第35話 現実:地理-歴史 オランダ(低地地方ネーデルラント)ゾイデル海開発、デルタ計画
まずは前提としての事前情報をば。
▼ベネルクス (Benelux) :旧ネーデルラント連合王国(低地地方)[ランドではないことに注意]
ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国の集合を指し示す名称でそれぞれの国名の初めの方の文字から成る頭字語である。
ヨーロッパ大陸北西部の地域。
3か国は歴史的に常に密接な関わりを持っていた。
現在のベネルクス3か国に当たる領域は、かつてはライン川、マース川、スヘルデ川などの下流にあたるので「低地地方」の意味がある現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に北フランスを加えた広い範囲を指す地名であるネーデルラントと呼ばれていたのだ。
なお、現在ではネーデルラントはより狭い地域に限定され、ホランド州を中心とした北部ネーデルラントのみを指すこの国を日本ではオランダといっているが、これは中心州の名前である「ホランド」が国号として通用していたからで、それが江戸時代にポルトガル人によって伝えられてからそのままになっているためである。
残りの南部はベルギー、東南部はルクセンブルクとして分離している。
これら3か国に別れたのは近代に置いて周囲を取り囲む大国スペイン、フランス、オーストリア、ドイツなどによる奪い合いの係争地として引き起こされたものと言えるのではなかろうか。
どの国もどうにも周囲の大国の影響が大きく独自の固有の文化と呼べるほどの民族性がみられるとはあまり思えないのだが。
●古代ベネルクス(ネーデルラント)の 歴史:
古代のネーデルラント(低地地方)はライン川下流以南がローマ帝国領、以北はフランク人やフリース人などが住むゲルマン系諸族の土地であった。
森林が多い低地帯で、バタウィ族やフリース族などが共存していた。
古来ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる。
間氷河期が始まった1万年前、北海は現在より高緯度に有りイギリスと大陸は地続きであった。
約8200年ほど前までは、現在の北海中央部にあるドッガーバンクは
ドッガーランドと呼ばれる大地であり、大陸とつながっていて、他の北海沿岸部と同じく狩猟採集民が生活していた。
しかしその後新石器時代に入り、およそ7,000年前から5,000年前の間の完新世で最も温暖であった時期紀元前5500年頃から始まった大西洋の海進によって温暖化が進むと海面上昇が起こり、ドッガーランドは海没して住民は沿岸各地へと移住していった。
このとき、ほぼ現在の海岸線などの地形が出来上がったとされる。
やがて古代の低地地方にも中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした。
また、こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる。
北海南部沿岸はもともと海とも陸ともつかないような土地、氾濫原や湿原が広がっていたが、こうした高潮や嵐に脆弱な地域では、氾濫原や湿原には住み着かず人々は自然堤防となっている砂丘の背後の高台となっている沖積層や砂嘴に住み着いたのだが。
故に古代オランダの地はほとんどが海の底或いは湿地帯で居住には適さなかった。
というか、そもそもオランダの国土は氷河期の洪積層が北海に向かって徐々に潜り込むところに、氷河や川に運ばれた土砂が堆積してできたのだが、紀元前7世紀から海の浸食作用が目立ち始め、海水が陸地に入り込んで湾や海水湖を造ったり度重なる洪水で、土地を失うことが多かったのだ。
紀元前6世紀ごろになるとアーリア人系のケルト人がライン川を渡って到来・移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた。
このようなこともあり現在のベルギーは「古い土地にある、新しい王国」と言われる。
早くも紀元前500年ごろには、この地域の人々は満潮よりも常に高くなるテルプと呼ばれる人工的な盛り土の上に住居を構えるようになっていた。
