第34話 現実:地理-テムズ川、ライン川(60万年前の更新世の氷河期 テムズ川とライン川は、かつて繋がっていました)

 テムズ川と北海をはさんで対岸にライン川があるが、実はよく見れば河口の位置はほぼ同じ位置であり、そして互の向きは対称に向き合っている。

これはただの偶然ではなく、それには因果があった。



▼ライン川:ラインは長いよ、どこまでも。説明だけで延々と……

 ライン川(阿:Rhy、巴 / 独: Rhein、蘭: Rijn、仏: Rhin、英: Rhine、羅: Rhenus)は、ヨーロッパを流れる川。


●ブルーバナナ:ライン川流域圏

 ライン川はドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する欧州の代表的な国際河川の一つで下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。

バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版。

 西ヨーロッパにおいて特に経済的、人口的に発展しているバナナ型の地帯のこと。

 「青」というのはEUの旗の色として、また、伝統的にヨーロッパを示す色として青が使われてきたことに由来する。)の一部を成す。


 ライン川は古くから沿岸地域の交通の大動脈であり、現代においてもその役割は非常に大きい。

河口から上流のシャフハウゼンまでは全く滝がなく水量も多いため、

そこまでの全域で船舶の航行が可能である。

これは古代からそのままであり、ローレライなどの難所はあるものの古くからこの地域の大動脈としてライン川は機能してきた。



●ライン川の河口は三角州地帯:故にナイル川デルタと同様な低地地方(ベネルクス3国)

 全長1,233km。そのうちドイツを流れるのは698kmである。


 ライン川はスイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルクなどを通過し

オランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。


 そう、ライン川の河口はオランダにあります。

オランダはアルプスを源流とするライン川、マース川、スヘルデ川の三角州、ライン・マース・スヘルデ三角州にできた国で、まさに低地の国である。


 元々オランダの国土は氷河期の洪積層が北海に向かって徐々に潜り込むところに、氷河や川に運ばれた土砂が堆積してできたものです。

紀元前700年頃から海の浸食作用が目立ち始め、海水が陸地に入り込んで湾や海水湖を造ったり、度重なる洪水で土地を失うことが多くなった為現在のライン川の三角州地帯オランダは国土の半分近くが海抜1m以下の土地が広がっています。


 国土が海面より低いため、オランダは大雨、高潮による洪水の被害を受けやすい地域です。

そこで大規模な堤防を作って、洪水を防いだり、偏西風によって回転する風車によって水を排泄しています。

(オランダ(正確にはネーデルラントで、低地の意味)は現在でも国土の約30%は海面より低く、また国土の20%以上は、13世紀以降の干拓事業によって「自力で造り出された」土地で彼らは「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」と自負しているのである。)


 現在オランダのポルダーと呼ばれている干拓地はあまり深くない湖沼や入り江の水を「締め切り堤防」でせき止め中の水を汲み出して干あがらせる方法をとり、地下水の水位が人工的に調節、管理されており、水位が上がると堤防の外側の水路に排水されるようになっている。


 このような干拓によってオランダは国土を広げたため、国土の1/4が海より低くなっています。

なぜなら三角州地帯は一般的に平坦で低い土地なのですから。



 ライン川は北海に流れ出る河川の中では珍しく三角州を形成しています。

本来ヨーロッパはウラル山脈、ヘルシニア山系などの古期造山帯を源流とする川が多いので、三角州は形成されにくい地域ということになります。

しかし、例外的にライン川は新期造山帯のアルプス山脈から流れてくるため、土砂が豊富に流れてきて河口部にもりもり堆積し三角州を形成しています。


 そう三角州は川によって運ばれた土砂が河口付近に溜まってできた地形です。

川によって運ばれた土砂によってできる扇状地がありますが別物です。

扇状地は山から平地になる地域に土砂がたまり、三角州は河口付近に土砂がたまって形成されます。


 三角州はデルタとも呼ばれます。

それはギリシャ文字のデルタ「⊿」に形が似ているからです。

例えばドナウ川の三角州をドナウデルタと言うこともできます。

ドナウ川にも三角州があるんですね。

*ドナウ川は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。

東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。


 地理学上のドナウの源泉は本流であるブレク川の源泉であり、

この「ブレクの泉」より100mほどの場所にあるエルツ川の源泉はライン川に合流する。

ライン川は北海に注ぎ、ドナウ川は黒海に注ぐので、この2つの泉の水が出会うことはない。

同じく近辺にはいくつかの小さな支流の川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。これらの境界はヨーロッパの分水嶺と呼ばれている。


