第45話 現実:技術-ナイロメーター (並びにアスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダム)

★ナイロメーターとは:

 ナイル川の透明度や、毎年の洪水が起こる季節にナイル川の水位を測定する建築物(水位計)。


 ナイロメーターの仕組みの一例としては、らせん階段付きの深い縦穴が地下トンネルでナイル川と結ばれ、ナイル川の水位と連動した縦穴内の水位を階段の数で数え水位を測るというものでした。


 こうしたナイロメーターはエジプト各地に造られましたが、1972年のアスワンハイダム完成以降、ナイル川の氾濫はなくなり灌漑施設による

近代的な通年農業が可能となったため、ナイロメーターはその主な役目を終えました。


 ですがファラオの時代、ナイロメーターは税の計算に使われるような重要な施設でした。


 エジプトのデルタ地帯にある古代都市トゥムイスの遺跡の、紀元前3世紀につくられたと思われる現存する数少ないナイロメーターなどは、約1000年間にわたり、毎年氾濫するナイル川の水位の測定に使われていました。


 だが、現存が確認されているナイロメーターは20程度しかないのです。



★ナイル川の氾濫:

 ナイル川は毎年氾濫を起こし、肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとであり、このようなナイル川の恵みによって古代エジプトは農業が主要産業として成り立ち、地中海世界の中で貴重な小麦などの屈指の穀倉地帯となった。


 この穀物類は経済基盤を支える交易の原資として、最重要であり農作物のできが国の行末を左右するのであった。


 故にナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られたのだ。


 それは太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。

また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。


 これらの技術を用い氾濫の時期を正確に予測するために利用されたのがナイル川の水位測定施設ナイロメーターなのである。


 なお、エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定していた為か部族社会が城壁を廻らせて成立する城壁都市の痕跡は今の所発見されていない。

ただし、治水工事の為、堤防で都市を取り囲んでいることはあった。


 つまり異民族の侵攻に対する城壁ではなく、洪水の浸水対しての堤防があったのだ。



★概要:

 ナイル川の肥沃な流域は世界四大文明のひとつであるエジプト文明を育んだ。


 古代ギリシアの歴史家『ヘロドトス』は「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているが、元は古代ギリシアの著作家にして歴史家である神話学者『ヘカタイオス』の言葉である。(《イオニアの反乱》を説得してやめさせようとした人物) 


 6月から9月の間(7月中旬前後)

エジプトを流れるナイル川は、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で堤防からあふれ出て、氾濫を起こし隣接する氾濫原を浸水させていた。


 9月から10月にかけて、水量が減少するとき、この洪水はナイル川は上流をはじめとするナイル河畔に耕地にケメットと呼ばれる肥沃な黒い沈泥である土壌(沖積層)をもたらし、

ナイル川の沿岸と広大なデルタに緑と作物の収穫を与えてきた。


 この洪水により、カリウム、リン、有機質に富んだ肥沃な土壌が毎年供給されることになる。


 この様に肥えた土は畑に積もり、また同時に土壌中の塩分は暖められた水とともに貯留水に溶け込む。


 本流の水位が下がったら水門を開け一気に排水すれば後には地力を更新した畑が残され、土壌の塩化も避けることができる。

これがナイル川の定期的増水を利用した潅漑法である。


 作物は大麦と小麦が中心であり、

野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。


 豆類ではソラマメ・ヒヨコ豆、果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。


 外国から伝わった作物としては、

新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。

プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。


 古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。


 耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。


 農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。


 また、古来よりこのナイル川の恩恵を受ける地域もケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。


 一筋に流れるナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘を生活の舞台とし、そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていたのだ。


 このケメトの範囲の幅は非常に狭く、幅は5kmほどとさほど広くない。

対して周囲に広がるデシェレトには不毛な砂漠が広がっていたため、ナイル川流域分の面積だけが居住に適しており、主な活動はこのナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっており、その中でのみ行われた。


 しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。


 この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。


 最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。


 また、元来歴史的にエジプトの本国はナイル川の領域に限られており、

それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。


 ナイル川本流からするとナイル川の下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっており、また、その上流は谷合でありナイル川1本だけが流れている為、ナイル川流域であっても

エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流の落差によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていたのだ。


