第37話 現実:地理-瀬戸内海 〜 瀬戸は日暮れて道遠し 夕波千鳥 〜 穏やかな内海はその実強力な潮流海域
▼瀬戸内海(せとないかい):
本州、四国、九州に挟まれたその名の通り内海である。
東西に450km、南北に15-55km、平均水深:約38m、最大水深:約105m
日本の47都道府県のうち、瀬戸内海に面している都道府県は11です。
山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、 徳島県、 香川県、愛媛県、大分県 、福岡県 がそれぞれ海岸線を持ち、古来畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。
一般には、広義の山陽(兵庫県の播州地方及び岡山県、広島県、山口県)と四国北岸の香川県と愛媛県を指す(兵庫県淡路島・徳島県も含む場合もある)。
なお、福岡県の北九州地区・京築地区と大分県を含む場合もある。
沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海(せとないかい)の名称源ではない。
瀬戸内海は「瀬戸(せと)の内海(うちうみ)」の意である)。
瀬戸内地方(せとうちちほう)は日本の地域を指す通称の一つであり、本州西部・四国・九州に囲まれた瀬戸内海の沿岸地域を指し通称で瀬戸内(せとうち)とも呼ばれるのだ。
実は海洋の地形の中で、両側の陸地によってせばめられた水域を「海峡」・「水道」といい、海や湖の一部で、陸に入り込んだ領域が湾(わん)であり、沖合の中で波が荒く、潮流が速い所を指し、洋とも書き表される灘(なだ)などは、さんずいに難という字の如く古くから航海が困難な場所とされるため、沿岸には避難港が発達している。
そしてこれらと本質的に違いの無い「狭い通路」を意味するものに「瀬戸」があります。
「瀬戸」とは島と島の間の「瀬戸際」のこと。古来より瀬戸は航海の難所であり、海難事故の多発地点であった。
故に関門海峡の水先案内の歴史は古く、神武東征、神功皇后の外征、寿永の源平壇之浦の合戦、文禄年間の豊臣秀吉の朝鮮出兵軍の海峡通過等々の歴史の裏側に語り継がれているし、村上水軍など瀬戸内海の海賊も平和な時には、海の水先案内、海上警護、海上貿易など、海の安全や交易・流通をも担っていました。
瀬戸内海にある数々の瀬戸の難所を航行する技能が水軍を発生させた要因と言えます。
だが「海峡」・「水道」・「瀬戸」のこれらの語には意味上の本質的な違いはなく、同じ海域について別の語を用いた別称や副称をもつものもある。
よって 瀬戸内海には海図に記載されている「瀬戸」が71箇所もありますが、これらは瀬戸内海にあるから「瀬戸」ではなかったんですね。
なお『領海及び接続水域に関する法律』では東側から順に次に掲げる10区分された海域で構成されている。
紀伊水道
大阪湾
播磨灘
備讃瀬戸
備後灘
燧灘
安芸灘
広島湾
伊予灘
周防灘
『瀬戸内海環境保全特別措置法』では前記10区分に次に示す2海域を加えた計12区分で構成される。
豊後水道北部
響灘
上記の12区分された個々の海域を示す明確な基線(境界線)は存在しない。
国際水路機関(IHO)が1953年に発行した『大洋と海の境界』において、
瀬戸内海は英語版でSeto Naikai or Inland Sea、仏語版でMer Intérieure (Seto Naikai)と表記され、その範囲は次のように定義されている。
西端 - 下関海峡において、名護屋岬から馬島と六連島を通り村崎の鼻に至る線 東端 - 紀伊水道において、田倉崎と淡路島の生石鼻、同島の塩崎と大磯崎を結ぶ線 南端 - 豊後水道において、佐田岬と関崎を結ぶ線 豊予海峡および鳴門海峡の内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られている。
瀬戸内海はかつて陸地だったところが海面上昇により海になった場所であり、よって水深が非常に浅く平均水深は31m、全体的な傾向としては東に行くほど浅く、最深部は豊予海峡(速吸瀬戸)で約195m、鳴門海峡では更に約200mと考えられている。
瀬戸内海がなんとなく海っぽくないような感じがするのは海の穏やかさもされど、実は海特有の 「磯の匂い」 があまりしないことにある。
なぜなら大小含めると約2000系の河川が流れ込む瀬戸内海は海水と淡水が混じり合う河口域のような海である。
よって磯の匂いがほとんどしないし、さらに海に入ってもベタベタしない。
海はベタベタするのが嫌だと言う人も多いが、瀬戸内は非常にサラサラとした心地良い潮である。
また、かつては遠浅の干潟が多く存在していた瀬戸内海では春には潮干狩りで賑わった。
しかし、干拓や護岸が進んだ今となっては自然の浜は、もはや2割しか残っていない。
潮干狩りといえば、瀬戸内は平均して2~3メートルの干満の差がある。
東西から潮が合流する中央部(広島あたり)では更に4メートルを超えるところもある。
そこで、干満の差に合わせていつでも船に乗れるよう階段状の 「雁木」(船着場)がつくられた。
また、瀬戸内は水深が浅いため、干潮時に潮が引くと歩いて渡れる 「陸橋」 が出現するポイントもあり、観光ポイントにもなっている。
この瀬戸内海は日本第一号の「国立公園」に指定された景勝地である。
