい讃岐においては、歴史、規模ともに随一である。
戦前は華やかな歓楽街(宝塚歌劇団のような少女歌劇団もあった)も見られ、塩江温泉鉄道で高松市街(当時の仏生山町)と結ばれていたが、現在は保養・湯治向けの閑静な温泉街を形成している。
昭和4年(1929)11月2日に開通した塩江温泉鉄道(塩江線(しおのえせん))は、かつて香川県香川郡仏生山町(現・高松市仏生山)の仏生山駅と香川郡塩江村(現・高松市塩江地区)の塩江駅を結んでいた琴平電鉄(ことひらでんてつ、現・高松琴平電気鉄道)の鉄道路線で、実はその車両はガソリンエンジンを動力として走行する鉄道車両:ガソリンカーであり、ほとんどバス同様の1両での運転であったが、ただし多客時はバスとは違い2両編成で運行されていた。
だが、燃料不足の時局下においてガソリンカー達は、休車となるか木炭ガスを燃やす「代燃車」に改造され雌伏の時期に入る事になる。
1937年以降、日本が戦時体制に入ると、気動車の運行に必要なガソリンや軽油・重油・潤滑油等が使用制限され、1938年4月に成立した国家総動員法の下、ついに同年5月からガソリンは配給制となり、しかもその配給ガソリンには10%のアルコール(メチルアルコール)が強制的に混入された。
また鉄道省は1937年度を最後に気動車の新造を中止していたが、1938年以降私鉄に対しても内燃動車の新規製造を原則として認めなくなり、路線廃止や老朽化等で放出された中古気動車の譲渡価格は極度に高騰した。
なお、沿線に軍の駐屯地・軍用飛行場や鉱山などがある一部私鉄や、外地(台湾、樺太、満州)路線向けには、例外的に気動車新製が行われたが、それも1941年を最後に途絶し、同年に燃料油の民間配給が途絶えて以降、日本国内の気動車の運行は蒸気動車と代用燃料を使用したガソリンカーに限定されることとなったが、ついには昭和16年(1941)5月10日に廃止された。
・車体:
ガソリンエンジンを積んだ四十人乗りの小さな車体は、「マッチ箱」と呼ばれ親しまれていたが、この気動車は廃線後、変わった変転をたどった。
ガソリンカーとしての駆動装置および台車一切を撤去して、台車を電車用のブリル21E形4輪台車に交換して屋根にビューゲルを設置することで路面電車に改造され、当時日本の勢力下にあった満州国首都の新京市(現・中華人民共和国長春市)に送られて、同市の路面電車(現長春有軌電車)として使われたのである。
新京市内で運行されている戦時中の姿が記録写真に残されているが、戦後の消息は不明である。
・廃線跡:
始発駅は現在の高松琴平電鉄仏生山駅の東側がホームであった。
16キロの路線を12の駅で走った路線 当時 1つの駅の区間の料金は 5銭」
塩江温泉鉄道の路盤跡は、仏生山駅の東側にある職員駐車場が駅舎跡で、その高松琴平電鉄仏生山駅東側の電留線からそのまま南方向にほぼ直線になだらかな坂を進み直線に延びる道であった。
また、廃線跡のうち仏生山駅から高松市香川町浅野にかけては道路となっているが、本路線がガソリンカーでの運行であったことから、この道路には「ガソリン道」という通称がある。
さらに、その先の同市香川町川東下から同市塩江町安原下にかけての廃線跡は香川県道269号塩江香川高松自転車道線(香東川自転車道)となって、その周囲には廃トンネルや河川の高架跡などの遺構が見受けられる。
現在代替交通として、ことでんバス塩江線が高松駅 - 塩江間にほそぼそと運行されている。
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