第38話 現実:地理-分布境界線 - ブラキストン線(津軽海峡線) ・ 対馬線(対馬海峡線)

★分布境界線:

 個々の生物種の分布域の範囲を区切る線であるが、特に生物地理学において多くの生物の分布の境界になっている、生物相の異なる区域の境界線のことを指す。



 日本列島近海の海流には

1.黒潮

2.黒潮続流

3.黒潮再循環流

4.対馬暖流

5.津軽暖流

6.宗谷暖流

7.親潮

8.リマン寒流

があるが、津軽暖流が西から東へ流れている津軽海峡が、動植物の分布境界線の一つであるブラキストン線として設定されている。



▼ブラキストン線(Blakiston Line):津軽海峡線

 イギリスの動物学者のトーマス・ブレーキストンが提唱した本州と北海道の間の津軽海峡を東西に横切る動物相の分布境界線である。

津軽海峡線(つがるかいきょうせん)ともいう。


 動物相はブラキストン線を境に北のシベリア亜区と南の満州亜区に分かれ、ツキノワグマ、ニホンザル、ニホンリスなどの北限、ヒグマ、ナキウサギ、エゾシマリスなどの南限となっている。


 幕末から明治期にかけて日本に滞在したイギリスの軍人・動物学者

トーマス・ブレーキストンによって提案された。

彼は日本の野鳥を研究し、そこから津軽海峡に動物分布の境界線があるとみてこれを提唱した。

函館山山頂にはブレーキストンの碑が設置されており、碑文でブラキストン線発見の功績が紹介されている。

1883年に本州と北海道の動物に違いがあることをアジア協会報に発表し、ブレーキストンの知人でもある地震学者ジョン・ミルンの提案で津軽海峡がブラキストン線と呼ばれるようになった。


 この線を北限とする種はツキノワグマ、ニホンザル、ムササビ、ニホンリス、ニホンカモシカ、ニホンモモンガ、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラなどがある。

逆にこの線を南限とするのがヒグマ、エゾモモンガ、エゾヤチネズミ、エゾリス、エゾシマリス、ミユビゲラ、ヤマゲラ、シマフクロウ、ギンザンマシコ、クロテン、ナキウサギなどである。


 また、タヌキ、アカギツネ、ニホンジカ、フクロウはこの線の南北でそれぞれ固有の亜種となっているが、

エゾシカとホンシュウジカは形態的に差異があり別亜種とされている。

が、近年は遺伝子的には区別できないとする研究もある。



■境界線の起源:

 10,000〜20,000年前の日本列島周辺の海岸線を鑑みて、最終氷期において津軽海峡が陸続きであったかについては諸説ある。


●津軽海峡(つがるかいきょう):

 北海道南端(道南)と本州北端(青森県)との間にあって、日本海と太平洋とを結ぶ海峡である。

東西は約130km、最大水深は約450m。


 本来は日本の領海に編入することができるが、中央部は公海(但し日本の排他的経済水域。また、下を通る青函隧道は日本の領土)のまま残されており、外国船舶の通航に利用される国際海峡(公海扱い)である。

英語ではTsugaru Strait、ロシア語ではサンガルスキー海峡 (Сангарский пролив) と呼称する。


 過去の大陸との繋がりに加えて、最深部が449mと深く、現在の最短距離が19.5kmあり、潮流も強いという津軽海峡の性質が動物の行き来を妨げていると考えられている。

なお、津軽海峡中央部の海底には峡谷のような地形が東西に伸びているが、これは海面の下がった最終氷期に東京湾海底谷同様、水路部を流れた潮流が海底をどんどんと削ったためと考えられている。


 海峡の日本海側は暖流である対馬海流の分岐点で、津軽海峡内には西から東へ流れる津軽暖流が存在するからであり、現在この津軽暖流は海峡の太平洋側にて親潮と合流する。


 つまり、津軽海峡を挟んだ動物相の違いとは、最終氷期に北海道は樺太、千島列島を通じてユーラシア大陸と陸地で繋がっていたことに対して、本州は朝鮮半島を通じて大陸と繋がっていたことに起因すると考えられているのだ。