豊かな生態系や環境保全を目的にした 「国立公園法」 の整備により環境省が定めたもので、昭和9年に、瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の三つが指定を受けた。
評価の背景には 「シーボルト」 や 「朝鮮通信使」 などによる外国人たちが瀬戸内を高く評価したことがあげられる。
▼穏やかな内海 Vs 島と島の間の複雑な潮流:
瀬戸内海は海域の幅が狭いうえ水深が浅く「波」を吸収する砂浜が多い為「うねり」の影響を受けない。
寧ろ風が止まると完全な「凪」になる。しかも月の引力によって生じる「潮汐」(干満)による水の流れ
「潮流」 が「風浪」や「うねり」のエネルギーを吸収してしまう。
この「潮流」は波と違い陸からは見えづらいため一見すると海面上は穏やかな海に見える。
だが「潮流」が速くて複雑な流れを見せ「渦潮」となる場所もあり「潮流」が激しい瀬戸内海には、帆船や人力船の時代は「潮待ち・風待ち」 が必要だった。
気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ温暖で雨量が少ない。
一年を通じて瀬戸内式気候と呼ばれる。夏は四国山地に、冬は中国山地によって季節風が抑えられるので、年間を通して温暖で晴天が多く雨量は少ない。
積雪も年に1~2回程度は起こるが、山間部を除いては大雪になることは稀である。
日本海側に対し、内海の瀬戸内海側では波は穏やかである。
だが、瀬戸内海には二つの顔がある。
見た目は湖のような「波」のない穏やかな内海。
そしてもう一つは 「潮」 が超高速に流れる世界有数の「潮流海域」である。
瀬戸内は自然災害が少ない非常におだやかな海である。
海が穏やかな理由は、外洋からの大きな 「うねり」 の影響を受けないこと。
外洋からのうねりの影響を受けない瀬戸内は、風が止まると湖よりも静かな「凪」となる。
中でも「海陸風」が入れ替わる朝と夕方の時間帯で気圧にの中心に入った時は、完全なる「凪」となり、海上は音のない世界となる。
また海域の幅が狭いため、例え「うねり」が発生しても大きくならないこと、水深が浅く(平均30M)障害物となる島や岩礁が多いことや、「波」を吸収する砂浜が多いこと、そして大河のように流れる 「潮流」 が、「風浪」や「うねり」のエネルギーを吸収してしまうこと。
以上、瀬戸内海は陸と潮流にプロテクトされた希有なる海である。
なお、風のエネルギーによって引き起こされる波「波浪(はろう)」とは水面の高低運動であるが、この「波浪」には「風浪(ふうろう)」と「うねり」の2種類がある。
その場で吹いている風によって引き起こされた波は「風浪」あるいは「風波(ふうは、かざなみ)」と呼ばれ、他の海域で風によって起こされ伝わってきた波は「うねり」と呼ばれる。
「風浪」は風が海面に当たると風と海水の摩擦で海面が波立ち波の上部が尖った三角形に近い形をし、強くなるほど「風浪」の高さは大きくなる傾向があり見た目の形状も変化する。
「うねり」は波が一つの塊になった波長の長い大きなエネルギーの流れであり、水が動いてるようにも見えるが水自体は止まっており、水の中を巨大なエネルギーが流れている現象である。
このうねりは、長距離を伝わってゆく。
例えばハワイのノースショアで起こるビッグウェイブは低気圧の墓場と呼ばれるベーリング海(アラスカ)で発生した巨大なうねり(エネルギー)がハワイ沖まで到達し、リーフでブレイクして巨大な波となったものである。
一方、「海流」 とは地球の自転や貿易風などによってもたらされる恒常的な水の流れのことで、他方「潮流」は月の引力によって生じる「潮汐」(干満)による「水の流れ」である。
風浪やうねりとの違いは、川と同様水そのものの流れであること。
波と違い陸からは見えづらいため一見すると海面上は穏やかな海に見える。
しかし、海面下は平均速度3~4ノット、場所と時間帯によっては10ノット(時速18キロ)を超える流れになることもある。
中でも満潮から干潮に向かう「下げ」の時間帯は勢いが増すため、海域の幅が狭い「瀬戸」では 鳴門海峡や来島海峡が代表例の「渦潮」となる場所もあるが、なぜなら瀬戸内海が潮の干満差が大きいことで知られ、これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2m以上にもなる為で、故に瀬戸内海の潮流は極めて強くなり、場所によっては川のように流れている所もあり、この強力な潮流により「鳴門の渦潮」が発生しているのだ。
「潮流」が激しい瀬戸内海には、かつて 「潮待ち・風待ち」 と呼ばれる航海文化があり、それにより街が形成された独自の歴史がある。
潮流は約6時間置きに入れ替わるが、流れる方向が変わるため、帆船や人力船の時代は、潮の流れに沿って航海し、潮の向きが逆になったらどこかの港に入港し、再び潮が流れるまで待つ必要があった。そうして登場したのが「潮待ち港」と呼ばれる寄港地である。
中でも江戸時代に登場した「北前船」により「沖乗り航路」(沖合の島々を結ぶ本船航路)が開拓された以降は、その航路が物流の要となり、沖合の島々や半島の先端部が寄港地として賑わった。
現代では陸の孤島と呼ばれるようなへんぴな場所に存在しているが、江戸時代には全国の情報が集まる最先端の場所でもあったのだ。
代表的な寄港地としては、「鞆の浦」(広島県福山市)や大崎下島の 「御手洗」(広島県呉市)
