第46話 現実:技術-設備-ペルシア式カナート 〜 人工灌漑により古代ペルシアは古代メソポタミア文明を凌駕していたのか? 〜

ローマは死して水道橋を残し、ペルシャは死してカナートを残す


★カナート:イランにおける地下水路(カナート)による灌漑

 数千年の歴史を持つイラン地域に見られる地下用水路カナートは、イランの乾燥・砂漠地域における農業の最も重要な水源であり、イランの地下水を語る上では欠かせません。


 この古代ペルシアで生まれたとされる地下水路を利用した集水暗渠(しゅうすいあんきょ)による人工灌漑(じんこうかんがい)システムは、山麓の扇状地などにおける地下水を水源とし、離れた地域に水を供給するシステムである。


 蒸発を防ぐために地下に水路を設けるのだが、山麓に掘られた最初の母井戸で水脈を掘り当てて、その地点から水平に近いなだらかな勾配で横坑(横穴)をを延ばしていくと言う。


 アフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタン、新疆ウイグル自治区などでは同様のものをカレーズ(ペルシア語:kariz, カーリーズ)といい、イラン東部やアフガニスタンなどではこの語が使われる。

北アフリカではフォガラ(foggara)という。



●ペルシア式カナートは、イランの世界遺産の一つである。

 カナートは紀元前の古代ペルシアで生まれたとされ、その始まりは紀元前2000年とも言われるが正確な起源は不明である。


 世界に伝播していった地下水路カナートは現代のイランにも数多く残るが、その中でも技術や立地の点で代表的と見なされる11か所のカナートが世界遺産の対象となっています。


 カナートについての最古の言及とされるのが、紀元前714年の事跡に関する楔形文字の記録である。

 

 それには、アッシリアのサルゴン2世がウラルトゥに遠征した際、オルーミーイェでの攻撃の一環で、何らかの用水路と思しき構造物の出口を破壊した旨が記載されており、これがカナートのことであろうと考えられている。(アッシリア人はその存在を知らなかった?)

故にカナートは現代のアラビア語だが、そもそも大元の語源が何であるかは確定していない。


 アッカド語やヘブライ語で「葦」を意味していた言葉が変化したとする説や、もともとペルシア語だったものがアラビア語に入ったとする説などがある。


・概要:

 掘削には測量が必要不可欠であり年月を経て、その技術は洗練されていった。


 カナートは長いものは数十kmに達するのだが、横坑を延ばす際には、水路の途上に完成後は修理・通風に用いられる「通気のためや作業のための地表からの工事用の穴」が多く掘られる事で、結果 縦坑を多く空けることになるので上空から見ると点状に縦坑が連なって見える。


 こうして水路が地表に出る場所には、耕地や集落のあるオアシスが形成され、耕地では小麦、大麦に加え、乾燥に強いナツメヤシ(ペルシャ湾沿岸の特産品)、近年では綿花やサトウキビなどの商品作物の栽培が行われている。

*ナツメヤシはシュメールでは農民の木とも呼ばれ、古代メソポタミアではデーツは穀物よりも安価であることもあり、デーツのシロップは蜂蜜の代用品ともなった。(樹液は糖分を多く含むため、インドのベンガル地方では樹液を煮詰めて砂糖を作り干菓子として利用する。)

またギルガメシュ叙事詩やクルアーンに頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであるといわれる。


 またペルシャには紀元前よりヤフチャール(ヤフが氷、チャールが窪みの意味)と呼ばれる氷室があるのだが、この「冬に出来た氷を夏まで保存する貯蔵庫として使っていた建物」を、蒸発冷却によって、更に夏でも内部を寒冷な温度まで下げるために冷風の取り込み口となるイランの地下水路カナートと繋がっていました。


 なお、この地下水路(カナート)による冷却は、バードギール・採風塔と呼ばれる、天然の風を利用したクーラーにも利用されていました。



▼前置き:古代ペルシア(エラム)とは、かの古代メソポタミア文明を凌駕していた?