このころにはまだゾイデル海はなく、天然の自然堤防である海岸砂丘の背後に低温であることと土砂の流入量が少ないことから多くが泥炭の堆積する湿原である後背湿地が取り残された為オランダ中央部にはフレヴォ湖と呼ばれる淡水の湖が存在していた。
しかし、泥炭層が多い北海沿岸では海水による浸食がはげしく、やがて陸地の縮小が起こっていた。
また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている。
バルト海から地中海へと通じる紀元前2000年頃にはすでにできていたケルト人がハルシュタット文明の
琥珀の道の西端の一部としてこの地はマイン・ライン川~ローヌ川経由で地中海世界に通じていたのだ。
紀元前後になるとローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた。
現在ベネルクスがある地域は、ローマ帝国時代には、北東部を指す古代ヨーロッパの地名である【ガリア・ベルギカ】と呼ばれ、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、北東フランス、西部ドイツにわたって存在した古代ローマのガリア属州である。
カエサルはベルガエに居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族(ベルガエ人:ゲルマン人とケルト人の混血の部族)と呼んだ。
紀元前にはこの地の北部にはバタヴィア人(ゲルマン系)など、
南部にはベルガエ人(ケルト系)などが居住していたのだが、それがカエサルのガリア遠征によって、南部のベルガエ人はローマに服属し、前15年には属州ガリア・ベルギカが置かれることとなり、こうしてネーデルラントの中間を流れるライン川がローマ帝国の境界となったのだ。
しかしライン川に面した地区であるため、元々はゲルマン系の部族と考えられているがそもそもベルガエ人が ガリア系かゲルマン系にルーツを持つのかは、実ははっきりしないのであるが。
カエサルは「元々はゲルマン系で、ライン川を渡ってガリアへ住み着き、土着のガリア人を追い出した」と記している。
ガイウス・ユリウス・カエサルによると【ガリア・ケルタエ】と【ガリア・ベルガエ】の境界はマルヌ川とセーヌ川であり、【ゲルマニア】と【ガリア・ベルギカ】の境界は、ライン川であったそうな。
なお、ベルギー王国は、実はこのベルガエの故地より名称を得ているのだった。
ローマはその土木技術が導入して治水工事、堤防工事などを行ったが
ローマ帝国滅亡後はその種の工事は行われなくなり、洪水や浸水が繰り返された。
中世紀に入り、海水面が上昇したことがこれに拍車をかけた。
1170年11月1日から2日にかけて、「万聖節の洪水」と呼ばれる北海の大洪水がオランダ北部を襲い、これによってフリースラント諸島南部のワッデン海が拡大し、フレヴォ湖は
この洪水によって海に開口し、海水の浸入によってゾイデル海となった。
こうした海進を食い止めるため、1200年ごろから、上記のテルプをつなぎあわせ、海岸沿いに堤防を建設して大きな居住地域を建設する動きが本格化した。
これに伴い、干拓堤防を建設して、その内側の低湿地を干拓し農地に変更することも盛んに行われるようになった。
歴史的には中世末期にいずれもブルゴーニュ公国の支配を受け、近世初頭にはともにハプスブルク家領に入っていた。
1814年から1830年の間にはウィーン会議の取り決めにより、現在の3国はネーデルラント連合王国として統合していた。
現在のベネルクスの分立が定まったのはさらに下って、ルクセンブルク大公国がオランダ王国との同君連合を廃止した1890年のことである。
この3か国はいずれも立憲君主制を採用している。
周辺の国に比べて国土が狭い(北海道よりやや小さい)という特徴があり、3か国すべてを合わせても、国土面積は隣国ドイツの1/5、フランスの1/9程度に過ぎないが、人口密度は非常に高い。
そのため、この3か国は大国に対抗するために緊密な経済協力を行っている。
3か国は共に欧州連合(EU)の加盟国であり、ブリュッセルやルクセンブルク市はEUの政治的な中心都市でもある。