などがある。
このように瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海であり、この瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されるなど瀬戸内海では潮流は速くて複雑な流れを見せ、鳴門、速吸瀬戸などの狭水道では、5~10ノットにも及び地形の複雑さも加えて独特の海象を呈しています。
また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、
植物プランクトンの成育を促していると考えられている。
つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。
鯨類のほか、ニホンアシカは20世紀初頭まで鳴門海峡を含む瀬戸内海各地に見られ、ニホンカワウソも1975年まで棲息が確認されていた。
なお、陸生ではあるがニホンジカやニホンイノシシが瀬戸内海を泳いで縦横断する光景は古来より見られてきたが、現在では社会問題となっている。
古文上でも大型のナガスクジラ類と思わしき鯨類が同海域にて渡し船上等から度々目撃されていた事が
明らかになっているほか、シロナガスクジラも戦前は確認されていた。
瀬戸内海周辺には多数の鯨類に関連する昔話や鯨塚が残っており、
芸予諸島には「まんが日本昔ばなし」でも紹介された「くじらのお礼参り」という民話や、豊後水道には「鯨の背比べ」と呼ばれる、鯨類の海面での繁殖行動を連想させる話が伝わっている。
屋島の最北端、瀬戸内海に突き出した岬である長崎の鼻にも現在古墳と共に鯨塚が残っていて、源平合戦(治承・寿永の乱)の折、瀬戸内海を進むイルカの群れの進行方向を使って戦績の吉兆が占われたという逸話も残っているなど、現在の状況からは想像しがたいが、かつてニホンアシカやクジラ、ウミガメやサメ類の一大生息地でもあり、沿岸性であるコククジラやセミクジラ、ウバザメやジンベイザメ、ホホジロザメ、オニイトマキエイ、マンボウなどの大型魚類やオサガメなど、現在では絶滅危惧種となっている大型の生物も多く見られたとされ、たとえば周防灘や別府湾などは鯨類にとって育児海域になっていたとする意見も存在する。
瀬戸内海の各地に小規模な捕鯨会社が設立されるなどの狩猟と漁業による圧力や、高度成長期に急速に拡大した護岸ふくむ沿岸開発と環境破壊や汚染などの経緯を経て、これらの動物は瀬戸内海からは江戸時代から昭和時代初期にかけて激減または地方絶滅を迎えた。
前述の絶滅危惧種はほぼ消え去ったが、たとえば他種のクジラならば現在でも稀に迷入することがある。
医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、
19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンの『支那旅行日記』により「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と世界中に紹介され、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である。
このようにシーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が来日し、近代的な「観光のまなざし」によって瀬戸内海を再編していった。
すなわち近世以前の瀬戸内海観光が文学作品を媒介とした「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝という形式を持っていたのに対し、欧米人は瀬戸内海各地で(当時)当たり前のように見られた風景(多島海、段々畑、白砂青松、行き交う和船など)に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていった。言い換えるならば、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していったのである
実は瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされるのだが、それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかったのだ。
とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。
1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記『海陸道順達日記』では尾道と下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。
「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。
欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半に広まっていったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。
日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。