 イラン高原を中心に各時代に出現したペルシア帝国が(*ペルシア帝国とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家を指し、一般的にはアケメネス朝・アルサケス朝・サーサーン朝に対する総称であり、イランとペルシアは代替可能な名称である。)


 ティグリス川・ユーフラテス川沿岸の古代メソポタミア文明を凌駕した点の一つに(*古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。


 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。


 古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。


 この地に「カナート」という灌漑施設があったと言われる。

現在に至るまで、この古代に起源を持つ水路が使われている地域も多い。

(もっとも道や水路などは古代から踏襲する事が多いが……主に利権的な問題で)


 イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであった古代エラム人の残した文化や政治など諸制度は、その後もメディアやアケメネス朝ペルシア時代においても受け継がれ大きな影響を及ぼした。


 そう、イランの歴史時代は、実は原エラム時代にはじまるのだった。*「エラム」は古代バビロニア(南部メソポタミア)語で東方を意味し、もともと山岳部の地方を指していたメソポタミアの東、イラン高原南西部に存在していた文明である。



◯「メソポタミア」:

「メソポタミア」は世界最古の文明で、楔形文字が使われ青銅器が普及した。


 両大河に挟まれたメソポタミアは最初の農耕・牧畜を始めて、大河を利用した灌漑農業をも行っていったので少ない降水量ながら肥沃な土壌に灌漑を施すことにより高収穫量の多種の農産物を得る穀倉地帯であった。


 土地が肥沃で穀物などの食糧資源が豊かとなり、その周辺部で養育される羊から得られる羊毛を原料に利用して毛織物業も育まれ、特産物として外部に輸出されるほどに早くから発展していたが、逆に鉱物・森林資源は非常に少なく鉱物・ 石材・木材などの一次的資源は域内で産出されないため、青銅器を製造するための基本的な資源さえ不足していたためこれら資源を確保する為には、外縁部の山岳・高原地帯など周辺地域との交易は不可欠で、それによっての輸入に頼らざるを得ななかった。


 その貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明や後にインダス文明とも交易があったことも推測される。


 だが、この時代帆船がペルシア湾を航海していたであろうが、当のシュメール人が自らの船でペルシア湾に乗り出したかどうかは不明である。


 まあ、それがあったとしても近隣の中継地までであろうが。


 なお、シュメールやバビロニアでは食物をはじめとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。(バビロニアにおいては対外市場は存在しなかった。)


 ここで注目すべきはこの当時の先進国が交易にあたり穀物や土器を支払い手段としていることである。

貨幣の誕生は未だ果たされていなかったのだ。(保険や為替は存在したのだが)


 このため円筒印章と楔形文字が商取引などの手紙や契約文書の主体を示すために急激に

メソポタミアを中心とした各地へ広まった。


 ウル第3王朝時代になると粘土板文書にも円筒印章が使用されるようになり、

王や王妃、官僚、商人などの印影や印章が多数発見されている。

楔形文字の普及範囲と円筒印章の普及範囲は大体一致し、ヒッタイトやエラムなどでも用いられた。



 西アジアでは、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に銅製錬の技術が発展していき、砒素銅や琥珀金エレクトラム(金と銀の合金)などが鋳造されてくる。(*エレクトロン貨は紀元前7世紀の終わり頃に発明された。


 リュディアで硬貨(コイン)が発明されたのは偶然ではなく、首都サルディスは、ミダースの故事でも有名な砂金を豊富に産出するパクトーロス河畔に位置し、エーゲ海~メソポタミア~ペルシアの間の東西交易路の要衝にあり、取引の円滑化の為に、硬貨(コイン)を生み出す必然があったといえる。)


