第41話 現実:技術-技法-読書「音読」「黙読」「目読(視読)」

▼読書その技法:


 読書には「音読」「黙読」「目読」の3種類があります。


◎「音読」は読んで字の通り本に書かれた文字を一字一句、音声化して読んでいる状態


◎「黙読」は本に書かれた文字を一字一句、頭のなかで音声化して読んでいる状態


◎「目読」は「視読」ともいう。文字を見ただけで意味を理解し、文章を読んでいる状態をさします。


 頭のなかで文字を音声化するプロセスを経ないため、速く文章を読める「速読」の技法でもあり、音声変換しない「目読」の習慣を身につけると、読書スピードは飛躍的に向上することでしょう。



▶もくどく【黙読 silent reading】:


 ひとりで,声を押し殺しながら文章を読み,意味をとってゆく行為,技術。

今では日常化してなんの疑いももたれていませんが,実は歴史的には近代市民社会形成過程のある時期以降に支配的,社会的になった様式,慣習であるのです! ごぞんじないのですか_?


 これに対して古代ローマの文人社会で公開朗読会が本の出版に等しい意味を持っていたように、古代,中世では声を出して他人にも自分にも聞かせる〈音読〉が支配的様式であった。

これは〈音読〉が共同体内部の語り、吟遊詩人の伝統と直結していたためでもある。



▶おんどく【音読】:

 印刷されたり手記されたりした文字言語を音声化して読むこと。

文字言語を音声化しないで(内言化して)読む「黙(目)読」に対していう。


 一般に子供の読みは、音読から微音読、唇読(声は出さずに唇だけを動かして読む)を経て黙読へと発達する。


 音読→微音読→唇読→黙読 


 これは胎児が進化のプロセスをなぞり直すのと同様、社会での読書の技術の発展の歴史でもある。



▶そくどく【速読 speed reading】:「目読」「視読」とも


 速読とは文字通り “速く”  文書を “読む” ための技術であり、時には読書法も含まれる場合もある。

読書速度を向上させ、効率的に大量の書物を読破する技術なのである。


 一般的な速読のみだと無意識に音読してしまう癖のため速読速度が5,000文字/分程度で止まってしまうが、 これ以上の速読速度を得るためには視読が必要になる。 視読を行えるようになると、文字を見た瞬間意味を脳が反射的に理解できるようになり、驚異的な読書速度(熟練者で100,000文字/分)を突破する場合もある。


 読解のためには、文書に対応した知識が頭の中にインプットされていなければできない。読書する際、無意識のうちにインプットしてある知識の中から、内容に応じて適したものをアウトプットしている。


 漢字は表意文字であるため、イメージ化しやすいという特徴がある。日本語には、漢字と平仮名があるので、漢字に注目して読んでいけば、自然に速読することができる。


 また、目次ページを最初によく見ておけば、章タイトルで筆者が何を言いたいのかが、理解しやすくなる。

このプロセスの速度を上げることが出来れば、実用的な速読を習得できる。



▼読書技術の進化史(1):音読から黙読へ

 現代において、大人の日常生活では黙読がもっとも普通の形式になっているが、文章の種類や読む目的によって音読することもある。音読には、自身の理解のための音読と、理解したものをその意味内容に即して表現し、他人に伝え、鑑賞させるための音読とがある。

後者は、前者と区別して「朗読」「表現読み」とよばれることもある。


 読むことの学習指導においては、音読は、速度に限界があって速く読みすぎることがない、口と耳とを働かせながら読むので理解を助け深める、読解の程度を判断できる、読むことの矯正指導ができる、発声・発音などの指導ができる、話しことばと関連した事項の指導ができる、などの点に長所がある。


 また朗読は、文字言語の音声化を通じて、その言語作品の内容、解釈などを豊かに表現しようとするものであり、1人で朗読するほかに、役割を決めて読む「役割読み」、一人読みと集団読みとで組み立てていく「群読」、読むだけでなく簡単なしぐさをつけていく劇化などの方法があるのです。


 なお、とある大学生達を被験者とし、文章を黙読or音読した後、その文章をどれだけ記憶しているかなどの実験がなされました。


 結果、音読することは、文章を逐語的に記憶する場合には有効であるが、その効果は一時的であることがわかったのですが、これに対し黙読することは、文章を逐語的に記憶するというよりも文章の内容を体制化して記憶する場合に有効であり、その結果は音読の場合よりも永続的であることがわかったのでした。

つまり、

・音読= 短期記憶、黙読= 長期記憶

・音読=逐語的記憶、黙読=内容の記憶

に適しているということです!



▼読書技術の進化史(2):読書の歴史


 「読書」を語るのに切り口はいろいろあるが、ここでは「本を読む」という行為について考えてみたい。


 「本を読む」ときに何が起こっているかと言えば、文字言語を順を追って認識していくことによって、「本」というひとまとまりの形で表現されている「内容」を認識することです。つまりは文字を読んで何かを認識することで、したがってそこで起こるのは「文字」という媒体を通しているとは言え、内容としての本と読者の直接的な関係であります。だから「本を読む」という行為は、現代ではふつう「一人(ソロ)でやる」気高い孤高の行為であるのです。


 そう「読書」とは、時間や社会にとらわれず、幸福に知識欲を満たすとき、つかのま、我らは自分勝手になり、自由になる。誰にも邪魔されず、気を遣わず「本を読む」という孤高の行為。この行為こそが、現代人に平等に与えられた、最高の癒しと言えるのである!  - 孤独の読書 -