 ライン川はドナウ川に次ぐ流量を誇り、中・下流部は古来南ドイツからバルト海に至る水路として重要な役割を果たし、父なるダゴンと母なるヒュドラのように、ライン川とドナウ川も父なるライン川、母なるドナウ川と呼ばれます。



・詳細:

●【前ライン】Vorderrhein

 トーマ湖~ライヒェナウ(スイス)[オーバーランド線側]

●【後(奥)ライン】Hinterrhein                  

 ベルナルディーノ地方~ライヒェナウ(スイス)[アルブラ線側]

●【アルペンライン】Alpenrhein

 ライヒェナウ(スイス)~ボーデン湖 

●【高ライン】Hochrhein      

 ボーデン湖~バーゼル

●【上ライン】Oberrhein

 バーゼル~ビンゲン

●【中ライン】Mittelrhein

 ビンゲン~ボン 

●【下ライン】Niederrhein          

 ボン~オランダ国境 

●【河口域デルタライン】Rhein-Maas-Delta        

 オランダ国境~北海 


●【前ライン】●【後ライン】

 ライン川は、スイスのグラウビュンデン州に属する源流域、

トーマ湖から流れ出るライン源流フォルデルライン(前方ライン)は

南のラインヴァルトホルン山から流れてくるもう一つの源流、ヒンターライン(後方ライン)とライヘナウで合流する。


●【アルペンライン】

 ライヘナウで合流してからボーデン湖へと流れ込むまでがアルペンラインと呼ばれる。


●【高ライン】

 ボーデン湖は広い上湖と小さな下湖に二つに分かれその下湖西端のシュタインからボーデン湖を出て間もなく激流となり、ライン本流唯一の滝であるライン滝へと一気に流れ込み

大型船舶が通航できるライン川最上流の港を持つ最終遡行地点にして

スイス唯一の国際貿易港バーゼルへと向かうまでの区間、ここまでの区間をホッホライン(高ライン)という。

この区間の中央部に位置するライン滝より下流は海まですべて船舶の航行が可能である。


 またバーゼル市の北端のライン川の中央部にスイス・ドイツ・フランスの三国国境地点があり、この三国国境の記念碑ドライレンダーエックが

そこから南東に約150メートル離れたスイス領の陸地バーゼルに建てられている。


●【上ライン】

 故にバーゼルからライン川はフランス領のアルザスとドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州との間の国境をなす。


 バーゼルの少し北で、ライン川はアルザス大運河と接続する。

このアルザス大運河はライン川の西に並行して北流し、マルヌ・ライン運河へと接続してパリなどセーヌ川水系水運とつながる。


 またこの運河はミュルーズでローヌ・ライン運河と接続し、ローヌ川水系へと接続してリヨンや地中海とつながっている。

マインツでライン川はマイン川と合流するまでが上ラインと呼ばれる。


 なお、マイン川をさかのぼると、

1992年に開通したライン・マイン・ドナウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみで行くことも可能である。


