第36話 現実:地理-歴史 児島湖『世界で2番目の広さを持つ(*ただしダム湖を除く)日本で最初に作られた人造湖』 < 児島湾 < 吉備の穴海
▼児島湖:吉備の穴海の名残、児島湾西側の一部
児島湖(こじまこ)は、岡山県南部、児島湾の湾奥にある人工湖。
児島湾の湾奥を締切堤防によって締め切って造られた日本で最初に作られた人造湖である。
岡山県の南部に位置し岡山市街地にも近く、瀬戸内海にもほど近い。
湖畔には岡山空港があったが、地形上の制約から1988年に移転し、以後は岡南飛行場として存続している。
かつては児島湾の一部であったが、1959年に旭川河口の岡山港と対岸の児島半島との間に1,558mの淡水湖堰堤 (児島湾締切堤防) が完成し児島湾の西部が淡水化されて児島湖となった。
面積10.9km2、有効貯水量約1,800万m3。
児島湖は、そう日本で最初に作られた人造湖であるのだが、ただしその広さは……世界じゃあ二番目だ。
ならば世界一は何処だって!? チッチッチ〆^ オランダのアイセル湖さ!
●児島湾締切堤防(こじまわんしめきりていぼう):
岡山県岡山市南区の築港地区(岡山港方面)から郡地区を結ぶ堤防である。
児島湾干拓地の水不足、塩害、浸水などの問題を湾内に流入する笹ヶ瀬川や倉敷川等の河口域を淡水湖とすることによって解決しようと1951年(昭和26年)着工、1959年(昭和29年)完成した。
長さは1,558m、幅30m。国から委託を受けて、岡山県が維持管理をしている。
この堤防によってできた湖が児島湖である。
定義では堤防から東を海水、西を淡水としている。
堤防完成の翌々年(1961年)から道路としても供用されているが、路線バスを除く大型車両の通行は禁止されている。
建設費は農林省20億5700万円、岡山県6000万円、また地元が受益者負担として1億400万円を負担した。
児島湖は、児島湾周辺の干拓によって増加した農地の用水確保と塩害・高潮被害の防止、低湿地の排水と干拓堤防の強化を目的として造成されたダム湖を除いた人造湖としてはオランダのアイセル湖に次ぐ世界で2番目の広さを持つ。
同じくオランダのゾイデル海淡水湖化にならい、1950年から59年にかけて締切堤防工事が施行された。
貯水量は2,607万トン、流域面積は543.7km3。
流域内人口は67万2千人で、岡山県の人口の3分の1に達する、大都会岡山が擁する世界最大の用水路である。
もっとも岡山は単に用水路が多いからという理由に限らず、転落事故が起きやすい状況が揃っている県であると言わざるを得ないのだが……。
湖水の塩分濃度は完工当初は1000分の8以下、1970年代には1000分の0.2-0.3に低下し、農業用水としてはもちろん、工業用水としても使用可能となった。受益農地は5,140ヘクタール。
一方で漁業に対しては負の影響を与えた。
児島湾はもともと水深が浅くて塩分濃度が薄く、干潟の形成も相俟っ魚の宝庫で、児島湾独自の漁法も多くみられたが、相次ぐ干拓と児島湾の誕生により漁場を失い衰退した。
また、明治期に設立され、ハイガイやモガイの養殖などを手掛けてきた児島養貝会社も、児島湖淡水化事業により事業を廃止した。
戦後の高度経済成長によりかつての干拓地が急速に住宅地化したことで、流入する笹ヶ瀬川や倉敷川、妹尾川を通じ湖水の汚染が広がった。
日本でもっとも水質汚染の激しい湖沼のひとつとされ、春先から夏場にかけては湖一帯で悪臭の発生することがある、湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
●児島湾:ある意味大都会岡山の世界最大の用水路
児島湾(こじまわん)は、岡山市にある湾で瀬戸内海の一部である。
古くは児島半島は児島という島であった。
それ故現在、児島は島の名を冠しながら半島と呼ばれ、児島半島という矛盾した名となったのだ。
……児半島ではダメだったのか?
同様に町名の通り室町時代以前は島であった早島町もまた、干拓により地続きとなったのだが。
岡山県南部,児島半島北側の湾には、古くは島であった児島半島と本土との間に、多数の島が散在し吉備の穴海(あなうみ)と呼ばれ,ここが瀬戸内海航路の主要ルートであったが、奈良時代から始まった干拓と高梁(たかはし)川・笹ヶ瀬川・旭川・吉井川の自然の堆積作用で近世初頭江戸時代初めには倉敷市・早島町方面は陸続きになり児島が陸繫され、西側は阿知潟,東側は児島湾となったと言う。
元々は中国山地のたたら製鉄で山が荒れ、河川の堆積が促進された為ともいわれる。
特に江戸時代以降に干拓が進められ、明治時代までの干拓事業により江戸時代以前に比べ、湾の大きさはかなり小さくなっている。
湾西側の一部は、締切堤防によって淡水湖の児島湖となった。
「房総」という地名が令制国の安房国と上総国と下総国の三国にまたがることに由来する『房総半島』もまた、かつて現在の千葉県と茨城県の間に「古鬼怒湾」があり、ほとんど「島」の状態であったのはそれほど古いことではない。
少なくとも古代から中世において、房総半島も半島というよりもむしろ四方を海や大河に囲まれた島であった。
現在の利根川や、霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼などの湖沼の分布する一帯が縄文時代前期には霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼までつながり規模の大きい内海:古鬼怒湾と呼ばれその後、海退および鬼怒川などが運ぶ土砂の堆積で次第に陸地化し狭まり、奈良時代頃は香取海と呼ばれたひと続きの入海だったが、
利根川東遷(とうせん)事業の結果、利根川を流れてくる土砂が堆積し、天明の浅間山噴火(1783年)による火山泥の堆積もあって以降干拓と自然の堆積によって段々と消失していった。
●児島半島:吉備の穴海が干拓により児島は陸続きの半島へと児島半島(こじまはんとう)は、岡山県南部に位置する人工的に繋がった半島である。
児島半島はかつて吉備児島と呼ばれる島であった。『古事記』、『先代旧事本紀』などによれば「吉備兒島」は「大倭豐秋津島」の次に生まれた島である。
本土と吉備児島との間は日本書紀によれば日本武尊も渡ったという「吉備の穴海」と呼ばれる浅海で隔てられており、古代には荒波を避けるために本土と児島の間の海が、特に浅瀬を避けるために藤戸という海峡が重要な航路となっていた。
遣新羅使や遣唐使、菅原道真や高倉院も、吉備の穴海を航海している。
奈良時代から小規模な干拓が始まった。
室町時代後期から戦国時代になると、為政者により新田開発のための
大規模な干拓が行われるようになった。
そして江戸時代初期の1618年(元和4年)に現在の岡山市南西部・早島町南部から倉敷市中東部にかけて岡山藩の干拓により、吉備児島は陸続きの半島となった。
したがって、日本史の教科書に使用される日本地図においては、江戸中期以前は児島を「島」として、以降は「半島」として描いている。
明治時代以降、実業家・藤田伝三郎による干拓事業で繋続部分は更に拡大した。
しかし、田園開拓後に出来た用水路とその側に作られた道の境に柵がないことが問題で人々が用水路に落ち、死亡する事故が相次いでいる岡山県民が震撼する「人食い用水路」の起源ともなっているとか。
太平洋戦争後には農林水産省の国家事業として干拓が進められた。
また、1962年(昭和37年)には児島湾の一部を閉め切って灌漑用水としての児島湖が完成したのだ。
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