 後期銅石器時代の工房では、メソポタミアの近場で算出される銅鉱石から高品質の銅を得るために、別の鉱物を意図的に混ぜ合わせたと推察される。


 約5000年前になると、ついに銅と錫の合金である錫青銅が開発される。


 手近に産出されていた銅と、さまざまな鉱石の組み合わせが試みられていった結果、もっとも効果的なのが錫であることがわかった。


 西アジアで最古級の錫青銅は、アッカド地方のキシュ遺跡(現代名ウハイミル)で、初期王朝時代ⅢB期(約4400年前)のA墓地に副葬された斧である。


 この青銅斧には、錫が15.5%含まれていることから、錫青銅の精錬技術においてまだ初歩的な段階にあったと推定されている。

こうした銅と錫の出会いによって青銅器時代の幕開けとなる。


 なお錫青銅の原料となる錫だが実は比較的メソポタミアの近場で採掘できた銅とちがい、かなり遠方に行かないと手に入らなかった。

良質な錫の産地は、イラン東部からアフガニスタンにかけての地域に限定されるのだ。


 したがって、メソポタミアの支配者たちが東方の資源を開発するには、陸上交易網の整備を待たねばならなかったのである。


 ハンムラビが古代バビロニア王国を建国する以前の混乱期、イシン・ラルサ時代とも言われた時代のメソポタミア北部では、アッシリア商人が広域にわたって活躍し、驚くべき商業ネットワークを形成していた。

この古アッシリア商人だが、特に古アッシリア時代の200年間はオリエント各地で活躍した。


 そのように交易活動を広く行ったアッシリア商人達にとって取り分け重要だったのは、ロバを用いたバビロニアとアナトリアの間の中継貿易であり、その拠点としてアナトリア半島のカネシュなど交易先の各地の都市に隣接して商業植民市カールム(港湾区)と呼ばれる商業拠点集落を数多く形成していた。


 アナトリアやシリアには30ものアッシリア商人たちの商館または商業共同体 (karum)・商業居留地 (wabartum) が存在していた。


 なぜならアッシリア商人は、バビロニア産のヒツジの毛織物や、ザグロス・バクトリアの錫をアナトリアで売買して利潤を得た。


 ことに青銅器の急激な普及によって、その製造に必要な錫の需要が高まっていたことは、アッシリア商人が躍進した原因の一つである。


 アッシリア商人の活躍したアナトリアでは銅鉱石は産するが、錫の鉱床を欠いていたのである。

そしてこの交易ネットワークは高度に整備されており、商人の分業も進んでいた。


 一方エラム商人はイラン高原を経由し、中央アジアのアフガニスタンの東北部にまで手を伸ばしていた。


 斯くしてその後のバビロニアに至っても、(鉱物が増えるはずもなく)その地は鉱物資源に乏しく、

また樹木の植生も、ナツメヤシやタマリスクを中心としていたため木材に適する物に乏しく、建造物は一般に日干し煉瓦や焼成煉瓦のような容易に手に入る泥を原材料とする建材で建造され、石すら土台にしか用いられなかった。


 なお南端部の湿地帯では、古代のシュメール時代から安易に手に入る大型の建造物が葦を用いて建設された。


 メソポタミアは地域的に上流域の北部がアッシリアで、南部をバビロニアと言うが、下流域のバビロニアのうち北部バビロニアをアッカドを言い、最下流の南部バビロニアがシュメール、とさらに分けられ、基本この南部下流域であるシュメールから順に上流の北部に向かって文明が広がっていったのだが、これは土地が非常に肥沃で数々の勢力の基盤となっていたものが、森林伐採の過多などで上流の塩気の強い土が流れてくるようになった為に、下流に行けば行くほど塩害が激しくなっていき農地として使えない砂漠化が起きたゆえ、塩害から逃れて下流から上流へと移動せざる得なかったからだが……ソレが今現在にまで祟るという)



◯「エラム」:

 コレに対し「エラム」は文字を使った交易中心の国家であり、青銅器時代のイランとメソポタミアの間では、エラムによる青銅器の原料の交易が行われその代価としてメソポタミアから穀物が支払われていた。


 しかし、両者の関係は平和的ではなかった。

エラムは交易の拠点としてメソポタミア近郊に首都を移していたため、

メソポタミアに強力な王朝ができれば「エラム」はその支配下に入り、

ソレが弱体化すると逆に今度はエラムが「メソポタミア」へ侵入するという繰り返しであった。


 故に彼ら「エラム」はバビロニアの王朝をいくつも滅ぼしている。

そもそもシュメール人の数々の都市国家は、その1つ1つが独立国家であったため、固有の守護神を祀り、メソポタミアではたがいに覇権をめぐって絶え間なく戦争が引き起こされていたのだが。