●【中ライン】

 マインツからボンまでは中ラインと呼ばれる。

この地域は丘陵に囲まれた中を流れ、特にマインツ盆地の終わるリューデスハイムおよびビンゲンから

モーゼル川の合流するコブレンツまでの間は「ロマンチック・ライン」とよばれ、風光明媚なことで知られている。

このロマンチック・ラインの区間には、ネコ城など多くの古城があり、

また中ほどには難所として知られたローレライがある。


●【下ライン】

 ボンから下流になると丘陵は姿を消し、広々とした平野の中を流れるようになる。

ここから河口までを下ラインと呼ぶ。


 この下流域には、ケルン、レーヴァークーゼン、デュッセルドルフを中心とするルール地方の諸都市といった大都市が集中し、工業地帯となっている。


●【河口域デルタライン】

 河口域オランダ領に入るとすぐライン川はいくつもの支流に分かれ、

網の目のようにオランダ南部に水路を広げる。


 もっとも大きな支流はワール川であり、その他北のアイセル湖へと流れ込むアイセル川、ネーデルライン川が三大支流である。

ネーデルライン川はさらにクロメ・ライン川、レク川、ニューウェ・マース川など多くの支流に分かれる。


 中世、ゾイデル海がまだ存在しなかった、つまりフレヴォ湖であった時代、アイセル川はフリー海峡へと流れ込んでいた。

その後、ゾイデル海が出来、アイセル湖が出来ると、アイセル川がフリー海峡に流れ込む事は無くなった。

現在干拓されているメーデムブリク周辺やアイ湾周辺はかつてアイセル川の支流だったのではないかと言う説がある。


 そうアイセル川はかつて(現在はドイツにまで至り70kmの長さを有する)旧アイセル川の下流であった。

ライン川とアイセル川の間の水路は人工物であると思われ、恐らくローマ帝国時代に大ドルススがゲルマン民族に対する防衛線とするため、

そして船でローマ軍を輸送出来るようにするために作らせたものではないかとされている。


 旧アイセル川はかつてライン川の支流であった。

かつての旧アイセル川は現在のそれより南西側を流れていたが、次第に北東方向へとその場所を転じていきライン川がドイツで氾濫し堆積が起こった結果、アイセル川は誕生した。


 その後、ローマ帝国時代にライン川との間に水路が掘削されたことにより、その合流地点であるドゥースブルフより上流域は別の河川として扱われるようになり、旧アイセル川と呼ばれるようになり現在に至っている。


 ワール川もまたいくつもの支流に分かれ、南から流れてきたマース川の支流と合流・分離を繰り返す。


 河口近くのゼーラント州付近のライン川はしばしば大氾濫を起こし、また北海の高潮でも大被害を受けることが多くあったが、1953年の大洪水を機にライン川・マース川・スヘルデ川の三角州地域の河口をすべて塞いでしまう、デルタ計画と呼ばれる大治水工事が1958年に開始され、1986年に完成した。



●ローマ帝国領の境界:ライン川-マイン川からドナウ川へとつながる長城

 古くはライン川を境界として、西岸はケルト人、東岸はゲルマン人が主に居住していたが、しかしユリウス・カエサルのガリア侵攻によって西岸はローマ帝国領となり、ライン川はローマとゲルマンの境界となった。


 彼を継いだローマ皇帝アウグストゥスはライン東岸へと侵攻したものの、9年にトイトブルク森の戦いにおいてローマ軍は敗北し、帝国の前哨線はライン川へと戻り、以降ローマ領が流域北部においては東岸に広がることはなかった。


 しかし、流域南部においては83年にドミティアヌス帝がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。


 これによってライン中・上流域ではリメスが前進し、ライン両岸がローマ帝国領に入った。

ローマ帝国はライン西岸に国境警備のための砦や駐屯地として都市を数多く建設し、これらの都市にはローマ文化が定着した。ケルン、コブレンツ、マインツなどはこの都市が元となって現在まで存続した都市である。


 こうした都市は川の対岸のゲルマン人たちとの交易を経済基盤としていた。

各駐屯地の軍によってライン川の河川航行も安全を保障され、ライン川は交易路としても利用されるようになっていた。


 このようにライン川は古くから沿岸地域の交通の大動脈であり、またライン川に合流する支流も多数存在するのだが、北海が陸地だっ時代、すなわち古代氷河時代にまで遡ればさらに無数の支流がライン川に合流していた。

