現実−地理

第28話 現実:地理-ナイル川流域-河口:ナイル川デルタ〜ナイル川源流:(ヴィクトリア湖) 〜 ヨーロッパ人の冒険 〜

▼ナイル川流域:

 ナイル川流域、特に下流のエジプトは、世界で最も古い文明の興った土地の一つとして知られている。

エジプト語では大きな川という意味のIteruと呼ばれた。


 ナイル川は世界最長の川であり全長6690km。

ヴィクトリア湖から流れる白ナイルとエチオピア高原から流れる青ナイルがスーダンのハルツーム付近で合流し、砂漠地帯を北流してエジプト国内を南北1545kmにもわたって北上する。


 第一急流アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが幅は5kmほどとさほど広くない。

だがナイル河谷は、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。


 なお、源流の一つであるヴィクトリア湖が現在のナイル川水系に接続されたのは1万2500年前であり、それは最終氷期の終わった影響により水位が26mも急激に上昇した為で、それまで閉鎖湖だったものが北のナイル川水系へとあふれ出した為であり、実は割と最近の事なのである。

なお、その後も気候変動により湖の水位は上下を繰り返した。


 もっともヴィクトリア湖自体は代表的な古代湖であり、およそ100万年の歴史を持つ。


 ヴィクトリア湖の形成は、東西に挟まれたの大地溝帯(グレート・リフト・バレー)が原因であると考えられている。


 グレート・リフト・バレーは、約1000万~500万前年から地表が隆起し始めたと考えられているが、ちょうどヴィクトリア湖の両側に隆起が発生し、その間が陥没することで湖ができた。

つまりは断層運動によって両側が断層崖となり、結果断層でかこまれた地塊が沈降してできた断層盆地であり、京都盆地や奈良盆地などもこれに当てはまる。


 故にビクトリア湖は琵琶湖・諏訪湖・シベリアのバイカル湖・アフリカのタンガニーカ湖などの断層湖

(陸地の裂け目に水がたまって形成された地溝湖)ではなく、曲降盆地湖であるので注意。


 ナイル川源流を探ることは古代より行われていたが源流は不明のままであった。


 古代ギリシアの地理学者は長い間ナイル川の源流について関心を抱き、

源流を探すための探検が何度か行われた。


 紀元前6世紀ごろ、ギリシア人が多くエジプトを訪れ、紀元前5世紀にはヘロドトスがナイルの源流を自分で確かめようとしてアスワン近くのエレファンティーヌ島まで遡った。


 紀元前3世紀にはプトレマイオス王朝が紅海を経由したエリトリア・ソマリア沿岸との交易を始め、またプトレマイオス2世ピラデルポスが

ダリオンやアリストクレオンにエチオピアを探検させたことにより、紅海から眺められる山脈のどこかにナイルの源流があることが分かり始めた。


 第5代ローマ皇帝ネロも純粋な探究心から二人の百人隊長に命じて探検を行わせた。

セネカによると「恐ろしい勢いで水が落下している二つの岩」まで行ったという。


 一方で、ネロの養父の時代より後の時代、インドとの交易に携わっていたディオゲネスという商人が、アフリカ沿岸を25日間南方に漂流,東アフリカ沿岸の交易地ラプタあたりに漂着。

そこから内陸に向かって旅をして、ナイル川の源流を発見したと報告したという。


 南に大きな山並みが見える二つの大きな湖の近くまで行ってそこから見える東西約800キロメートルにわたって伸びるその山脈は、白い万年雪を戴いていることから現地住民により「月の山脈」と呼ばれていた。

その月の山脈から始まる始まるいくつかの川が二つの大湖に流れ込んでおり、湖からそれぞれ北に向かって流れ出す二本の川が合流してナイル川となるというのだ。


 エジプトのアレクサンドリアで活躍した古代ローマ、2世紀の地理学者クラウディオス・プトレマイオス

(その著書『ゲオグラフィア』に収められている地図は、世界で初めて経緯線を用いた物であり、古代の人々の地理に関する知識を集成したものである。

しかしながら天文観測等のデータがあまり正確な物ではなく、地球の周長を実際の7割ほどの大きさと計算している。

この地図は、約1,000年後の大航海時代にも影響を及ぼし、クリストファー・コロンブスは「東よりも西方に航海したほうがアジアへは近道である」と考えてアメリカ大陸を発見する事になる。)をはじめとする古代ギリシア・ローマの地理学者はこれを真実であるとした。