▼オランダ:現ネーデルラント(低地地方)
国名および通称はオランダ語でNederland(ネーデルラント)。
これは「低地の国」「低地地方」を意味する普通名詞に由来する平野の西部のライン川河口付近は古来よりネーデルラント(低地地方)と呼ばれてきた為、このオランダは狭義のネーデルラントである。
そう、オランダとはアルプスを源流とするライン河、マース河、スヘルデ河の三角州(デルタ)にできた低地の国なのである。
これに対し広義のネーデルラントとは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に北フランスを加えた広い範囲を指す地名であり、ライン川、マース川、スヘルデ川などの下流にあたるので「低地地方」の意味がある。
現在ではネーデルラントは、より狭い地域に限定され、ホランド州を中心とした北部ネーデルラントのみを指し、正式国号の英語表記は Netherlands となっている。
なお、ライン・マース・スヘルデ三角州の河川ネットワークは運河等もあり大変複雑で、オランダの全ての河川は北海に流入しているのだが、
一部の川はアイセル湖に一旦流れ込んだ上で、最終的には北海に流入する。
オランダの国土は海側から海岸沿いの砂丘部、干拓地(ポルダー)、東部の高地である。
砂丘部は北海の高潮から国土を守る大切な働きをしている。
オランダはライン川下流の低湿地帯に位置し国土の多くをポルダーと呼ばれる干拓地が占め干拓を行うごとに地面が低下しこの現象は今(2010年代)も起きていて国土の1/4は海面下に位置する。
過去数世紀にわたり、一世紀当たり15〜20センチメートルも低下していると考えられてそして現在は海面水位が上昇するという温暖化の影響を受けている。
13世紀以来、干拓により平均して一世紀に350平方kmの割合で国土を広げて来た。
今日オランダの観光資源の一つとなっている風車は15世紀以降、産業革命の影響によりその役目を終えるまで主に干拓地の排水を目的に建てられていた。
1836年に大洪水が起こり、ハーレルマー湖が干拓され、スキポール空港が建設された。
1927年国土の中央よりいくぶん海よりに位置するゾイデル海を締め切り大堤防によって海から遮ることを目論んだゾイデル海開発計画が発動され6年の工事の末大堤防が完成。
以来ゾイデル海跡地はアイセル湖と呼ばれている。
内部には4つの干拓地が設けられ、大阪府の面積に匹敵する1650平方kmの耕地などが産まれた。
多くの干拓地が島のように密集して存在することからオランダは「千の島の国」(Het Rijk der duizend eilanden)と呼ばれていた。
オランダと言えば、そのシンボルが風車であるが、それは干拓地の造成に大活躍した。
堤防の内側の海水をひたすら汲み出し、干上がらせるために風力を使った風車は用いられ、また干拓後の水位管理にも使われた。
ヨーロッパでは地中海沿岸で12世紀ごろに見られたが、南西風の強いオランダでは13世紀ごろから小麦の粉ひきや、油絞りなどで使われるようになり、14世紀になると沼地、
特に泥炭を掘ったとの排水動力に使われ、さらに16世紀には風車のメカニズムの改良により一層広範囲な動力として、米の脱穀、煙草の製造、羊毛の圧縮、帆綱の材料となる大麻をたたくなどなど、あらゆる工業の動力として用いられた。
これがオランダの貿易の急速な発達とともに新しい需要を産みだした。
そればかりでなく、風のエネルギーを動力に変える風車のメカニズムは帆船と似たところがあり、風車の羽根に張る帆布、方向固定のための策具や滑車、動力伝達のための心棒や歯車は、帆船の不可欠の部品となった。
つまり、風車の技術は船舶技術に応用され、海洋王国オランダを支える技術となったのである。
●オランダ人:ダッチ、彼らは「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」と自負している。
オランダは、古くより他国で思想・信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄してきたという自負があるため、何ごとに対しても寛容であることが最大の特徴といえる。