▼歴史:
○先史時代
瀬戸内海には古い時代と新しい時代のものがある。
古いほうは第一瀬戸内期(1500万~1600万年前)と呼ばれ、新第三紀中新世(約2,300万年前~約500万年前)の中期初頭(1500万~1600万年前)頃に存在した。
一方、新しいほうは第二瀬戸内期(300万年前~現代)と呼ばれ、新第三紀鮮新世(約500万年前~約258万年前)中頃(300万年前)から第四紀更新世(約258万年前~約1万年前)頃までに存在した。
現在の瀬戸内海は第二瀬戸内期の海の続きである。
・1600万年前
日本列島がユーラシア大陸から分離。古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。
古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。
新生代新第三紀中新世以降、現在の瀬戸内海地域には西南日本の中央部をほぼ東西に伸び縦断する細長い低地が形成され、この低地に沿って海水の浸入があった。
この低地を古瀬戸内,あるいは瀬戸内区という。
古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していた。
この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は備北層群と呼ばれている。
第一瀬戸内期の海は、長野県南部から濃尾平野・奈良盆地などを経て岡山・広島県北部に続き、伊勢湾付近および紀伊水道付近で太平洋と、また西端付近で日本海に接続していた。
・1,400万年前から1,000万年前
二上山、室生、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。
・7万年前
ウルム氷期が始まる頃、現在は瀬戸内海である一帯にはステゴドンやナウマン象が住んでいた。
また広島県の情島で、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。
縄文の海進が始まる以前の瀬戸内海は四国と本州側の山々の間に広がる大平原だった。
海水が流入する以前の瀬戸内を想像すれば中・四国山地から河川が流れ込んで湖沼ができ、水辺には動物が集まり、人々は狩りに適した丘の上で生活をしていたと思われる。
なお備後瀬戸の西あたりが川の流れの分水界となり東と西とにそれぞれ西古瀬戸内川・東古瀬戸内川と言う大河が流れていました。
豊後水道側に流れ込むのが西古瀬戸内川で、紀伊水道側に東古瀬戸内川です。
今でも豊後水道からと紀伊水道の両方から海水が入ってきてまた抜けるとき、ちょうどこの地域が潮目になっています。
・1万3千年前
この頃から瀬戸内海は次第に海になっていく。
それまでその地は瀬戸内海ではなくて、幅10㎞程度の「大きな溝」だったのだから。
1万3千年ぐらい前から地球全体で海水の量が増えてきだして、太平洋の方から海水がどんどん瀬戸内海の位置にまで流れて入ってきて次第に海になっていったのだ。
・1万年前
1万年前に氷河期が終わると気温の上昇に伴い海水面も上昇していき、6,000年前までにはついに現在のような瀬戸内海が形成されました。
これは第四紀更新世~完新世(約1万年前から現在)の氷河時代(氷期)の寒冷期には海水準(⇒海水準変動)が低下して陸化していたのが、氷河期が終わり気温が上昇する間氷期の温暖期(現在に続く)に海水準が上昇して海化したのだった。
○古代
瀬戸内海の生業は漁業であり、農業が定着したのは平安時代になってからだったが古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。
そのことは『魏志倭人伝』の記述や『日本書紀』の国産みの段でイザナミの産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。
古代の航海は船舶も公開技術も未熟であり気象海象に大きく影響を受け陸伝いに行われていた。
古来、北九州から奈良への瀬戸内海航路には2つの航路があった。
南路だと瀬戸内海南岸から大和川をさかのぼって奈良に向かう航路で、
北路は瀬戸内海北岸から淀川に入って木津川に入り、北から奈良に向かう航路です。
そう、ひとつは四国の岸に沿って東に進み淀川の河口の入江を奥へ入っていくと大和川の口が開いています。
この奈良県から大阪府へと流れる大和川をさかのぼっていくと、古代より大和川が大和から難波へと抜ける交通の要所大阪の柏原に出る。
この大和川が奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は古代でも大和川水運の難所「亀の瀬」と言うが、ここは古代から、大和川の氾濫や土砂崩れなどで交通が寸断される危険のある難所として知られます。
また「亀の瀬」には銚子口という滝があったためにそれより上流に遡ることがでず、江戸期の大和川付け替え(1704)以前も、この河内と大和の境、二上山と竜田山に挟まれた渓谷・急流「亀の瀬」の滝と成って流れる急流はそれほど長くない為、舟を降りて急峻な山越(竜田越・大阪越)
をしたか、もしくは亀の瀬でいったん陸揚げされ上流へ向かう川船に積み替えて奈良盆地に入ってたのではないかということです。(ライン本流唯一の滝であるライン滝かはたまたエジプトのアスワンか?)