 最終氷期(約7万年~1万年前)の海面低下は最大で約130mであり、深さは最深部で60m(最大水深でも70m)ほどしかない樺太と北海道を隔てる宗谷海峡は、最終氷期には大陸と樺太を隔てる間宮海峡共々完全に陸続きの陸橋となり、結果樺太と北海道はユーラシア大陸と地続きであった。

なお、間宮海峡は現在でも深さは最浅部で約8m。冬の間は凍結し、徒歩で横断することも可能である。


 これに対し、最も浅い所でも140mの水深がある津軽海峡は、中央に大河のような水路部が残ったため、これにより、両岸の生物相が異なる結果となった。


 ただし、約3万3千年前から2万8千年前の最も寒冷だった時期には、ヘラジカなどの大型哺乳類が本州に入った。

なぜなら当時、冬の津軽海峡表層は結氷したらしい。

結氷したこの津軽海峡の「氷橋」を渡ってヘラジカやステップバイソンなどの大型哺乳類の移入はあったと考えられるのだ。

なお、それらの種は温暖になってから本州からも北海道からも姿を消した。



■国家にとってのブラキストン線:僕の名は時代(エイジ)、日本は狙われている!

●ロシア編:

 不凍港であるウラジオストックからロシアの艦船が太平洋に出る為に使用するルートには宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡(大隅海峡、宮古海峡)など、どこかで日本の領土にはさまれた国際海峡なり公海を通過しなくてはなりません。

(ユーラシア本土とサハリンの間の間宮海峡は浅くて大きな艦船は通過が難しい)そのほとんどが宗谷海峡及び津軽海峡を通過しています。

中でも太平洋への自由なアクセスを行うために津軽海峡を利用したルートは大変魅力的なのでしょう、古来より虎視眈々と狙っています。


 さて、ロシア史に関連して言及されることの多い用語「不凍港」。

これは冬でも港が凍結せず砕氷船でなくても出入りができる港という意味です。

そもそもロシアでは、冬季に多くの港湾が結氷する。

またロシアの北に寄った国土は冬が長く、寒冷・多雪などといった現象をもたらし、一部を除けば農業生産は必ずしも高くない。


 そのため、政治経済上ないし軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、歴史的には幾度となく南下政策を推進してきた。

これは、ゲルマン民族大移動の如く他国の人々が苦労して入植して開墾した土地に後から追いつき、よりよい環境に政治力・軍事力を用いて労せず入手するということが繰り返される事だという。

このように、露助のより温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがある。


 故に日本領であった千島列島に対してロシア(ソ連)は、ポツダム宣言受諾後の1945年8月17日〜9月5日までの時期にソ連軍が進軍を開始し、占守島の戦いでは日本側が戦術的には勝利したものの軍命により降伏。

8月28日以降はいわゆる「北方領土」も含めて占領され、翌 1946年1月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの命令書によって日本は全千島の施政権が停止させられ、ソ連によって自国領として組み入れられた。


 これが、現代につづく日露間の領土問題の始まりである。

なお、このうち、択捉島の単冠湾は、冬季でも流氷が接岸しない天然の良港であり、1941年冬の真珠湾攻撃のため日本の第一航空艦隊がハワイへ向け進発した場所であった。

とは言え、千島列島は凍結しないものの夏季は世界有数の濃霧地帯であることから港湾利用については必ずしも好適といえないそうだが。

それでもベーリング海とオホーツク海沿岸の諸港はおおむね冬季に凍結し、冬季以外でもしばしば暴風雨にさらされるのでまだマシだと言う。


●中国編:

 中国が日本海から津軽海峡・宗谷海峡を抜けて北太平洋に出るルートは、経済・軍事にとって重要なルートです。


 また、約500隻のマグロ遠洋漁船を抱える中国国営企業も、津軽海峡を虎視眈々(こしたんたん)と狙っています。



 津軽海峡が第2の尖閣にならないよう中国・ロシアの動向に警戒しなければならない。



▼対馬線:対馬海峡線

 対馬海峡に引かれた分布の境界線。

この線より北側に位置する対馬には大陸系のツシマヤマネコ、および爬虫類(はちゅうるい)のアカマダラヘビが分布。

ただし対馬には日本固有種も多い。


 動植物とも、大陸系種、対馬固有種、対馬固有亜種、および日本本土系種が混在する。

九州本土に多くて対馬に全くいない種や、対馬に多く九州本土では少ないという種もあり、独特の生物相を形成している。

対馬は、日本では対馬にしか生息しないユーラシア大陸との共通種が数多く生息しており、これらはかつて大陸と陸続きであったことを物語る貴重な動植物である。

また、南方系の動物も生息し、対馬固有の動植物も多い。

このため、各地に自然保護区が指定され、自然環境の保護がはかられている。



■国家にとっての対馬海峡線:

●対馬海峡(つしまかいきょう):

 九州と朝鮮半島の間にあり、東シナ海と日本海を連絡する海峡。

広義には玄界灘・壱岐水道などを含めた本州西岸・九州北岸と朝鮮半島との海域全体を指す。

国際的には東シナ海と日本海の北方境界は長崎半島南端の野母崎、五島列島福江島の大瀬崎と済州島南端を結ぶ海峡西側の線であり、対馬海峡水域は日本海に含められている。

全体の幅は約200km、平均水深は約90~100m。

世界的に有名なチョークポイントである。

*チョークポイント(英: choke point)とは、海洋国家の地政学における概念のひとつであり、 シーパワーを制するに当たり、戦略的に重要となる海上水路をいう。


 ただし、東西両水道ともに領海法に基づく領海の幅が通常の12海里(約22.2km)から3海里(5.556km)に狭められた特定海域で、核兵器を搭載した外国の軍艦を含め自由に通過することができる。

日本国が当該部分を公海として開放しているからであるため、通過通航権の問題は生じない。

これは津軽海峡と同様である。


 また、海峡上には比較的大きな島として対馬と壱岐の2島があるが、対馬を境界にして大きく二つの水道に分けられる。

海上保安庁海洋情報部発行の海図では対馬と朝鮮半島との間の海峡を「対馬海峡西水道」、対馬と壱岐の間を「対馬海峡東水道」としている。


●済州島(さいしゅうとう、チェジュとう):

 古代の済州島民は野蛮な朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近かったと言う。

『三国志』『後漢書』によれば、耽羅国の言語は朝鮮民族とは言語系統が明らかに異なるものであったと述べている。


 耽羅の起源については、太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。

それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられている。


4世紀頃には、百済に朝貢していた。


662年には新羅に服属したとみられる。


935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、


938年に耽羅国の星主の高自堅は高麗に服属した。


1105年、高麗が済州島をその領土に『併合』し、耽羅郡として直轄領として組み込まれた。


1108年に「済州郡」に改称。


1121年には済州と改称した。


1214年から済州と呼ばれるようになるが、在地支配層は依然健在で高い独立性を維持し続けた。


1270年に元に対して抵抗した高麗の残党は済州島に逃れてきた。


1273年、済州島を最後の拠点として立てこもっていた反乱軍は元・高麗軍によって平定され、耽羅島(済州島)は元々高麗に属さなかったとして元の直轄地に組み込まれた。


15世紀初頭頃まで、耽羅という独立した王国があったが李氏朝鮮が『併合』。

 李氏朝鮮時代には江華島と並ぶ流刑地の一つでもあり、

 主に政争で負けた王族や両班が流刑にされ汚鮮されている。


1910年の韓国併合で大日本帝国の領土となり、1945年まで朝鮮総督府によって統治されていた。


 しかし

1948年4月3日(第二次世界大戦による日本の降伏後)には、朝鮮の南北分断を固定するとの理由から済州島四・三事件が発生し島民が虐殺され、結果として済州島は大韓民国に組み込まれたが、この虐殺事件の混乱で済州島民は周辺国に難民として逃れた。


 つまり現在の在日韓国・朝鮮人には、秀吉によって連行されたのではなく、この時に命からがら日本に密入国して来た者達なのだ。



■対馬海峡の歴史:その受難

●対馬(つしま):