大麻等ソフトドラッグの販売・所持・使用、積極的安楽死がいくつかの欧州諸国とともに合法化され、16歳以上でポルノ出演、性行為が適法とされ、互いの同意があれば12歳以上でも性行為は適法となった。
国の許可を得れば管理売春も合法である。(「飾り窓」と呼ばれる限られた地区でのみ合法的な売春が認められている)
事業を手がける場合には、各オプションについて賛否両論を比較検討し、メリットが上回れば、感情論は置いて決断する。
こうした決断はオランダに限らず北欧のプロテスタント系の国々に見られる合理主義が徹底されている。
その中でもオランダは、感情を超えて判断する以外にも禁止事項を避けることで、秩序を保つことに成功している経済大国と言えるだろう。
オランダは、江戸時代の鎖国下で欧州諸国で唯一外交関係を維持した国である。
1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。
1810年、オランダが皇帝ナポレオンの率いるフランスに併合され、
1806年にナポレオン皇帝は弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。
このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下に置かれることとなったが
ナポレオン戦争終結後、1815年にウィーン会議によってネーデルランド王国が成立。
つまりこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだった。
第一次世界大戦ではネーデルラント王国はどっち付かずの中立を維持したが、第二次世界大戦でも一方的に中立宣言をするも、無論ナチス・ドイツに占領された。
このためウィルヘルミナ女王の政府はやはりイギリスに亡命している。
第二次世界大戦時、1941年に太平洋戦争が勃発すると、12月8日に日本に対して宣戦を布告したため、日本はオランダの植民地であった蘭印(現在のインドネシア)を攻略し東インド植民地(オランダ領東インド)は日本軍に占領された。
この際、南方軍司令官の今村均大将はオランダ側からの、これまでの悪行に対する現地住民の報復から身を守るための武装許可の要請を受け入れ、哀れなオランダ人に拳銃携帯を許可している。
このことが、第二次世界大戦後、インドネシア独立の大きな要因となって、オランダは重要な植民地を失い、また戦中の白馬事件などの影響もあって、戦後は反日感情が強かった。
1945年の日本降伏後、オランダ軍のオランダ法廷は日本軍人をBC級戦犯として逮捕、拷問・処刑を行った
(アメリカ法廷・中国法廷を上回る226人の日本人を処刑、数千人を無期・有期刑で服役させた。
オランダ軍のホロコーストである。
これは連合国による対日裁判で最多の数となった)。
無論中には無実の者も当然含まれており、オランダの単なる報復行為であった。
何ごとに対しても寛容で、賛否両論を比較検討し、メリットが上回れば感情論は置いて決断する合理主義、
感情を超えて判断する以外にも禁止事項を避けることで秩序を保つことに成功している経済大国とは一体なんだったのか?
オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、その際に賠償請求権も一旦は渋々放棄した風に装ったが、やはりのちに裏で賠償請求を延々と続け、1956年には「オランダとの私的請求権解決に関する議定書(日蘭議定書)」において、ジャワで拘留された元捕虜や同国民間人に与えた損害(民間人の私的請求権)について日本から補償(見舞金36億円)を受けた。
2007年7月にアメリカ合衆国下院121号決議が採択されると、オーストラリアに続いて、11月20日にオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議が採択。
2008年8月、オランダ駐日大使のフィリップ・ヘルは参議院内集会において、最早真実などどうでも良い、そう実際に「強制があったかどうかということなど問題ではない」、金だ、兎に角金を寄越せ、と言う趣旨の事を述べ、なんでもいいから兎も角「日本政府が謝罪をするべきだ」と述べた。