もうひとつのコースは瀬戸内海の本州沿岸部から東に行って大阪の淀川に入りさらに淀川上流の木津川に入って山城にある古代からの大和の外港「泉津」(現在の木津)から
陸路なだらかな奈良坂・平城山を越え奈良に行ったコースです。
この「木津」の地名の話になると地元民は「奈良の大仏の銅や大仏殿の木材をここで陸揚げし、奈良坂を越えて奈良に運んだ場所だから木の津(港)「木津」という」と皆異口同音の自慢する。
これらの航路はそのターミナルあるいは出発点が大和に求められ、この航路の意味が、大和政権が西日本各地に軍隊を派遣するために必要な航路であると考えられ、このように考えてみますとこの航路の意味は畿内の大和政権の航路ということになる。
瀬戸内海が現在のような形になったのは縄文時代のことであるが、当初の海岸線は大阪の現淀川の奥、生駒山の麓まで湾が広がって現在の東大阪市まで入り込んでいた。
この湾を河内湾と呼び、河内湾の入り口に南から突き出ていたのが現在で言う上町台地である。
そして、この湾にはクジラが回遊していたという。
その後、河内湾の入り口は堆積した土砂で埋まり数条の砂州となり(天満砂州)、2世紀から3世紀にかけて、河内湾は完全に瀬戸内海から切り離されて草香江と呼ばれる湖(河内湖)となった。
古墳時代に入ると、仁徳天皇は難波 (大阪市) に都を定め (難波高津宮) 人々は水運の利便性を考えて瀬戸内海と河内湖の間に運河を掘削し、これを難波堀江(なにわのほりえ)と名付けた。
河内湖の最奥部の生駒山麓には草香津と呼ばれる港湾施設があり、瀬戸内海から難波堀江を通過して河内湖に入った船は、そのまま東進して草香津に向かった。
また難波堀江の途中の、砂州と砂州の間にできていた潟湖にも港湾施設が建設された。
これが難波津である。
ところが8世紀に入ると、難波津は土砂の堆積によって港湾施設としての機能を失っていくことになる。
桓武天皇が長岡京遷都にあたって後期難波宮の建築物を収去してしまい、更に平安京遷都が行われると、
首都と瀬戸内海航路を結ぶ舟運ルートの主力は、平安京との交通至便なより北側を通る淀川右岸や神崎川流域に移行することとなり、奈良盆地の外港として栄えた淀川左岸の難波津の意義は相対的に小さくなった。
古代の水運を担った人々は海人(あま)族といわれ、これには宗像(むなかた)系と住吉(すみよし)系とあって、
それぞれ北九州沿岸を本拠としてしだいに内海一帯に植民し、製塩、漁労、造船の技術に秀でていた。
古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した古代港の住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であったことから瀬戸内海は、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。
もしかすると住吉大社に祀られている三神は、実は雄略天皇が呉から招聘した技術者であり、底筒男命は水中障害物を除去して航路を開く、中筒男神は航路・港の浅深測量、表筒男命は潮流の調査をそれぞれ担当し解決したのかもしれない。
瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。
つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転するのだ。
故にこの頃既に鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。
なぜなら瀬戸内海は海流が複雑で、慣れた地元漁民の助けを借りないと通れなかったのだ。
後に塩飽諸島で水夫に養成された住民の後裔は、1000年後に村上水軍や「塩飽の水主」として歴史上高名をはせることになる。
同様の航海守護神としては宗像大社(福岡県宗像市)も知られるが、
宗像大社は在地の宗像氏の氏神であったのに対して、住吉大社の場合は特定氏族の氏神ではない点で性格を異にし(神職津守氏の氏神は摂社大海神社)、伊勢神宮・石上神宮・鹿島神宮とともに古代王権にとって国家的機関の位置づけにあったとする説もある。
5世紀日本に馬が入り陸運が可能となるも、縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。
その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。
しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、
瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。
それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、
朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
また瀬戸内海の主要航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
古代の航路は播磨灘から邑久の海岸沿いに西下し吉備の児島、今の児島半島(当時は島)の北側の海域を通って水島灘へ出て備後の瀬戸内海航路の一大拠点であった鞆港へと向かうコースであったようで、海路の要衝として交易や軍事のための船や人が往来した吉備子洲(きびのこじま)の海岸沿いが当時の主航路にあたり、
大和と九州との間の要衝の地であったといえる。
しかし現代の感覚とは全く違い、吉備子洲に瀬戸内海からの船の通らない海運の途絶時代が長い期間存在していた。
なぜなら下関と大阪湾をつなぐ一本の隧道でありながら、片方から入って片方から抜ける急激な潮の流れが存在していたいため手漕ぎ船では、島や半島に囲まれた狭い海峡の流速はどうにもならない時代が6世紀まで続いていたようだ。
瀬戸内海は潮流が激しく、時速2ノット以上の海流があると手漕ぎ船で航行することは不可能と言う。
5世紀頃以前は丸木船(刳り船)に頼るしかなかったのだが、手漕ぎ船にとっては危険な状況が一定時間に繰り返し起こっており、更に通過する船にとって脅威的障害物である水面下の岩礁が随所に存在するのだ。
中でも瀬戸内海の中央に位置する 「しまなみ街道」 の周辺海域は流速が非常に速く、村上水軍の拠点であった「能島の船折瀬戸」などは、文字通り船がへし折れるほどの驚異的な潮流スピードとなる。