「最暗黒のヨーロッパ」の「未開の野蛮なヨーロッパ人の到達」


 近代に入ってから、ヨーロッパ人はナイル川の水源探索を再開した。

16世紀ごろからエチオピアとヨーロッパとの交流が始まるにしたがって

青ナイル周辺の地理は判明し始め、

615年にはポルトガルのイエズス会の修道士であるペドロ・パエスがタナ湖を発見している。

1770年にはスコットランド人の探検家ジェームズ・ブルースが探検を行い、彼によって青ナイル川の源流がタナ湖であることがヨーロッパ人にも知られるようになったが、白ナイル川については不明のままであった。


19世紀中盤に入るとヨーロッパ人のアフリカ支配権を掛けた探検が盛んになり、ナイル源流の探索もその主要なテーマの一つとなった。


 「王立地理学協会」と『イギリス外務省(お察し!)』の指示を受けたイギリス人の探検家ジョン・ハニグ・スピークは、リチャード・フランシス・バートンとともにナイル川の水源を探す探検を行い、タンガニーカ中央部のカゼ(現在のタボラ)にたどり着く。


 ここで二人は、北にニアンザ湖、西にウジジ湖と呼ばれる大きな湖があることを聞いた。(ここ、大事!!)


 二人はまず西から探検を進めることとし、1858年2月13日にウジジ湖(タンガニーカ湖)を「発見」(笑)した。


 その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残った同行者(バートン)を置き去りにしてスピークは一人探検を進め、1858年8月3日、ムワンザでニアンザ湖(ヴィクトリア湖)を「発見」(爆笑)した。


 この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。

世界第3位、アフリカ1位の湖水面積を誇ると言う。


 もっともイギリスのヴィクトリア女王の夫、アルバート公に因む

「アルバート湖」の方は世界第27位、アフリカで7番目の広さである。


また子のエドワードからエドワード湖、孫のジョージ5世からジョージ湖など周辺の他の湖は同様に英国王室にちなんだ名前が付けられている。



 しかし、湖がナイル川の水源である事は確認できなかったため、ナイル川の源流については意見が合わず、

勝手に公表をしないように両者で申し合わせが成立した。


 だが、スピークは抜け駆けするためバートンより先にイギリスに戻り、

1859年5月8日に2人の冒険について王立地理学会で講演し、ヴィクトリア湖がナイル川の水源であると主張した。


 これは大反響を巻き起こしたが、ナイル川の水源であると立証できず

タンガニーカ湖がナイル川の源流でないと是が非でも困るバートンと、

ヴィクトリア湖がナイルの源流であると権利を主張するスピークの大論争が勃発。


 この論争に決着をつけるべく、スピークは再びヴィクトリア湖探検を企て、ジェームズ・オーガスタス・グラントとともに1860年9月にザンジバルを出発し、西へと向かった。


 途中病に倒れた同行者(グラント)をまたもや見捨て彼をその場に残して奴はさらに探検を進め、1862年7月28日、ヴィクトリア湖北岸のジンジャから大きな川が北へと流れ出していることを確認した。


 スピークはこの流出地点にある滝をおべっかついでに当時の王立地理学協会会長の名を取って「リポンの滝」と名づけ、これで謎は解明されたと考えて帰路に着いた。


 がしかし、流路を完全に確認したわけではなかった片手落ちの調査のため、論争はなおしばらく続くこととなった。


 故に1864年9月には両者の討論会が予定されていたが、その前日になぜかスピークは『銃の暴発事故』で不幸にも死亡してしまう。

この死には不明な部分が多く、

さらに論争の一方の当事者が死去してしまったことからナイル源流論争はさらに混乱した。


 その上、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻が1864年3月14日にアルバート湖を発見し、1866年にその結果を発表したため、混乱は頂点に達した。