●イラン高原の交易路:「トランス=エラム文明」とも言われる交易圏

アフガン(オクサス文明-バクトリア・マルギアナ)

〜 パキスタン(インダス文明-ハラッパー・メヘルガル)経由

〜陸路(インダス文明-モヘンジョダロ)〜イラン高原〜(アラッタ)

・海路(インダス文明-ドーラビーラ・ロータル)〜ペルシャ湾〜(メルッハ・ディルムン・マガン)

〜メソポタミア(スーサ)へ


 メソポタミア文明は農産物こそ豊かでしたが、それ以外の必要物資は域外の交易文明によって供給されており、そこではじめて文明たりえました。

逆にトランス・エラムは、メソポタミアからの農産物の輸入に依存していたのだが。


 前4千年紀末から前3千年紀前半にかけてイラン高原南部に、ラピスラズリ,紅玉髄,凍石(ステアタイト)などの貴石の採取と加工を行い、メソポタミアやインド方面への輸出によって繁栄した一つの文化圏が存在しましたこの交易活動を「トランス=エラム」交易圏と言う。


 またトランス・エラム文明とのかかわりで「ラピスラズリの道」という交易ネットワークがあります。


 それは「アフガニスタン北東部で産するラピスラズリなどの宝石や、金・銀といった貴金属が、トランス・エラム文明の交易ネットワークを経て西方のメソポタミアに運ばれた」交易の道のことです。


 イラン高原各地に影響を与えていたと考えられる、このイラン最古の文明:エラム文化は紀元前3000年ころ世界最古のシュメール文明と隣接しほとんど同時期に始まった。


 彼らはメソポタミアという古代文明世界の中心地に隣接したためにその文化的影響を強く受けたが、砂漠や湿地帯によって交通が困難であったために、政治的にはむしろイラン高原地帯との関わりが深かった。


 紀元前3000年紀までアンシャン(現テペ・マルヤーン)がエラムの首都であったが、紀元前3000年代から紀元前7世紀に跨がって、メソポタミアに隣接するスーサにエラム王国の首都が遷った。


 西のメソポタミア文明と接触していたエラムは、同時に東のインダス文明(メルッハ)との間にある。

またエラムとインダス文明の中間にはジーロフト(幻の国“アラッタ”?)があり、生産と流通の拠点になっていた。*トランス・エラム文明の首都アラッタは、ジロフトの北東100kmほどの場所にある都市遺跡シャハダードに存在したとする説が有力


 シュメール神話の一つである『エンメルカルとアラッタ市の領主』によれば、古代メソポタミア文明は、アラッタよりもたらされたという。

そのアラッタ市の場所をめぐっていろいろな推測がされているが、

近年注目を浴びているのがジロフト文明である。


 またインダス文明もメソポタミアにスーサを奪われ穀物をこれまでのように気軽に入手できなくなったエラムが新たな穀物の生産・交易拠点とするため、その高度な都市基盤(インフラ)を彼らが造り上げたのかもしれない。(つまりインダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明なのか?)


 こうしてイラン南西部ザグロブ山脈のふもとに位置するスーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出してアフガニスタンに近い地域からイラン高原を使った陸上交易、ペルシア湾での海上貿易など一帯一路の「トランス=エラム文明」とも言われる交易圏が成立していた。


 古代ペルシアでは山脈の中央を通過するペルセポリスからエクバタナに至る道路が利用されザーグロス山脈の金、銀、銅、鉛や瑠璃、或いは石材や木材、クロライトという綠泥岩の加工品、もしくはアフガニスタン特産のラピスラズリなどがメソポタミアにもたらされたのだ。


 紀元前6千年紀にはバダフシャン産のラピスラズリがインドへ輸出されていたし、紀元前2千年紀にはアフガニスタンのラピスラズリがエーゲ海地域で使用されていて、ミュケーナイの竪穴墓の一つから見つかっているのだ。


 ラピス・ラズリの原産地は限られていて、古来アフガニスタンの東北部に位置するバダフシャン地方が主要な産地でした。


 なかでもアム・ダリアというアラル海に注ぐ大きな河があり、その支流のコクチャ川上流にあるヒンドゥークシュ山脈のサル・イ・サング鉱山が古代から有名です。


 産出された原石は,北はコクチャ川からアム・ダリアを通ってソグディアナのサマルカンドやブハラ方面へ、また南はヒンドゥークシュ山脈を越えカブールを経てインドやペルシア・メソポタミア方面に運ばれていたのです。