▼ワッデン海:海岸の湿原
(オランダ語: Waddenzee、フリジア語: Waadsee、低地ザクセン語:Wattensee、
ドイツ語: Wattenmeer、デンマーク語: Vadehavet)は、北西ヨーロッパ大陸の一部と北海の間に横たわる水域とそれに関連する海岸の湿原の名前である。
オランダ・ドイツの北海沿岸の地で、北海の海岸に沿って断続的に連なり西・東・北の3諸島に分けられるフリースラント諸島によって北海から隔てられた海域(広大な干潟も含む)をワッデン海と呼ぶ。
オランダとドイツ、デンマークの3カ国にまたがった遺跡となっていますが、その正体は北西ヨーロッパ大陸の一部と北海の間に横たわる水域とそれに関連する海岸の湿原地です。
ワッデン海は潮の満ち引きで6時間ごとに海になったり、陸地になったりという不思議なサイクルを繰りかえす土地で地球最大規模の干潟といわれます。
1日4回繰り返されるこの現象は、砂底を耕すナゾの生物によってが守られています。
それ故、南西端のオランダのデン・ヘルデルから、ドイツの河口をいくつか越えて、北端のデンマークのエスビャウ北部のSkallingenまで、全長約500kmにわたって、約10,000 km²の面積に広がっているワッデン海の大部分は、ワッデン海の保護と保存のため1978年からオランダ、デンマーク、ドイツ政府の周辺3か国の協力で共に活動し保護されている。
陸と海が絶えずせめぎあうこの地にはゼニガタアザラシなど、豊かな動物相、鳥類相そして植物相で知られており、これらは1997年からは「三国間ワッデン海計画」により3国に守られています。
このワッデン海は、陸と海が絶えずせめぎあい、この地の干満のある広大な干潟やそれより深い溝そして群島に代表されるその地形の大部分が激しい潮流によって形成された。
現在のアイセル湖南部に当たる場所には大きな湖があり、ローマ人たちはフレヴォ湖と呼んでいた。
またフレヴォ湖と北海との間は多くの河川や湖の広がる湿地で阻まれていた為、後のゾイデル海よりも小さく、しかしフレヴォ湖畔のピート(泥炭)でできた柔らかい湖岸は波で浸食されやすかった為、中世までの間には湖は大きくなっていった。
中世にはフレヴォ湖の一部はフリー湖と呼ばれており、現在のフリーラント島とテルスヘリング島の間のフリー海峡付近に海への出口があったとみられる。
現在テセル島とデン・ヘルデルの間にある、北海とワッデン海を結ぶ海峡・Marsdiep も、当時はフリー湖と海とを結ぶ川のひとつ「fluvium Maresdeop」であった。
中世早期になると、海面の上昇と冬の北海の荒天によりオランダ北部海岸の砂丘や泥炭地が波で削られ始め、砂丘背後の湿地帯は海に変わり始めた為フリー湖も「Almere」(アルメレ)と呼ばれる入り江へと拡大したが、まだ大きな潟湖の域を出なかった。
この地に住んでいた西方系ゲルマン人の中でオランダとドイツの北海沿岸のフリースラントに居住していた民族フリース人の一部は、ワッデン海で伝統的なスポーツすなわち泥歩き(ワドローペン)のレクリエーション、つまり引き潮の海を歩き回ることを習慣的に行っていたという。
フリースラントには土質の安定した海成粘土質の土地が多く、紀元前5世紀頃には沿岸部に居住する人間が増加していった。
2000年前のローマ帝国時代には、オランダ北部の海岸線は現在の西フリースラント諸島付近にあり、その内側の現在はワッデン海となっている部分は湿地帯であったのだ。
また、この地はその由来ゆえ穀物の栽培はあまり盛んではなく酪農が農業の中心でフリージアン種のウシが飼われていた。
このフリースラントは時に「領主なきフリースラント」と言われ、封建制や領主制が定着せず、住民はいずれも自由身分の農民であり、当時の西ヨーロッパでは例外的な地域となっていた。
14世紀から15世紀にかけてのフリースラントでは私的武装組織が活動ししばしば私闘が行われたと言われている。
1524年にフリースラントは神聖ローマ皇帝カール5世によって併合され
長らく続いていた領主の不在は終わりを迎える。