 もっとも、黙読が広く「ふつう」のこととなったのは10世紀ごろのことだとされていますから、読書の歴史において黙読の歴史がいちばん長いのかは定かではありません。


 古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ローマ帝国の『ヒッポのアウグスティヌス』の自伝『告白』には、アンブロシウス(4世紀に生きた人である)が一人で「声を出さずに」本を読んでいる様子が出てくるが、「ところで彼が読書していたときには、その目はページを追い、心は意味をさぐっていましたが、声と舌とは休んでいました」とあり、わざわざ書き記すということはそれだけ気味悪……ごほん、珍しかったのであろう。


 では古くはどうやって読んでいたかと言えば「音読」であるが、ギリシアやローマにおいては韻文でも散文でも、高らかに声をあげて読むのがふつうであったという。


 もっとも、ある時期に転換が起きたというよりは、おそらく様々な読書法はそれぞれ長い間共存していたのであろうことが推察される。


 アウグスティヌスも、アンブロシウスは声が枯れやすいから喉を守るために黙読なのだと推測しているから、理由があれば黙読もありえなかったわけではないとみえる。


 だが、このことから「黙読」できるかどうかは、文明レベルの低い異世界において相手の身分を推し量る要素にしたり、逆に身バレの原因になるのではないだろうか?


 兎に角、現代において黙読があまりにも「ふつう」なのは、単に書物が希少なものではなくなったことと、個人主義が進んだ結果かもしれない。


 音読には、何より周りの人も内容を共有できるという実践的な側面があるが、そのように集団の論理が強ければ個人的行為としての「黙読」は成立しづらいであろう。


 日本でも明治初期までは音読が主流であったというが、黙読する者は「何を読んでいるのかわからないため」気味悪がられたのだそうである。……だが、それでは公共の場でエロい本を読んでいた場合どうしろというのであろうか? (マテ


 なお、戦前の日本社会において小説を卑しいものと捉えてきた知識人階層が小説を読むと馬鹿になると言うどこかで聞いたようなことを言っていましたが、現代においては……。


 いずれにしても、一口に「本を読む」といっても様々なやり方があるということであり、それならある意味でわれわれは、全く違ういくつかのことを「読書」と呼んでいることになる。


 なぜなら、手段が違えば認識の仕方も違うからである。

いちばん単純に言っても、音読は聴覚情報であり、黙読はもっぱら視覚情報であるから、認識方法としては明らかに異なるであろう。


 もっとも、音読は「見たものを」「読んでから」「声に出している」のだから、黙読より一手間多いのではないかと思うかもしれません。しかし、「黙読」が主流ではないところでは、実は「見ただけでは読めなかった」可能性もあるのです。


 なぜなら、これは言わば技術の問題で、経験をつまなければできないことだからであり、言いかえれば、音読文化では見た文字を音に変換していただけで、聴覚言語として認識するまでは「意味はわからなかった」かもしれないのである。

これが教養の差と言う奴かもしれません。


 つまりそこでは、本を読んでいたのではなく、本を「聴いて」いたかもしれないことになる。


 したがって人の話を聴くのと同じ認識方法ということになるが、それならむしろ、「本」を通すことによって一手間加わっているであろうと思われ、実際プラトンなどは、本に書かれていることは「イデア界」を映し出したものとしての「現実世界」に現れたものを「さらに映し出した」ものだから、言わば「二重に間違ったもの」とみているようである。


 そこでは、本は崇拝されるどころか、一段低いものとみられているのでした。


 また、発達心理学の分野では頭の中で自問自答して物事を抽象的に考えられるようになるのが9~10歳頃と言われていますが、幼少期の自由な遊びや会話が抽象的な思考の基礎となると考えられています。


 幼少期の経験不足が原因で9~10歳頃に突然学習が進みにくくなる現象が「9歳の峠」や「10歳の壁」と呼ばれており、特に聴覚障害児は10歳以降の学習が困難になる、と専門の書籍に詳しく記されています。


 このことは現代における失語症の例などからもわかるのですが、要するに、一口に「言語がわかる」といっても、読んで意味を理解するのと聴いて意味を理解するのはまったく別の能力なのであります。


 それならば、それぞれに訓練が必要だということですから、読んだだけで意味がわかる訓練を積んでいなければ、音でないと意味が伝わらない状態があることは容易に想像されるのでありましょう。


 あるいは「手話」を例にあげるとわかりやすいかもしれませんが、あなたがとくに手話の訓練を積んでいなければ、手話で話しかけられても、手や顔の動きは見えるかもしれませんが、「意味」はわからないでしょう。


 そこで、たとえば変換マニュアルが手元にあったとしても、あなたはもっぱら自分が理解できる言語表現に変換して理解するだけであり、手話表現を直接的に理解しているわけではありません。

これは言語間での「翻訳」についても同じなのである。


 いずれにしても、音読と黙読は同じ「読書」といってもまったく異なる技術であり、それは表面的な違いではなく根本的な情報処理の仕方の違いであり、それによって理解力の違いにも現れるのかもしれません。


 したがって現代において「黙読」があまりにも主流であることに鑑みれば、ある意味で読書の世界には、音読から黙読への文化的な「進化」やパラダイムシフトがあったと言えるかもしれません。


 よって、例えば現代の若者にとってエロゲなどのテキスト音声は、音声出力を切ったりヘッドホンにしたりして誤魔化すこともできますが、これがもしも音読しかできなかった場合……写真集のような絵しかないもの以外、そうエロ漫画など読んでいる時に内容を口走っているのをご家族の方々に聞かれていたかもしれませんでした。


 ですが現実そのようなことがないのは、音読から黙読への文化的な「進化」のおかげなので、皆そのことにちゃんと感謝するように!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る