 シャフリ・ソフタはラピス・ラズリのルートの中間点にあたり、ラピス・ラズリの巨大な加工工房があったことでも有名で、ここから2000キロ離れたサルイサンク鉱山でとれたラピス・ラズリの原石がこの街にもたらされ、装飾品用に加工されていました。


 長くなったが、このように古代イラン(ペルシャ)は優れた文明なのであるが、メソポタミア文明を頼りに出来なくなり、インダス文明も衰退し、不毛の荒野を前に、段々と自ら食料の自給に乗り出さなくてはならなくなったので滅ばぬためにカナートによる灌漑が必要になったのである。



▼カナートによる灌漑:

 イラン高原は東西に山脈が連なり、高原中央部にはカビール・ルートの二大砂漠が広がり、牧畜が主で農耕には適さないが、東西貿易路が通っているために古来交易が盛んであった。


 イラン高原と言っても広大で、いくつかの地域に分けられる。

主な地方は、東部のメディア(中心都市ハマダーン)、カスピ海南岸のパルティア、ペルシア湾岸のペルシア(ペルシス)がある。


 実は、現在イラン高原中央部のルート砂漠とカヴィール砂漠の二大砂漠が形成されている辺りは、1万7000年前ころは大きな湖であったのだ。

この為、この地は塩分の多い大砂漠が発達する事となる。


 だが、やがて乾燥化の進行に伴い泥土を堆積した湖底が現れ、次第に豊かな草原と化した。


 洞窟に住んでいた先史人は、この草を求めて、山地から降りてきた動物の後を追い、草原に定住した。

イラン高原はかつては豊かな草原であったのだ。


 彼らは狩猟を続ける傍ら、土堀棒によって穀物の栽培を始めた。

ヤギ、羊などの飼養も始まった。


 イラン高原における生産経済の起源は9000年前とされ、7000年前紀になると、新たな変化が生じた。


 人々は乾地農業に依存しつつも、細流や湧泉から水を引くことによって可能なところから灌漑農耕を始めた。


 それまで不確実な天水に左右されてきた農耕生産は、これによって生産力は著しく高まった。


 とくに細流が多く適度の傾斜を持つイラン西南部のフーゼスターン平野北部(ザグロス山脈の南麓部)では乾燥農業が可能な地域全般にわたり、細流に沿って多くの集落が成立した。

農具の発達もさらにそれを押しすすめ、4000年前紀にはエラムの首都スーサには3万人の人口を擁していたという。


 それは、まさに地下水を利用した灌漑の発達によるものであった。

湧水は人々に地下水の存在を教えた、彼らは井戸を掘ることでより多量の水が得られる事を知った。

起源も揚水法も明らかでないが井戸灌漑が始まった。


 2900年前に現トルコの位置に起きた王国ウラルトゥ王国ではカナートによって国力を反映させた事がわかっている。


 このように乾地農耕を基軸としながらも一部の地域ではカナートによる灌漑が行なわれるなど、より安定的な灌漑農業への歩みを進めていった。


 しかしこの時期には、水利技術の発展はまだ局所的なものにすぎず、

メディア王国を飲み込んだ次のペルシャ帝国の時代に画期的な農業水利を作り上げる事になる。


 初代の王キュロスはチグリス川上流域に堰堤を建設したほか、中央集権体制を確立したダイオレス1世は帝国の権力の基盤であるファールス川のコル川に堰提を造った。


 アケメネス朝になるとカナートが広く敷かれ、乾燥農業が不可能であったイラン高原にまで普及し、従来不毛の地とされていたイラン「東」の地の開発が大々的に進んでいった。


 カナートの担い手は中央集権の政治体制の元、地方に派遣されていた貴族であった。

戦争でえた捕虜を使い、膨大な労力がかかる地下水路(カナート)を積極的に建設していく。


 戦争は貴族にとって経済基盤拡大の手段であり、その結果がイラン高原に張り巡らされたカナート設備であった。


 このようにペルシャ人貴族の水利活動ならびに王による堰提建設は富の獲得という実利的目的と、水利と農耕活動を神聖化する、ゾロアスター教のアヴェスターの倫理観に支えられていた。