 とはいえ、ヌビアと総称されるこの南の地域は、古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれた為、古王国以降の歴代王朝はたびたびヌビアへの金採掘の為遠征し侵攻していた。


 ヌビアという名は、古代エジプト語の金(ヌブ)から古代ギリシア・ローマ人がそう呼んだのが始まり。


 ただし徐々に支配地域を南下させて植民地支配していったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返しであった。


 なお、もともとはエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国であった。


 また、南の外国であるヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなかったものの、新王国時代にはパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。


 なぜなら農耕作物にこそ恵まれど、

森林や鉱山などの文明を支える資源を持たぬエジプトは交易によって国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるためそれらを輸入しなければならなかったが、同時に資源の少なさと相反して地中海世界において、数少ない小麦などの穀物の大規模産地として重要であった為、その大規模穀倉地帯を他国に侵略されないように、先んじてシリア・パレスティナにくりかえし遠征軍を送ってもいたのだ。


 こうして北のパレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、対外遠征など他国に対する軍事的進出を行って隣接するパレスチナをも自らの勢力圏とし ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。


 だが、鉄資源を輸入に依存し自給できなかったエジプトは前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げ植民地をすべて失ってしまった。


 これ以後、エジプト伝統のファラオの君臨する最後の王朝プトレマイオス朝がローマに征服される古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。


 ヌビアやアケメネス朝ペルシアなどの諸外国に度々征服されていくようになるのだ。



★ナイロメーターを使用する理由:

 さて、現在ではアスワンからカイロにかけてのナイル川に近い砂漠地にはワディ(涸れ川)跡が数多く存在し、

多くは砂漠のなかで消滅しているが、東側の砂漠地ではナイル川に注いでいるものが多い。


 エジプトでは、水位の上下はあれど氾濫が起きないことはなく、鉄砲水のような急激な水位上昇もなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。


 この氾濫期 (エジプト語ではakhet)は、古代エジプト人が一年を3つに分けた季節の1つだった。


 エジプト文明での毎年の洪水の予測は難しく重要であった。

砂漠気候でほとんど雨の降らないエジプトにおいて、この氾濫期は文明の屋台骨とも言えるものであったのだ。


 この氾濫の時期を知るために世界最古の暦のひとつであるシリウス暦が作られ、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するために測量と幾何学が発達した。


 ナイル川はスーダン以北が緩やかな勾配で距離が長いので、上流のエチオピア高原の降水量は平均化されてしまい、中・下流の増水量は毎年ほぼ同じ時期に、同じ水位で変化する。


 こうした適度な洪水は、農業をするのに適していた。


 だが正常ではなく、洪水があまり起こらない年には、農地の一部しかシルトに覆われず、飢饉を引き起こした。


 また、逆に規模が大きい場合には

川から離れた氾濫原に建てられた建築物の多くを流失させ、被害は甚大だった。


 ファラオの時代からの記録の平均では5年に1年は、規模が例年よりも大きい洪水や、規模の小さい洪水が発生した。


 次の洪水の規模を予測する能力は、古代エジプトの聖職者の神秘性の1つだった。


 なぜならその年の洪水の規模は、

税の重さを決定する際に知る必要があったため、同じ技術はさらに、政治上・管理上の役割を果たした。


 これが、聖職者が川の日々の水位を測定し、夏の洪水の発生を発表し、ナイロメーターを使用し始めた理由である。


 そこに暮らす神官が季節的な洪水を予測し、農民が豊作を祈り、神に捧げものをしたと思われる。


 ……ときに、古代エジプトのナイル川には少なくとも7本の支流があったが、現在は3本しかないと言う。

支流が干上がったり、進路を変えたりしたのだ。


 その為現在その種の場所には、多くがサッカー場や食肉加工工場、墓地、ごみ処理場などがあるという。

 ……まあ、それはともかく、過去において、こうしてナイルメーターは

古代エジプトのナイル川流域各地に設置されたのだった。


 そして古代エジプト崩壊後も歴代の統治者はナイルを重視し続けた。


 ナイルの水位を知るため水位計(ナイロメーター)が各地に再設置されたのだ。


 716年に建設されたカイロのローダ島のものをはじめ、アスワンのエレファンティネ島などに現在でも数基が残存している。


 最もシンプルなナイロメーターのデザインは、水の深さを示す印の付いた間隔と共に、川の水域に沈められた垂直な棒である。


 精巧で華麗な石造建築に収容されていたとはいえ、この単純な設計は、今でもカイロのローダ島で見ることができる。


 アッバース朝カリフのムタワッキルがナイロメーターの建築を命じたのは、紀元861年でかなり後のことであり、シリアの正教徒の総主教、830年のテル・メーアのディオニュシオスによる初期のモノを見本に、その跡地に建てられた。