しかし、この潮流のおかげで航海技術が磨かれた。
瀬戸内の文化は全て潮流がもたらした文化である。
瀬戸内海は、4つの海峡(2つの海を連絡する狭い海)すなわち、
関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を通り、干潮から満潮まで鞆ノ浦に向かって潮が流れ込んで来る。
また満潮から干潮にかけては鞆ノ浦から潮が4つの海峡に向かって流れ出る。
潮待ちとは、潮流を利用して航行する船が潮流の向きが変わるのを待つことです。
瀬戸内海の主要航路
1.陸地沿いの地乗り航路:航行は、潮の流れと櫓を漕いで、あるいは帆で進んでいった。
瀬戸内海では一日に2回の干満があり、6時間毎に潮流が逆転する。
逆潮を避けるためにまた潮に乗るために潮待ちの停泊があった。
そのためには、陸地沿いや島々の間を通り、かつ潮流の速い山陽沿岸
(大畠の瀬戸、平清盛が開いた音戸の瀬戸)沿いが東西を結ぶ幹線航路に選ばれた。
そして潮待ちのためには一定の距離毎に港が出来た。
赤間関(下関)、中の関、室積、上関、沖の家室、津和地(松山市)、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津、兵庫、大阪への航路が主流となった。
2.沖乗り航路:沖合を一気に駆け抜けること。
沖乗り航路とは、17世紀後半:江戸時代になり、木綿帆が使われるようになると帆走能力が高まった。
それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ、航海することが可能になった。
上関から沖の家室、津和地(松山市)、御手洗、鼻栗瀬戸(伯方島と大三島との間)、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦へと往来するもので、瀬戸内海のほぼ中央を航行する。
菅原道真や高倉院も、また小野妹子、小野篁、粟田真人、山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備、賀茂吉備麻呂、霊仙三蔵、空海、最澄も遣隋使・遣唐使となって吉備の穴海を航海している。
その他、九州・中国地方を平定する征西事業を任された第12代景行天皇の皇子で第14代仲哀天皇の父、日本武尊(やまとたけるのみこと)もまた海路瀬戸内海を吉備の穴海を航海し、熊襲討伐の帰路の事、日本武尊(の弟-神櫛王とも子-武皷王とも言われる者・讃留霊王(さるれお、讃王)とも)は本土と吉備児島との間、阿知潟あるいは「吉備の中海」と呼ばれる浅海(当時岡山平野は一面の海であった)にちょうど到達したときに本来吉備国(岡山県)の穴海に住んで船を飲み込む巨大魚:吉備穴濟神が沖合の大槌島と小槌島の間に現れ、この悪魚:悪樓(あくる)発見の報を受けて悪魚退治に讃岐に向かったとされる。
なお、辛くも勝利したが八十八(八十とも)人の兵士達と共に坂出の浜に打ち上げられて毒気に当たって倒れていたのを、現れた神童が水を与えて回復させたと言う。
後に崇徳上皇の遺体も漬けられていたと言うその水が、八十場の霊泉である。
なお、行基上人は讃留霊王が退治した大魚が流れ着いたと言う福江浦に魚御堂をつくり、そこに寺を建て法勲寺としたとあり、また後に弘法大師がこの法勲寺を讃留霊王の墳地側の現在の場所に移したそうだ。
吉備の中海は後に吉備の穴海と呼ばれたが、これは三大河川による沖積作用によって陸地化が次第に南進し十世紀(平安時代中期)には、中海はかなり狭められたと想像されるからである。
「吉備の中海の浅海化」の速度は、500~1000年という長い単位で徐々に変化拡大し、「中海(なかのうみ)」は「穴海(あなのうみ)」の状態に変化していったのだ。
故に当初は中海をルートとする児島北側の航路(北航路)であったが、北岸の中海は中世中頃には高梁川などの堆積作用により航路としての機能が低下し始めその結果、それまでの北航路に代わり児島南側の航路(南航路)の重要性が高まっていき、近世には、穴海の干拓により岡山平野と陸続きの半島となり北航路が消滅した。
奈良時代には陸上の交通路(山陽道や南海道)が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。
平安時代中期は、嵯峨源氏の渡辺綱を棟梁とする摂津国の渡辺党が瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁となり、
渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏が九州の水軍松浦党の惣領となる。
藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし(承平天慶の乱)、瀬戸内海は純友の活動舞台となるも伊予国の警固使の橘遠保が純友を捕らえる。
平安時代末期には平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり厳島神社の整備を進めたりした。
清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備も行ったと伝えられています。
同じく平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な
内乱、古代最後の内乱であり中世最初の内乱である治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱(らん)所謂源平合戦では一ノ谷の戦いで敗れた平氏は備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡で藤戸合戦、児島合戦とも言う
平氏追討軍と戦いで平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。(合戦の当時は海に島が点在している状態であった)
この合戦は藤戸の戦いと呼ばれ、『平家物語』にも描かれており、島に篭もる行盛に対し、漁師から馬でも渡れる浅瀬を聞き出した盛綱が、藤戸の海峡の波を馬で乗り越え先陣を切って攻め入ったとされる。なお地元ではその漁師を口封じの為に殺したと伝わる。
それを題材として、謡曲「藤戸」が作られた。