 時代はわずかに遡り、19世紀半ば、タンガニーカ湖とインド洋沿岸の中間地点近くがミランボ王のもとで統一され、両地域間の交易を担うようになった。


 またこのころになると、海岸部のザンジバルのオマーン王国が交易を奨励したことから、従来海岸部にとどまって内陸諸民族から交易品の供給を待っていたアラブ人商人が直接内陸部へと進出して交易に乗り出すようになり、ティップー・ティプなどの奴隷商人がこの地域に進出するようになった。


 リンガフランカとしてスワヒリ語が湖岸全域に徐々に広まりだしたのもこのころのことである。


 この両勢力間の間には対立もあったが、やがて1876年には通商協定が結ばれて共存が行われた。


 タンガニーカ湖畔へのキャラバンの主な出発地はインド洋に面したバガモヨで、ここからまっすぐ西へと向かい、ニャムウェジ人の本拠であるカゼ(タボラ)を経由してタンガニーカ湖東岸中部のウジジへと到達するものだった。


 ウジジはこの地域の交易の中心となり、のちのヨーロッパ人の探検家たちもここに本拠を置いて周囲を探索することを常とした。


 さて、ナイル源流論争に決着をつけるべく、1866年にデイヴィッド・リヴィングストン(『ヨーロッパ人』で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。


 また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物。


 もっともこの旅の途中、再三ティップ・ティプなどの奴隷商人達からその時は見返り目的とは言え、非常に親切な助けを得たため、リビングストン本人は苦悩したと言う。


 それでも1865年に、彼著書『ザンベジ川と支流』を著し告発した。


 この本は当時としては異例の初版4,800部が発行されているほど注目度が高かった。


 描かれたアラブの商人とポルトガルの商人との間で行われている奴隷貿易、

 および現地人への虐待や虐殺の実態は、ようやく当時の知識人たちを驚愕させ、奴隷商人たちへの怒りを再度引き起こすこととなったのである。


 なお、1971年からスコットランドでのポンド紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。)


 が、王立地理協会からのナイル川の水源を探求する依頼で3回目のアフリカ探検を開始したものの、行く先々で奴隷商人の妨害に遭い1867年にはタンガニーカ湖畔にたどりついたものの体調が悪化し、1868年にはキゴマの南西7kmに位置する湖畔のウジジの村で静養した。


 リヴィングストンのウジジ滞在は3年に及び、本国イギリスと音信不通となったため、1869年10月、ニューヨーク・ヘラルド紙は救出隊として

特派員のアメリカの探検家ヘンリー・モートン・スタンリー(私生児で育児放棄のために救貧院育ちの商人ヘンリー・モートンの養子)を派遣。


 その頃リヴィングストンは、1871年3月29日ルアラバ川の岸辺で1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会ってた。


 これは彼が実際に目撃した中では最悪の事態であり、奴隷解放のために立ち上がろうとしたものの、その力は既に残っておらず、ウジジで静養を余儀なくされていた。


 一方スタンリーはただちに出発したが、実は他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、ウジジにたどり着いたのは結局1871年11月10日であった。


 なんと彼は200人以上のポーターを雇っていたが、運搬用のサラブレッドはツェツェバエに咬まれたことで2~3日で死に、ポーターも熱帯病に罹り多くが斃れが、探検を続けるためにスタンリーは従者を鞭打って強引に連れていた。


 こうして、両者はウジジで対面した。

だが、病と絶望により骸骨のようにやせ衰えた幽鬼の如き姿を見てこのときにスタンリーが思わず発した

 