 円錐形の建築は、カイロのナイル川に浮かぶローダ島南端のナイロメーターを覆っている。


 その建築は近代的だが、ナイロメーターは紀元861年から存在する


 エレファンティネ島のナイロメーター2番目のナイロメーターのデザインには、壁に沿った深さの印と共に、水面下まで続く階段がある。


 この種で最もよく知られている例は、アスワンのエレファンティネ島で見ることができる。


 さらに、エジプトの歴史上では、

エレファンティネ島がエジプトの南側の国境に面しており、毎年洪水が襲った最初の場所であったので、この位置は特に重要であった。


 最も精巧なデザインには、河岸から出発し、井戸、タンク、貯水池まで水を供給した水路 – しばしば相当な距離を流れた – が含まれていた。


 これらのナイロメーターの井戸は、聖職者や支配者のみが入ることができた寺院の領域内に最も多くある。


 深く、円筒形で、水路の穴が取り囲んでいる壁にある、特に素晴らしい例は、アスワンの北のコム・オンボ神殿で見ることができる。


 こうしてナイロメーターは、ファラオの時代から使用され、その後もエジプトで支配力を持った文明によって使用され続けた。


 20世紀になると、ナイル川の毎年の洪水は細かく調査され、アスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダムの建造と共に、完全に姿を消した。


 アスワン・ハイ・ダムのエジプトとその農業への影響は、複雑な理由で論争の的となっているが、これには、ナイロメーターを旧式とした補足的な理由もあった。



★アスワン・ハイ・ダム

 この古来よりの農法が変化するのは19世紀に入ってからである。


 産業革命によって綿布の生産力が飛躍的に向上し、原料としての綿花栽培がさかんになった。


 それまでの浅い水路を掘って洪水時の水をためていたベイスン灌漑方式に変わり深い水路が掘られ、通年灌漑用の夏運河によって、通年耕作が可能となった。


 夏運河からは水車などで水がくみ上げられ農地へと供給された。


 これによってエジプトにおいて一見すれば洪水は農耕に必要なものではなくなり、逆に洪水を起こさないようコントロールする必要に迫られることとなった。


 そこで1901年には水害を防ぐため

アスワン・ダムが建設された。


 だが治水能力は大幅に向上したものの完全に洪水を止めるところまでは行っていなかった。


 そこで1952年にエジプト革命によって政権を握ったガマール・アブドゥル=ナーセル政権は愚かにもアスワン・ハイ・ダム計画を推進し、1970年に完成させた。


 アスワン・ハイ・ダムが建設されることで、ナイルの洪水を完全に防ぐことができるようになり、これまで洪水期には使用できなかった広大な農地を使用することが可能となったと思い上がった。


 さらに、ナセル湖からワーディー・ゲディード県などへの送水によって2250km3の農地開発を目的とした

トシュカ・プロジェクトが1998年に着工され、2003年に完成するなど、大規模な開発が進められた。


 アスワン両ダムの発電量は当時のエジプトの半分近くにも及んだ。


 湖の出現によってこの地域では漁業も盛んとなった。

だが一方でその弊害も顕になった。


 アスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、アブ・シンベル神殿やヌビア遺跡などの貴重な古代エジプトの文化遺産がダム湖に沈む為、遺跡の高台への移動を余儀なくさせられている。


 また、少しでも考えれば解ることだが当然のことながらナイル川が運んで来る肥沃な土壌が農地に届かなくなったため、肥料の大量投入によって地力を維持せざるを得ない状況となっている。


 現在、ナイル川下流地域では灌漑による塩害の発生や土砂の流出などに悩まされており、目先の利益に目がくらんだエジプト政府はこの対策をせまられている。

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