・世界に広がるカナート:

 こうしてカナートは、乾燥の為大規模な農業活動とは無縁であったイラン高原において広大な耕地を生み出しました。


 農業が乾地農業地帯に限定していた時代と比べ、飛躍的に拡大しこれが大帝国の経済的基盤になっていった。


 カナートは堰提と異なり遺跡としても残らず、史書の記録とも無縁である。

しかしながら、イラン農業史上カナートの占めたウェイトは堰提のそれと比較にならないほど大きかった。

カナートに出現により不毛の砂漠は緑の耕地になり、それはまさに「革命」であった。


 カナートの技術はペルシャ時代に花開くがその起源は記録されているものだけでも2700年前に遡り、さらに記録のない小規模のものはさらに4000年前の灌漑農耕で国家が形成されたその時期に既に登場していた可能性すらもある。


 また、ペルシャ帝国のヨーロッパ、アフリカ、インド西部への拡大と共にカナート技術は乾燥地帯に伝授され、イスラム世界の広がりと歩を合わせる様に網の目状に拡大していった。

紀元前に西はドイツ、南はサウジアラビア、北アフリカへ東はインドにまで拡がっていった。


 カナートは更に東にも伝播し、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区の坎児井(カンアルチン)などと呼ばれる用水路も、大元はイランから伝播した技術と推測されている。


 韓国の萬能洑(マンヌンボ)や日本のマンボも類似の用水路だが、日本のマンボの起源については、カナートとの類似性に注目してトルファン経由で伝播したと見る説と、カナートとの差異に注目して日本で独立して生み出されたとする説がある。


 また、イランより西にも伝播した。

オマーン周辺へは、ペルシアの勢力が及んだ紀元前6世紀頃に伝播したと考えられており、「ファラジ」(複数形アフラジ)と呼ばれている。


「オマーンの灌漑システム、アフラジ」(オマーンの世界遺産、2006年登録)、「アル・アインの文化的遺跡群(ハフィート、ヒーリー、ビダー・ビント・サウドとオアシス群)」(アラブ首長国連邦の世界遺産、2011年登録)という2件のアフラジ関連遺産が、ペルシア式カナートより先に世界遺産に登録されている。


 また、降水に恵まれるレヴァントでは、あまりカナートは発達しなかったが、パレスチナの世界遺産であるバッティールの農業景観は、カナートと結びついている。


 北アフリカにはアラビア人を介してイスラームとともに伝播し、フォガラと呼ばれるその用水路は、リビア、アルジェリア、モロッコなどに見られる。


 旧市街がモロッコの世界遺産になっているマラケシュも、カナートによって発達した都市である。

カナートの技術はウマイヤ朝の拡大によってイベリア半島にも伝播した。


 スペインの首都マドリードも、元はカナートによって開かれた町である。

「トラムンタナ山脈の文化的景観」(スペインの世界遺産、2011年登録)の農業景観も、カナートと結びついている。


 ヨーロッパではドイツやボヘミアにも伝播したが、何よりもスペインでの定着は、大航海時代を経てアメリカ大陸への伝播をもたらした。


 イランの分も含めた、世界中にあるカナートの総数は5万とも言われる。

そのうち、発祥地となったイランに残るカナートの数は37,000以上あるいは約4万と言われ、2010年代半ばの時点で稼動中なのは25,000とされる。


 カナートはテヘラン、ヤズド、エスファハーンといった主要都市を育んだだけでなく、古代にあってはペルシア帝国の成長を支えた。



・民俗とも結びつき、「カナートの結婚」という儀式が残る地方もある。


 これはカナートの水が涸れないように、未亡人の中からカナートの妻を選び、婚礼を含む祭事を挙行するものである。


 これは単なる伝統行事としてだけでなく、社会福祉としての側面も指摘される。

というのは、妻に選ばれた未亡人は、対価として報酬を受け取り、

最低限の生活保障がなされるからである。

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