 「リ、リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」


は、劇的なエピソードとして伝えられ当時の流行語となった。


 この邂逅ののち二人は共同でタンガニーカ湖北端までの小探検をおこない、ルジジ川が現地で聞いた通りタンガニーカ湖に流れ込む川であることを確認した。


 1872年7月にイギリスに戻り手記を公表すると、スタンリーは私人として最大級の歓迎を受けた。


 1973年には、リヴィングストンの消息を明らかにしたことに対して、

王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた。


 1874年スタンリーはビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断しコンゴ川の流路を確認した。


 その後、再びリヴィングストンの消息が途絶えるとこれを探し出すために1874年、イギリスの王立地理学協会がヴァーニー・ロヴェット・カメロンを隊長とする探検隊を派遣したが、途中のカゼでリヴィングストンの棺を運ぶ従者たちと出会ったため、カメロンは目的をこの地域の探検に切り替えてさらに西進し、タンガニーカ湖の調査にかかった。


 カメロンはタンガニーカ湖の南半分の800kmに及ぶ湖岸線を

調査し、タンガニーカ湖西部中央から流れ出るルクガ川を発見。


 カメロンが西へ向かった後、2年遅れた1876年にスタンリーがタンガニーカ湖に到達して湖を周航し、タンガニーカ湖の地理をほぼ明らかにした。


 999日後の1877年8月9日スタンリーらはポルトガル領であるコンゴ川河口に到着した。


ただ、356人で出発するも114人のみが生き残り、欧米人はスタンリーのみであった。


 冒険記『暗黒大陸を抜ける』はさながら征服行のように描かれていた。

スタンリーはその後、ルクガ川からルアラバ川を通ってコンゴ川を海岸まで下り、これによってタンガニーカ湖がコンゴ川水系に属すること、およびコンゴ川の水源のかなりが判明した。


 結局この問題に決着をつけたのは、リヴィングストンが果たせなかったナイルの水源の探求の意思を

継いだ形のスタンリーによってであり、1875年にルウェンゾリ山地にある水源が発見されたことにより、19世紀の論争にはほぼ決着が付いた。


 スタンリーはリポン滝の存在を確認したのちに船で湖を一周し、これによって科学的に、ヴィクトリア湖がナイル川の水源であることが確認された。


 さて、このリヴィングストンであるが、彼のアフリカ史、およびヨーロッパ列強のアフリカ観における影響は甚大である。


 第一に挙げられるのが、リヴィングストンの第一次アフリカ探検以前は、アフリカは「暗黒大陸」という名が示すとおり、一部を除きヨーロッパにはほとんど知られておらず、古代ローマ期にアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスから得た知識からほとんど進展がなかった。


 しかし、リヴィングストンは探検中に天体観測による測量術を身に付け、ほぼ正確に地図を作ることができた。


 その地理上の発見はイギリスに手紙で伝えられることにより、ヨーロッパ各地でアフリカの地図が作成されることとなり、交易のルートがそこから生まれた。


 このリヴィングストンの「開拓した」交易ルートを最も利用したのは、象牙商人などではなく、奴隷商人たちであった。


 中央アフリカへのルートが開拓されたことで、その地域の奴隷狩りが頻繁に行われるようになってしまったのだ。


 そのため、インド洋を中心とした奴隷貿易はむしろ活発化してしまい、ザンジバルの奴隷市場は中央アフリカ最大と呼ばれるまで成長した。


 そのこともあってか著書や手紙で

再三ポルトガル領やスルタンによって行われている奴隷市場の廃絶を

繰り返し訴えていたため、危機感を抱いた奴隷商人に探検中に何度も妨害され、時には暗殺されかかった。


 だが彼の運動は1871年、国民からの庶民院への要望提出により実を結び、数ヵ月後、ザンジバルの奴隷市場は閉鎖されたと言う。


 もっともアフリカ大陸での奴隷貿易はそれからも各地で細々と続けられ、のちにヨーロッパ列強がアフリカ政治へ介入する口実となり、列強はアフリカ分割へと突き進むこととなる。