ちなみに関門海峡でも最も狭隘な場所が源氏と平家の最後の戦いとなった壇ノ浦合戦の跡であり、下関戦争(馬関戦争)の主戦場の一つである。
同様に治承・寿永の乱(屋島の戦い)の舞台となった香川県高松市屋島東町(讃岐国屋島)にも「だんのうら」と呼ばれる地名がある(こちらは「檀の浦」(檀が木偏)と書く。)
何故なら『だんのうら』とは本来軍団の浦を指し、各地に存在したからだ。
そもそも平家の軍勢が屋島に逃げ込んだのもこの地が元軍事要塞だったからではなかろうか。
○中世
鎌倉時代から戦国時代にかけては、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちが瀬戸内航路に勢力を張り始め、河野氏や村上氏らは海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内航路を制御下においた。
○近世
豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力が排除され、回船商人らによる西廻り航路の一部(関門海峡~大坂)として、瀬戸内海は流通の主役の務めを果たしました。
ただ、関門海峡は危険な浅瀬が多くあり、豊臣秀吉も御座船が関門海峡の暗礁で船が座礁し危うく難をのがれるなど関門海峡は難所であった。(与次兵衛岩の由来)
明石(石井)与次兵衛はその責任をとって切腹したが、その碑をシーボルトがスケッチしています。
なお、 宮本武蔵と佐々木小次郎による巌流島での決闘が行われたのも関門海峡である。
その後与次兵衛岩は大正元年から6年まで6年間、金伏群礁に至っては大正3年から昭和元年まで12年もの歳月を費やし砕岩浚渫工事を行ったと言う。
江戸時代の中期、大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場しそれ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達したのです。
大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになり風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
なぜなら当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要とし同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。
また、小泉総理は『中近世になって、朝鮮の文化の程度を日本に知らしめたのは、15世紀から19世紀の長きにわいて続いた朝鮮通信使でした。彼らの所業が当時の我が国の文化人や庶民達に大きな影響を与えたのです。』と2002年3月22日演説している。
実は江戸時代将軍の代替わりごとに朝鮮から朝貢に朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
朝貢を行う国は自ら出向いて相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜するのですが、その際白昼堂々の集団強盗:朝鮮通信士が、鶏を盗んで乱闘になったという鶏泥棒の話は有名である。
【彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて盗んだ鶏をひっつかんで隠してしまう】
イザベラ・バード 朝鮮紀行(p133)
【伝統上、中華の奴隷頭である両班に求められるのは究極の無能さ加減である。
従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。】
イザベラ・バード 朝鮮紀行(p137)
これは、「朝鮮紀行 英国夫人の見た李朝末期 イザベラ・バード」の中の一文であるが、
鶏や卵をかっぱらうのは、両班の当然の権利であり、まさに強奪者以外の何者でもないのだ。
このことから、自国(李氏朝鮮)において、官僚や両班にとって、食い物など「勝手に盗ってよし」は普通のことであり、日本において鶏を盗んだことで、なぜ咎められるのか理解できなかったことが想像される。
「朝鮮紀行」は、日韓併合前後に朝鮮半島を訪れた女流紀行家イザベラ・バードが書いた紀行文であるが、一級の歴史資料でもある。
朝鮮通信使の時代とは年代的には隔たりはあるものの、李氏朝鮮500年の間ほとんど進化していないことを考えると、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」の中に書かれてある事柄や、高級官僚や両班の行動様式などは特に、
それほど大きな違いはないと考えられる。イザベラ・バードは、こうも書いてある。
【朝鮮には階級はふたつしかない。盗む側と盗まれる側である。
両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人口の五分の四をゆうに占める下人(ハイン):賤民(奴婢、白丁(ペクチョン))は文字どおり「下の人間」であり、謂わば吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする。】
イザベラ・バード 朝鮮紀行(p558)
彼らは両班(ヤンバン)と呼ばれ、王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」
と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していたのだ。
マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。
よって以上のことを歴史的に理解した上で彼の国に対応しなければならないのだが。
朝貢が少ない国=荒れ果てて貢物が何もない国=朝の静けさの国=朝(東)の鮮卑
桜蘭やチベット、ウイグルですら侵略し自国化していった中国だが、古代中世の支那王朝は、紀元前のBC107年前漢が漢四郡に軍隊を置いたが大損でこれを教訓に支那は朝鮮から手を引いた。
長い長い歴史の中で、一度触って火傷したため朝鮮半島を忌み嫌い決して自国領土にしなかった。
朝鮮とは関わらないほうが良いということだ。
アジア人が「お前は朝鮮人だ!」と言われると最高峰の侮辱になるそうだが、「お前は朝鮮人だな?」と当の朝鮮人へ言っても名誉毀損罪になるという。
汝らは一体何人なのか?