 対馬は九州と朝鮮半島との間にある島。

更新世の中頃までは、日本列島と大陸は陸続きであったが、その終末期に海進によって九州と朝鮮半島の間が離れ、対馬は壱岐とともに地塁島(飛び石のようになった島)として取り残された。

海岸地形と海底地形より判断して隆起と沈降とを繰り返して今日にいたったと考えられる。


●その受難の歴史

 鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受け、対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。


 また現代の対馬に対しても韓国漁船による領海侵犯が日常的におこなわれており、その主たる目的はアワビの密漁である。

密漁船の多くは釜山港を拠点としており、組織・国家ぐるみで密漁している。


1274年(文永11年)、

 蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。


 この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した。

この受難を小茂田浜神社で伝えられている。


『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。なお、高麗軍とは朝鮮人の事。

これが対馬における文永の役である。


1949年(昭和24年)1月17日、

 李承晩は対馬は韓国領として日本に「返還」を要求した。

 また、第二次世界大戦後に日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ、日本からの割譲を要求したが、GHQからは我々にとっては「根拠がない」として拒否された。


1999年に、厳原港・比田勝港-釜山港間の定期船航路開設以降、多くの韓国人観光客が対馬を訪れるようになったが、同時に一部の韓国人観光客のマナーの悪さが島内のみならず本土でも問題が取り上がられるようになった。


 一部の韓国人観光客は、外国人には禁止されている撒き餌漁を行ったり、飲食店では食い逃げや、食料品を持ち込んで注文をせずに居座るなどの行為が問題となっており、飲食店の中には「韓国人観光客お断り」の店も増えてきている。

100円ショップやスーパーなどでの万引きも横行しており、島民は困惑している。

 また、壱岐対馬国定公園内に大韓民国の国花であるムクゲを無許可で植栽し、逮捕者を出すなどの問題も発生している。


 なお、韓国には対馬にムクゲを植える運動を広げる旅行社がある。


 また和多都美神社では、絵馬に「対馬は確実に韓国の領土」「日本の天皇は韓国の子孫」などの書き込みがなされるようになってきている。


2008年7月、数々の韓国側の主張に財部能成対馬市長は「主張は自由だが、対馬は先史時代以降ずっと日本。『魏志倭人伝』にも倭国の中に入っている。対馬が韓国領土というのはあり得ない」との声明を発表したが


2009年3月26日には、ソウルにある日本文化センターに火炎瓶のようなものをもった3人組の男が侵入し、

「根拠は特に無いがとにかく対馬は韓国領土」などと書いたビラを持って立てこもった。


同年11月4日には、「対馬は韓国領」と記載された文書や刃物などを持ちこんで、在大韓民国日本国大使館に放火し、大使館員を人質にしようとした男が逮捕された。


 このほか市民団体の活貧団(ファルビンダン)なども「対馬は韓国領土」と継続して主張し、活動している。


2008年頃から、韓国資本が対馬で土地の買い占めを行っているとの報道がなされるようになり、韓国資本が日本人名義で土地を買収し、リゾート施設を建設したことも明らかになった。


 親日韓国人が日本人名義・通り名で不動産の買収を行うケースもあるため、実際の買収状況を把握することは困難という指摘がある。


2012年の対馬仏像盗難事件をはじめ、韓国人による文化財の窃盗事件が頻発している。


 対馬は防犯意識が低く、朝鮮渡来品が多いため、盗品ブローカーたちからは「宝の島」と呼ばれている。


●長崎県議会:

 長崎県議会は外国人参政権について日韓両国は相互主義の成り立つ条件にないことを指摘したうえで、

「長崎県は、対馬の問題を抱えている。


 対馬は韓国領だと主張する韓国人がいて、実際に韓国資本により対馬の土地の多くが買われ、韓国人が移住しているという現在、もし、在日韓国人に地方参政権が与えられたとしたら、韓国政府の意向を受けた地方公共団体の長や議員が誕生し、実質的に対馬を韓国領とされてしまうという悪夢が実現するのではないかという大きな懸念を持っている」

とした。


 対馬海峡が新たな「38度線」になる事態は何としても避けなければなりません。

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