その歴史ゆえフリースラントはオランダの中で最も遅れた地域の一つだったが、後の大堤防の建設によって中心地域との時間的距離が短縮され、急速な開発が進められることになる。
- 閑話休題 -
12世紀から13世紀にかけて海面の上昇は著しく、北ホラントを次々に襲った大嵐・高潮・洪水で海沿いの土地は水没し泥炭地は洗い流され、フレヴォ湖と海との間の河口も広がった。
1170年11月1日から2日にかけての「万聖節の洪水」(Allerheiligenvloed)では高潮が砂丘を乗り越え、海水が「Creiler Woud」と呼ばれる森林地帯を通ってフレヴォ湖に流れ込んだ。
この洪水で砂丘の後ろにはワッデン海が形成され、フレヴォ湖は「ゾイデル海」に変わり、波で流失した泥炭地や森林地帯が陸地に戻ることはもはやなかった。
1196年の聖ニコラスの洪水(Sint-Nicolaasvloed)では、1170年に開いた海峡が拡大し、フリースラント西部の広大な泥炭地が海へと変わった。
1212年には6万人が犠牲となり、1219年1月16日の聖マルケルスの洪水(Sint-Marcellusvloed)でも36,000人が犠牲になった。
1282年の大洪水で現在のテセル島付近の砂丘が破れ、ワッデン海およびゾイデル海は拡大した。
1287年12月14日にはさらに北海の嵐で低地に一気に海水が流れ込み、5万人から8万人の死者が出る惨事となった(聖ルチア祭の洪水、Sint-Luciavloed)。
この洪水で沈んだ土地のほとんどでは、その後海水が引くことはなく、そのままワッデン海あるいはゾイデル海の一部へと変わった。
西フリースラント諸島のGriend島は海中に没し現在ではわずかな砂州が海面に顔を出すに過ぎない。
ゾイデル海が拡大し北海とつながったことによりアムステル川沿いの漁村アムステルダムではゾイデル海を経て北海へ出る航路が開け、やがてバルト海交易路と結ばれる交易都市になるのだが。
▼ゾイデル海:オランダにかつて存在した湾。
幅50km、奥行100km、海岸線延長300km、面積5,000km2で北海からオランダ北西部へ向けて100kmほど入り組んだ平均深さ4~5mの浅い大きな湾であった。
オランダ語で南の(Zuider)+海(Zee)という意味を持っている。
これは北海(Noordzee)と対になった形でのフリースラント地方の命名によると言われている。
20世紀に入り、ゾイデル海開発で建設され1932年に完成した締め切り大堤防(アフシュライトダイク)により外海(北海の一部、ワッデン海)から切り離され流入河川(ライン川の分流アイセル川など)の水により次第に淡水湖化されて消滅した。
現在では、このかつてのゾイデル海の水域をアイセル湖と呼んでいる。
ゾイデル海は15世紀以降、海岸線に潮受堤防(ダイク)が築かれたことにより拡大を止めた。
しかしゾイデル海は、北海で嵐が起こるたびに南へと押し寄せる海水の影響で荒れる海へと変わり、
高潮や洪水が起こったり船が転覆したりした。
1421年11月18日の深夜から19日未明には北海の嵐の影響でゾイデル海の海面が上昇し潮受堤防が破れ、
低地にある72の村が沈み1万人以上が死亡した。
聖エリーザベトの日(11月19日)に起こったため、1421年の聖エリーザベト洪水(Sint-Elisabethsvloed)と呼ばれる(1404年の聖エリーザベトの日にゼーラントからフランドルにかけて起こった聖エリザーベト洪水と区別するため、「2回目の」あるいは「1421年の」と冠される)。
この洪水で沈んだ土地は、数十年後に干拓されるまで海のままであった。
ゾイデル海の沿岸には多くの漁村が建ちそのいくつかは海上交易を始め城郭都市へと変わっていった。
オーファーアイセル州のカンペンや、後に発達したホラント州のアムステルダム、ホールン、エンクハイゼンなどはその例である。
これらの街は最初はバルト海諸国やイングランド、あるいはハンザ同盟との交易を行っていたが、大航海時代には世界へと交易路を拡大し、オランダ植民地帝国の建設に貢献した。
しかしオランダの貿易が衰退すると多くの港町が漁業へと戻り、20世紀に観光業が発達するまではゾイデル海や北海での漁業が多くの街の主産業となっていた。