故に彼らはこうのたまうのだった「アイムザパニーズ」早く日本人になりたい、と。
幕末には、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海していた。
1864年(元治元年)には,下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海が封鎖された際には、これを原因として馬関戦争(長州藩の砲台と英仏蘭米艦隊との戦い)が起きている。
明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、
蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
○近代
明治時代以降は鉄道開通などの本州・四国内交通網の整備が進んでいきそれがやがて現代において本州・四国間に本州四国連絡橋(瀬戸大橋)の開通に至っていった為、以前より交通路としての重要性は薄れたが、大正時代には阪神・別府間などに観光航路が開設され、戦後の観光ブームにも多くのクルーズ客船が往復し賑わいを見せていた。
同時に永きにわたり栄華を極めた瀬戸内海の海運も、鉄道が導入されるようになった明治以降、陸上交通に主役の座を奪われ、大型の汽船が登場してからは港町の多くは衰退し今に至っています。
○現代
関門トンネル等の開通に伴い九州への玄関口の機能は陸上交通にその主役を譲りました。
ただ日本において初めての水底トンネルは関門鉄道トンネルでありますがこのトンネルは、世界で初めての海底トンネルであると触れられることがあるが、ニューヨークのイースト川は名前に川 (river) と付くものの実際には海峡であり、イースト川をくぐるトンネルジョレールモン・ストリートトンネルなどそれ以前から存在する。
その後瀬戸内海の航路の主役はフェリーに移行したが、紫雲丸事故により連絡船による客車の航送が完全に中止されるまで本州と四国を結ぶ幹線交通路として鉄道軌道を船内に設置した船舶:鉄道連絡船(てつどうれんらくせん)が重用されていた。
なお鉄道連絡船の多くは、鉄道路線の延長、太平洋戦争敗戦による領土の喪失、トンネル及び橋の完成、
利用客の減少などといった理由で廃止され、観光色の強い宮島航路のみが残ったのだが。
1970年5月12日には広島発今治行きの定期旅客船「ぷりんす号」が警察から追跡されていた男性(当時20歳)にシージャックされたが、一時愛媛県の松山観光港に逃走したのち翌日に広島に戻り、そこで犯人は死刑廃止派垂涎の射殺にされた「裁判によらない死刑だからセーフ」日本初のシージャック事件、瀬戸内シージャック事件である。
なお、シージャック(Seajack)とは、運航中の船舶を乗っ取る行為であり、狭義では、積荷の略奪が目的である海賊行為とは区別されるが、そもそも「シージャック」という言葉は「海」(sea)と「ハイジャック(hijack)から合成されたカバン語で和製英語である。
広島、愛媛両県間の瀬戸内海では事件が発生しやすいのか?
はたまたこの海域を本拠地とした瀬戸内海に勢力を誇った海賊衆:村上水軍なりの呪か?
また本州四国連絡道路の児島・坂出、神戸・鳴門、尾道・今治の3ルートが、瀬戸内海を越えて本州と四国を結んでいる。(一方本州と九州は、結ぶ橋は一つでも、トンネルは三本+αほどある。)
このため、かつて本四連絡の主役を担っていた船舶航路の多くが姿を消しました。
しかしそれでも瀬戸大橋開通後利用者が減少し徐々に減便を余儀なくされ衰退しつつも、平成に入って休止されるものも多数あれど無数のフェリー定期航路は未だ存続している。
また、環瀬戸内文化圏という観点から、瀬戸内海を文化交流の場としてとらえ直す試みも行われている。
例えば、島の伝統文化や美しい自然を生かした現代美術を通して瀬戸内海の魅力を世界に向けて発信し、
地球上のすべての地域の「希望の海」となることを目指して香川県域にある瀬戸内の島々で島をまたいで
開催される現代美術の国際芸術祭:瀬戸内国際芸術祭(せとうちこくさいげいじゅつさい)は、瀬戸内の島々を中心とした各地に展示される美術作品、アーティストや劇団・楽団などによるイベント、地元伝統芸能・祭事と連携したイベントなどで構成されている。
そもそも芸術祭の舞台となる瀬戸内の島々には伝統的な文化や美しい自然景観が残っていて、はるか昔より交通の動脈として多くの新しい文化を伝播する役割を担ってきましたが、しかし近年、島々は高齢化・過疎化により活力を失いつつありました。
ですが、瀬戸内国際芸術祭の経済効果は約132億円といわれ、地域の経済に大きく貢献しました。
しかし、芸術祭の効果はそれだけではありません。
芸術祭のおかげで島に観光客が増加するだけでなく、島への移住者も増加し、休校していた小学校が再開するといった経済効果以上の奇跡を起こしています。
また、瀬戸内国際芸術祭のおかげで島との距離が近くなり、瀬戸内の島で結婚する「島婚」も地域に活気を与えるニュースとして広がり、県内にて祝福ムードが漂いました。
こうして瀬戸内国際芸術祭の開催で、島の住人と世界中からの来訪者の交流により島々の活力を取り戻したことで、瀬戸内の生活者は島の伝統文化や美しい自然を生かした現代美術を通して瀬戸内海の魅力を世界に向けて発信し、瀬戸内海が地球上のすべての地域の「希望の海」となることを目指しているのです。
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