その中の一つがテムズ川である。



▼現代のテムズ川:失意の中にあった喧嘩男はテームズ川に身を投げ自殺を図ったと言う

 テムズ川(River Thames En-uk-Thames.ogg )は、南イングランドを流れる川であり、ロンドンを海とつないでいる。

代表的なエスチュアリーの入り江をつくる河川である。テームズ川とも表記される。


 ルネサンス期にギリシア語が語源であるという誤った認識が広まり、

読み方を変えずにTemeseからThamesに綴りが変更されている。


 ロンドン市内よりさらに上流、河口から90kmの距離まで、北海の潮汐の影響を受ける。

ロンドンはローマ帝国支配下の紀元前43年に満潮時に潮が達した地点に築かれたという逸話があるが、2000年ほどの時間の間にさらに上流まで遡るようになってしまっている。

ロンドン市内では、水は海水と混ざり少し黒い色をしている。


 イギリスのテムズ川は、南イングランド地域を流れる総長346キロメートルの長さを誇る河川で、この川の源流はコッツウォルズの丘近辺のグロスターシャーに源泉があります。


 そしてそこのケンブル村の源泉を起点とし、このテムズ川は大まかに言えばオックスフォード、レディング、メイデンヘッド、ウィンザー、そしてロンドンの街を流れ、最後はロンドンの市街地で海に流れ着きます。


 このテムズ川の名前の由来は、

太古の昔よりこの地域に住んでいたケルト民族がこの川を名づけた名前を、そのままこの地域をかつて収めたローマ人が使用し、この名前が定着したと言われています。

そして今も昔もこの川は、この地域の人々にとって経済繁栄の象徴とも言える川です。


 この河川は、ただ市街地を流れるというだけではなく、近隣の郡の目印と境界線としても使われています。



▼太古のテムズ川:十万年前ネプチューン・キングはテームズ川へ自殺を図ったように見せかけた

 今から60万年前の更新世の氷河期の時、47万5千年前のアングリカン氷河作用により大きく地形が変えられる前のテムズ川は、ウェールズからクラクトン・オン・シーを通り、現在では北海となっている地域を通りライン川に流れ込む支流の1つであったという。



 この川の起源は、遥か60万年前の更新世の氷河期までその歴史をさかのぼると言われています。

テムズ川はかつての氷河期にその大本が形成されました。


 47万5千年前のアングリカン氷河作用により大きく地形が変えられる前の太古のテムズ川は、ウェールズからクラクトン・オン・シー(エセックス州)を通り、かつては当時ドッガーランドという陸地で本土とつながっていたため、現在では北海のドッガーバンクとよばれる浅瀬の広大な砂堆地域を通り、

ライン川に流れ込む主流の1つでした。


 当時は、テムズ川とライン川が合流し北海南部に流れていたのです。

そして45万年前ほど前に氷河期が終わりだすと、おおよそ現在の形へとほぼ落ち着いた。


 バッキンガムシャ州を通りハートフォードシャ州の南、エセックス州(現在ではステインズと呼ばれている地域)、コルネ谷を通って、ハットフィールド、そして東にエセックスを横切り、太古のライン川に流れ込んでいた。