ゾイデル海の中には中世の洪水以前には本土の一部や半島であったりもっと大きな島であった4つの小島、
ウィーリンヘン島、ウルク島、スホクラント島、マルケン島があり、これらの島の住民も漁業で生計を立てていたが、波の浸食で年々面積が縮小することに悩まされ、スホクラント島は19世紀に住民が立ち退き放棄された。
これらの島は、20世紀後半までの干拓地の拡大によりすべて本土の一部となったか本土と道路でつながった。
20世紀前半には、北海の嵐からゾイデル海沿岸の土地を守り、また干拓地を拡大するために、ゾイデル海の出口を閉じる長大なアフシュライトダイクが建設された。
19世紀後半からゾイデル海を締め切るダム事業は構想されていたが議会で通らず、建設が承認されるきっかけになったのは1916年1月の大洪水であった。
長年建設を訴え続けてきた土木技師・政治家のコルネリス・レリの指揮下、1919年よりゾイデル海開発が開始された。
1932年のアフシュライトダイク完成後はゾイデル海は淡水化しアイセル湖となり、さらに湖内部に締切堤防が築かれウィーリンゲルメール、北東ポルダー、フレヴォランド東および南の4つのポルダー(干拓地)が誕生し、古代のフレヴォ湖にちなむ「フレヴォラント州」が新たに誕生した。
当初の計画ではマルケル湖(アイセル湖の南西部の水面)も干拓することになっていたが、この計画は2000年に無期限延期となり、1986年のフレヴォラント南ポルダー完成でゾイデル海開発は完了したことになる。
▼ゾイデル海開発:
オランダのゾイデル海をアフシュライトダイク(大堤防)によって北海から遮り、高潮被害防止と干拓事業を目的とした20世紀に行われた大規模な土木開発計画である。
1918年に定められたゾイデル海計画では、この開発の目的は次のようなものである。
・オランダ中央部を北海水位の影響から防護する
・新しい農地を造成することによる食糧増産
・内水排除を容易にする
ゾイデル海を北海から遮断する全長32kmのアフシュライトダイク
(大堤防)を建設する工事が始まったのが1927年であり、この時にゾイデル海開発が本格的に始まった。
大堤防は、北ホラント州とフリースラント州の両端及び中間地点に作られた2箇所の人工島から埋め立てが開始された。
ドイツから輸入した石材を海底から積み上げた。
使用された資材は、付近で容易に調達できる氷成粘土と砂、補強材としての玄武岩や植物繊維マットなどである。
建設は予想より順調に進んで1932年5月28日に「締切堤防(スロッタ・ダイク)」が完成し、外海から隔離されたゾイデル海は淡水化されアイセル湖となった。
この堤防は、高さ7.8メートル、幅90メートル、長さ約30キロメートル。
その後、2箇所の複合閘門(閘門と締切水門)及び堤防上の高速道路が建設され、1933年9月にアフシュライトダイクに関する全ての工事か完了した。
アフシュライトダイクの建設と平行して、最初の干拓地である北ホラント州のウィーリンゲルメール干拓地が1929年に全長18kmの堤防が締め切られて排水を開始し、1930年8月に排水を完了している。
次に行われたのはフレヴォランド州のフレヴォランド北東干拓地の干拓事業で、1940年に全長55kmの堤防が締め切られ、1942年9月に排水を完了している。
最後に行われたのがフレヴォランド干拓地の干拓事業で、東干拓地と南干拓地の2工区に分けて干拓された。
フレヴォランド東干拓地は1956年に全長90kmの堤防を締め切り、1957年6月に排水を完了している。
またフレヴォランド南干拓地1967年に全長70kmの堤防を締め切り、1968年に排水を完了している。
5番目の干拓地としてマルケルメール干拓地が計画されていたが、2000年に計画が正式に破棄されたため、ゾイデル海開発は1986年に完全に完了したことになった。
アフシュライトダイク(締切り大堤防)が全長32Kmなのに対して、ハウトリブダイク(ハウトリブ堤防)は全長30Km。
こちらもずいぶん大きな堤防で、堤防の上は無料の高速道路。
このハウトリブダイクは北側の湖(アイセル湖)と南側の湖(マイケル湖)を区切っています。
二つの湖はもともと一つの海だったそうです。