 この列強のアフリカ進出においてリヴィングストンよりも直接的な影響を与えたのが実はアメ公のスタンリーである。


 彼は優秀な探検家である一方、ベルギー国王レオポルド2世の委託を受け、アフリカ各地の集落の族長などに貢ぎ物を与え、コンゴ自由国の建国などで多大な役割を果たした。


 探検家でありながら積極的にヨーロッパの植民地支配のために尽力することとなったスタンリーに対し、

リヴィングストンは、自身ではあくまでも自分の第1の目的は宣教であり、探検はその拠点を探索するための手段であると著書の中で述べている。


 一体どこで差がついたのか……って、最初からか。


 彼の功績により、ヨーロッパからの宣教師の流入は格段に増え、彼の著書に触発され、宣教師を志す若者も増えたと言われている。



 一方のスタンリーはと言うと、1876年には科学的・友愛的な装いをしつつ、ベルギー王レオポルド2世の私的団体であった国際アフリカ協会の依頼でスタンリーは文明化をもたらすという口実で派遣され、現地の首長たちと条約を交わした。


 建設した道路は奴隷貿易に利用され、王の野望が露見してもスタンリーはその任務に留まった。


 これらにより後半生のスタンリーは彼の冒険が暴力と残虐に満ちていたという批判を躱すためだけに残りの人生の多くの時間を費やすことになった。


 その際スタンリーは「野蛮人は武力、権力、剛胆、決断しか尊重しない。」と主張し反省の色などまったくなかった。


 スタンリーはコンゴ自由国建設と

「エミン・パシャ救出」の際の暴力の責任の他、トリパノソーマ症の感染地域拡大についても責任を問われている。


 スタンリーはアフリカを離れたあと、英国の市民権を得て議会のために働いたが、亡くなった際、コンゴ自由国の件を理由にウェストミンスター寺院への埋葬を拒否された。



 なお、実のところヴィクトリア湖に関する最初の記録は、アフリカ内陸部に金や象牙などの交易路を持っていたアラブ人交易商たちによるものである。


 1160年頃の地図において、すでにヴィクトリア湖の詳細な表現がなされており、ナイル川の水源であることも示されていた……。




   - 閑話休題 -




 さて第一急流アスワンを過ぎたナイル川流域ナイル河谷は、古くから上エジプトと下エジプトというカイロを境にした2つの地域に分けられている。


 カイロを起点としてそこから

ナイル川上流、南の第一急流アスワンまでを上(かみ)エジプト。

ナイル川下流、北の大三角州地帯を下(しも)エジプト。

といって区別している。


 上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり、アシュート近辺で分かれた支流が上エジプトと下エジプトの結節点近くにあるファイユーム近郊のカールーン湖(Birket Qarun、かつてのモエリス湖)へと流れ込む。


 この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシスを形成している。


 一方本流はカイロ近辺で、地中海にむかって約240kmも広がっている典型的な扇状三角州となる。


 ナイル川はカイロから上流の渓谷から下流エジプト北部のナイル川河口に向かって広大な三角州(大デルタ地域)を形成して地中海にそそぐのだ。


 ナイル川三角州(デルタ)はアレクサンドリアからポートサイドにかけ、東西240kmにわたり広がる世界最大級の1.*三角州(デルタ)地帯であり、肥沃な土壌を生んでいた。


 だが、かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようにまでなってしまった。


1.*三角州とは、

 川が海や湖に抜けて出るところに土砂が堆積してできた土地のこと。

枝分かれした2本以上の河川(分流)と海で囲まれた三角形に近い形をしているのが特徴。


 扇状地と三角州はよく似ているが、実のところまるで違うものである。

扇状地と三角州は同じ川の堆積作用によってできたものですが大きな違いがあります。

山地と平野の境につくられた扇状地は川口につくられた三角州よりも表面の傾斜が急です。


 また、扇状地をつくっているのは、山地の急流で運ばれてきたれきや砂が大部分です。


 これにたいして三角州は、平野のゆるやかな流れで運ばれてきた細かい砂やねん土からできています。



★ナイル川上流とデルタ地帯:

 ナイル川三角州(デルタ)は、首都カイロから少し下ったところから始まる。

いや、むしろカイロはナイル川三角州(デルタ)の要に位置する。


 南北160km、東西240kmにわたって広がり、河口までは160kmだが、その間の高低差は16mしかない。

なお、デルタの厚さは平均なら20m。


 ディムヤート川(ダミエッタ川)とロゼッタ川の二つの主流を境に

東西に分けられることもある。


 この二つはそれぞれ同名の港湾都市(ディムヤートとロゼッタ)を通り、地中海に流れ込む。


 過去にはもっと多くの分流があったが、治水事業により多くが消滅した。


 その一つにワジ・トゥミラートがある。

スエズ運河が走る北東部にはマンザラ湖、ブルルス湖、イドゥク湖、マリュート湖などの湖沼がある。


 上空から見ると三角形やハスの花に見えることから、デルタはアーチ形をしていると言われる。


 外縁部では砂漠を侵食し、沿岸部のラグーンは年々塩分濃度が濃くなっている。


 アスワン・ハイダムの建設により

上流から流れ着く栄養分や堆積物が均等化してからは、氾濫原の土壌がやせたため、大量の肥料が使われはじめた。


 なお、青ナイル川はナイル川の水の約3分の2を供給し、同じくエチオピア高原に源を発するアトバラ川との合流時には、両者を合わせた水量の割合は90%にまで達する。

また、流されてきた堆積物の割合は96%にも及ぶ。


 つまりは、ナイル川全体の水量の約20%でしかない白ナイル川はナイル川の水利にさほど寄与していないのではなかろうか?


 なぜなら途中、青ナイル川と合流するまでに白ナイル川流域に広がるスッド(サッド)と呼ばれる世界最大級の大湿地帯を流れ(水文学的にスッドは洪水を緩和し、堆積物を留める重要な役割を持っている。)蒸発によって、およそ55%の河水がスッドで失われるためである。



★歴史:

 ナイル川デルタには数千年前から人々が住み着き、遅くとも5000年前には耕作が始まっていた。


「エジプトはナイルの賜物」という言葉は、ヘロドトスの『歴史』(巻二、五)に記されているが、元はヘカタイオスの言葉である。

故に「ヘロドトスが引用した言葉」という方が正しい。(この「エジプト」はナイルデルタを指しており、

デルタがナイル川の運ぶ泥が滞積したものであることは当時から知られていた)。


 ナイル川の定期的な氾濫によって形成された肥沃な土壌がエジプト文明を形成。

人々はナイルの水を利用した潅漑農業を発展させた。


 上流にアスワン・ハイダムが建設されるまでは、ナイル川は毎年のように氾濫を起こしていたのだ。


 これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。


 また、エジプトはほとんど降雨がないが、このナイルの洪水によって農作物を育てることができた。


 浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。


 ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによるとデルタには7つの分流があり、東から西へそれぞれPelusiac、Tanitic、Mendesian、Phatnitic

Sebennytic、Bolbitine、Canopicと呼ばれていた。


 現在では治水事業などによりほとんどが消滅し、東にディムヤート川(古代のPhatnitic)、西にロゼッタ川(Bolbitine)が流れるのみである。


 1799年にはロゼッタ市でロゼッタ・ストーンが発見された。


 ファラオの時代には下エジプトや

「ゴシェンの地」として知られていた。

デルタでは今なお多くの考古学遺跡が残る。


 現在ではエジプトの総人口8000万人のおよそ半数がデルタ地帯に住む。

主要都市の郊外では人口密度が1平方kmあたり1000人を超える。


 秋には一部で赤いハスの花が咲く。

南部の下エジプトではエジプトハス、北部の上エジプトではカヤツリグサパピルスが見られるが、近年めっきり減った。


 冬にはアオサギ、シロチドリ、ハシビロガモ、ウなどの数十万羽の水鳥が押し寄せ、その中にはヒメカモメやクロハラアジサシもいる。


 カエル、カメ、マングース、ナイルオオトカゲなどの動物もいる。


 昔はナイルワニやカバといった大型動物も広範囲に分布していたが、

今では見られない。ボラやカレイなどの魚もいる。


 ナイル川デルタは地中海性気候で、

冬を中心に年間100から200mmの雨が降る。


 7月から8月にかけてが最も暑く、

平均で30度、最高気温は48度にもなる。

冬は10度から19度の間で推移する。

この気温と少々の雨により、冬はかなり湿度が高くなる。

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