 後に現在のレア川となる谷を侵食した氷により、現在の河口に流れ込むようになった。

しかし、この流れもまたハットフィールド近辺で巨大な氷によってふさがれ、セント・オールバンズの西まで到達する巨大な氷河湖となる。


 この湖はステインズ近くで流出し、現在のロンドン中心部を通る現在の流れとなった。

40万年前に氷河期が終わると、テムズ川は現在と同じ流れを通るようになった。

コルネ谷の流れは逆になり、南にテムズ川の支流として流れ込むようになったのだ。

太古のテムズ川が残した川砂利をセント・オールバンズ谷のいたるところで見ることができる。


 そうこうしているうちにブリテン島は寒気の影響で大陸から歩いてくる移住者集団によって入植されることになるのである。


 やがて、紀元前6000年頃に海水面が上がり極地を覆っていた氷冠は溶け始め海が上昇、現在のイギリス海峡が海水で満ち低い平原は北海と化し、イングランドが島になった。


 紀元前4000年頃には、イングランドに移住した人たちがテムズ川流域の住民になり、テムズ川によって拡散・拡大していった。



●シティ・オブ・ロンドン:ロンドンロンドン楽しいロンドン愉快なロンドンロンドンロンドン


 現在のヨーロッパと呼ばれる地域に、もともと住んでいたのはケルト人でしたが、やがてローマ帝国が勃興し、次々と領土を拡大していきます。


 そして、ケルト系ブリトン人が住む「ブリタニア」にも、ローマ人が侵略を始めます(紀元43年頃)。

このローマ人によるブリタニア侵略のときに、テムズ川に橋が架けられることになります。


 本来の「シティ」の始まりは、このローマ人による侵略の際に、テムズ川に橋を架けて、南北のローマ人居住地を行き来できるようにしたことによるものでした。


 人類の記録に残されている限りでは、ケルト民族の例に倣い、ローマ人も川をテムズ (Tamesis) と呼んでいる。


 なぜならこのテムズ川が人の歴史の中に最初に確認されるのは、ローマ人が現在のロンドンに入植してきた時代の紀元前であり、ローマの政治家で貴族であったガリア戦記を書いたカエサルあのジュリアス・シーザーやタキトゥスがこの川をガリア戦記に書き残しているからだ。


 しかしリチャード・コーツという研究者は、実際にテムズ川と呼んでいた地域は現在より上流の川幅が狭い場所であり、歩いて渡ることが出来ないほど広い下流ではプロワニダ (Plowonida) と呼んでいたと推測している。


 なお、プロワニダという名称はケルト以前のヨーロッパ語、プルウ (plew) とネイド (nejd) という2つの言葉からなっていて、流れる川、あるいは広く流れ渡ることのできない川という意味らしい。


 紀元50年頃に、このプロワニダ川の北岸に新しく拠点として作られた居住地である集落は川から名前を取って「ロンディニウム」 (Londinium)(現在のロンドン) と名づけられその他いくつもの都市を築いた。

「ロンディニウム」とは、ケルト民族の言葉で「沼地の砦」を意味しています。


 この居留地が、非常に重要な交通の要所であり、商業地区として発展していくことになるのですが、この「ロンディニウム」こそが、その名が示す通り「ロンドン」の原型であり、

イングランドのロンドン中心部に位置する地区「シティ・オブ・ロンドン」となっていくわけで、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域、その範囲は中世以降ほとんど変わっていないのです。


 イギリスの首都であるロンドン、正確に言うと「グレーター・ロンドン」と呼ばれる行政区域、そのど真ん中に位置しているのが「シティ・オブ・ロンドン」で、その他32の特別区を含む範囲としてそう呼ばれますが、実は、ここでも「シティ・オブ・ロンドン」は例外的な存在となっています。


 単にシティ(the City)、またはスクエア・マイル(the Square Mile)とも呼ばれ、シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行し、2000年に再設置された大ロンドン庁のロンドン市長(Mayor of London)とは異なり、この自治体の首班はロンドン市長(Lord Mayor of London)である。


 - 閑話休題 -


 やがて属州ブリタニアはローマの衰退とともに衰え、409年についに撤退しました。

なおローマ時代の遺跡にはハドリアヌス帝が北方のケルト人の侵攻に対する防衛のために築いた長城などがあります。


 その後5世紀のゲルマン人の大移動の時期には大陸からゲルマン人の一派アングロ=サクソン人が移住を始め、6世紀ころまでにはブリテン島の南西部に定住し、ケルト系ブリトゥン人とも同化し、この地はアングル人の土地という意味の「イングランド」と呼ばれるようになる。


 そう5世紀後半から6世紀初めといえば、ライバルであるフランスが国の象徴としてカール大帝を持ち上げたことに対抗して、イギリスではアーサー王は自国の象徴として持ち上げられたあのブリトン人の君主アーサー王の時代である。

中世の歴史書やロマンスでは、アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物とされる。

 

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