右手がアイセル湖(IJsselmeer) この湖、広さは琵琶湖の2倍もあるのに深さはたったの5~6m
▼締め切り大堤防(アフシュライトダイク):
オランダ北部にある世界最大の堤防で、アイセル湖と北海(ワッデン海)を仕切るためのものである。
オランダ語の名称は、"Afsluit"(閉鎖、締め切り)と"Dijk"(堤防)という二つの単語から成り立っていて、
日本語名称もそこから来ている。
この堤防は、ゾイデル海開発プロジェクトの一環であり、かつてゾイデル海(湾)であったアイセル湖を、
外海である北海(厳密には北海に繋がっているワッデン海)から仕切っている。
淡水化し水位を下げたアイセル湖の4箇所では以下の大干拓地が造成された。
・北ホラント州のウィーリンガーメーア(Wieringermeer)
・フレヴォランド州の北東ポルダー(Noordoostpolder)、
・東フレヴォランドと
・南フレヴォランド
(現在のアルメレ、レリスタット、ドロンテン、ゼーヴォルデの各基礎自治体)である。
堤防の南西端は北ホラント州のヴィーリンゲン基礎自治体、
東北端はフリースラント州のウォンセラデール基礎自治体である。
▼アイセル湖:フレヴォ湖(淡水湖)に→海水が流入・ゾイデル海に→大堤防でアイセル湖に分断
オランダの北ホラント州とフレヴォラント州・フリースラント州の間にある湖。
広さは約1250 km²で深さは5~6mと浅く、標高は海面下6mである。
13世紀まではフレヴォ湖という淡水湖で、周囲は泥炭地であったが、海面上昇や高潮、洪水などにより海水が砂丘を破って侵入したためゾイデル海と呼ばれるようになった。
20世紀になって高潮被害防止と干拓事業を目的としたゾイデル海開発により建設されたアフシュライトダイク(大堤防)によって、海から切り離され出来たのがこのアイセル湖である。
その後、ヴィーリングメール干拓地・フレヴォラント干拓地・フレヴォラント北東干拓地が造成されるとともに湖の面積が縮小し、将来の干拓予定にしたがって造られたハウトリブ堤防によって湖は南側のマルケル湖と2分割され現在に至っている(ただし干拓計画は2000年に破棄された)。
▼マルケル湖:元アイセル湖の南側部分
オランダの北ホラント州とフレヴォラント州の間にある湖。
かつてこの湖はゾイデル海の一部であったが、高潮被害防止と干拓事業を目的としたゾイデル海開発の主要事業で、1933年に完成したアフシュライトダイク(大堤防)により
淡水湖となったアイセル湖の南側部分である。
マルケル湖は当初の計画では干拓地になる予定であり、1975年に完工したハウトリブダイク(ハウトリブ堤防)によって北側のアイセル湖と隔てられて出来たのが、このマルケル湖である。
しかしこのマルケルメーア干拓計画は2000年に計画が完全に破棄された。
湖の名前は、南西部にある小さな島であるマルケル島に因んで名付けられた。
▼デルタ計画:またはデルタ整備計画
オランダ南西部、ライン川下流のワール川河口の三角州(デルタ)地帯でを高潮から守るために作られた
ダム・堤防・水門・閘門などの一連の治水構造物建設およびその計画である。
ライン川、マース川、スヘルデ川の河口に形作られた三角州は、何世紀もの間洪水に悩まされてきた。
ゾイデル海開発でのアフシュライトダイク(堤防)が1933年に完成しオランダ中央部の治水対策が一定進んだ事に伴い、次にライン川とマース川の河口三角州の治水対策が計画された。
1953年2月に発生した北海沿岸大洪水を契機として委員会が発足し、作成されたのがデルタ計画(当時の呼び方は Deltaplan)である。
この計画の主なものは、スヘルデ東部地域と呼ばれている三角州地帯の河口部を全て塞ぐ事により、内水域で必要であった総延長640km堤防の嵩上げが不要になった事である。
なお、主要港湾を擁するロッテルダムとベルギーのアントウェルペンへ通じる水路のみはふさがれずに、
流域の堤防嵩上げと防潮可動堰の建設が行われた。
1997年にマエスラント可動堰が完成し、13箇所の治水構造物の建設計画が全て完工した。
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