第29話 現実:地理-失われた海 テチス海、香取の海

★世界編:

 アラル海はほぼ消失:「海」は甘いか塩っぱいか?


 現実世界においてアラル海は消えつつありますが、このアラル海やカスピ海がどうして「海」と言われるのかご存知でしょうか?


 答えは実はこれらの塩湖はもともと海だったから……そう、アラル海もカスピ海も数億年前に存在したテチス海という海の一部だったのでした。



▼テチス海とは?:アラル海の話かと思った? 残念テチス海でした!

 テチス海は、パンゲア大陸の分裂が始まった約2億年前ないし約1億8000万年前から4000万年前の新生代第三紀、現在のアフリカ大陸とユーラシア大陸との間に存在した存在していたとされる海洋であり、『古地中海』とも呼ばれます。


 当時で言うとローラシア大陸とゴンドワナ大陸に挟まれた海域で、現在の地中海周辺から中央アジア・ヒマラヤ・東南アジアに、さらには西側にも広がっておりカリブ海まで達していました。


 しかし、アフリカ大陸から分裂したインド亜大陸とユーラシア大陸が衝突する前後、テチス海の多くの部分が陸化して現在のアルプス山脈、ヒマラヤ山脈、カフカス山脈などを形成。


 また2000万年前にアフリカ大陸とユーラシア大陸が接近して陸続きとなった事により完全にテチス海は消滅しました。


 現在の地中海、黒海、カスピ海、アラル海はテチス海の痕跡であるとされます。


  また、塩湖である黒海、カスピ海、アラル海はインド亜大陸によるヒマラヤ山脈の造山活動の名残である故、山脈の北方にのみ各種海が取り残されているのです。(注:なおバイカル湖は淡水湖であり世界で最も古い古代湖でもあるが、実は元々は海溝なのであったと言う。インド亜大陸がユーラシア大陸に食い込み、これを北東と南西を結ぶ線で引き裂くユーラシアプレートとアムールプレートの境界に当たる地溝

(バイカルリフト)の陥没部にあり、

現在でも年に幅2cm、深さ6mmずつ広がっているため、長大な時間を経ても湖であり続けている)


 また現在砂漠化の進むタリム盆地誕生もテチス海の消滅と関わりが有ると言う。

インドがマグマの流れに乗ってテチス海を北上しユーラシアと衝突した為にテチス海が消滅したが、この際インドが乗っかっているインド・オーストラリアプレートがユーラシアプレートの下に潜り込むのだが、この際先っちょが耐えきれず途中で折れたことで、軽くなったインド・オーストラリアプレートは自重でたわんでいたのが戻る形で、一気にユーラシアの端を持ち上げます。

この隆起によりチベット高原が生まれ、逆にそれより奥のタリム盆地(特に盆地内部のタクラマカン砂漠のあたりを中心として)が沈下して盆地になったといわれています。

なお、タリム川を始めとするいくつかの河川があるが、いずれも内陸河川であり、中でもホータン川は崑崙山脈の雪解け水が増える夏季のみ砂漠を南から北に横断して流れる季節河川として知られ、ヤルカンド川やアクス川などと合流してタリム川となるが、「さまよえる湖」として知られるロプノールは、この川の末端湖のひとつであった。


 その後、およそ2万年前の最後の氷期から現在の間氷期へと遷り変わる頃には、盆地のほぼ全域がカスピ海のような極めて広大な湖となったが、その後気候が温暖化するにつれて次第に水が失われ、大部分が砂漠になったと考えられている。

降水量が極めて少なく乾燥しているが、盆地の地下には五大湖の10倍にもなる大きさの地下水源が存在する可能性が指摘されている。


 このタリム盆地は、古来中国で西域と呼ばれた地域でシルクロードが通っており、楼蘭・亀茲・于闐といった多くのオアシス都市国家が栄え覇を競っていのが現在では中国領とされるも、そもそも古代のタリム盆地地域には古インド・ヨーロッパ語族のトハラ人が居住し疏勒・亀茲・焉耆・高昌・楼蘭などの都市国家が交易により栄えた。

とは言え砂漠の中央を東西方向に縦断することは極めて困難であり、かつてのシルクロードも、北縁のオアシスに沿って進む西域北道(天山南路、漠北路とも)と、南縁のオアシスを辿る西域南道(漠南路とも)とに分岐していた。


 しばしば遊牧国家の月氏や匈奴などの支配下に入った為にテュルク系遊牧民も混じった自らの民族をテュルクと呼ぶウイグル人がいまも住んでおり、言語もウイグル語で文字はアラビア文字を使い、チベットと並んで中国の民族浄化問題を孕んだ地域である。


総括:

 ユーラシア大陸中南部域にテチス海があったことを示す証拠の一例として、ヒマラヤ山脈は海底の堆積の地層が見られますが、これが激しく褶曲した露頭からは多数のアンモナイトの化石が発見され、また当時の温暖な気候の下で植物プランクトンが大いに繁殖し結果多くの死骸が海底に長年降り積もり、それが現代の中東地区の石油に変化したとされます。(つまり石灰石・石油・石炭などがある場所は元は海の底だったのである)



☆日本編:

●房総半島は島だった?:

 今度は「海」といっても日本の海で、時代も数百年前まで近づきます。


 かつて関東に「香取海」という海が存在したことは、どれだけ知られているのでしょうか。

中世末期或いは江戸時代初期まで常陸と下総、現在の茨城県と千葉県の境界地帯、利根川の下流域は「海」であった。


 そして、現在の霞ヶ浦、手賀沼、印旛沼、牛久沼はその「海」の一部だったのです。(だから浦や沼だらけ)


●香取の海: あまりしょっぱくはなかったかも

 香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に湾入し国津神を祀る香取神宮の目前に広がっていた内海を指します。


 江戸時代前まで下総・常陸国境周辺に存在し、霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼をひと続きにした広大な規模の内海でした。

また様々な河川(鬼怒川、および小貝川・常陸川)が流れ込み、面積は東京湾に匹敵するほどだったと言う。


 古文書には内海(うちうみ)、流海(ながれうみ)、浪逆海(なさかのうみ)などの名で現れ、鬼怒川が注ぐ湾入部は榎浦(榎浦流海)とも呼ばれ、更に遡ると縄文時代前期には霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼までつながり規模の大きい内海なのでした。

当初は、鹿島灘にはっきりと湾口を開いていて、この時期の香取海は古鬼怒湾と呼ばれます。


 その後、海退および鬼怒川などが運ぶ土砂の堆積で次第に陸地化し狭まり、奈良時代頃は現在の河内町から榎浦津(稲敷市柴崎)付近が香取海の西端で鬼怒川が注いで、その細長い湾入部は榎浦と呼ばれ、北の常陸国信太郡と南の下総国香取郡・印波郡とを隔てていました。


 また、古くから水上交通を通じた独自の文化圏・経済圏が形成され、

東北地方や北関東・南関東、さらには西国への物流経路を担っており、

これを巡る争奪戦は平将門の乱や平忠常の乱、治承・寿永の乱の原因・遠因ともなりました。


 現在の利根川の流路は江戸時代の大規模な掘削工事により作られたもので、それ以前の時代を遡れば流域には広大な内湾が広がり、ひとつの交易文化圏を作っていました。


 物流において水運が重要であった時代に、この穏やかな内湾は瀬戸内海都並ぶ天然の運河であり、かつまた漁労や農業においても豊穣な水辺として、その恩恵は計り知れないものでした。


 香取の海、香取の浦と呼ばれたそれは、年月を経て土地の隆起や土砂の堆積によって、葦原となったり淡水化していったエリアもあったようです。

それがやがて霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼などに分かれていく大小の入り江が複雑な水際を織りなしたので、それらの岸辺や高台には多くの寺社仏閣が残されているが、いずれもが香取の海が広がっていた時代に建立されたものです。


 その代表例は「鹿島・香取」と並び称される一対の存在、香取神宮と鹿島神宮です。

経津主神を祀る香取神宮と武甕槌神を祀る鹿島神宮とは、利根川を挟んで相対するように位置します……完全に関所ですな。

そう、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座するのだ。(この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られていたからだ。なお、中世に始まる特殊収入として「海夫(かいふ)」、すなわち香取海の漁業従事者からの供祭料があった。)



▼歴史:坂東太郎は利根川の異名で、「坂東(関東)にある日本で一番大きいの川」の意味。


 今は昔、1000年以上前のことだそうです。

その当時、霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼といった水域はすべてひと続きになった広大な規模の内海だったそうで、また様々な河川が流れ込み、面積は東京湾に匹敵するほどだったといいます。


 実は縄文時代以前のこの地には、「海面後退」が起き、ここには「侵食低地」が作られていましたが、縄文時代になってからは逆に「海進」が進み、大量の海水が流入することで海になりました。


 ただし、海とはいいながら鹿島灘に湾口を開く「湾」のような状態であり、ここに鬼怒川などの河川が流れ込んでいたことから、これを「古鬼怒湾」とも呼ぶようです。


 また、香取海は近畿地方から東北や北海道へ向かうための中継地としての要衝の地でもあったことがわかっているようです。


○奈良時代ころになると、今も下総国で第一の神社といわれる香取神社が創建されており、この香取神社の神主(大宮司職)は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫の大中臣(おおなかとみ)氏が務めており、平城京の摂関家藤原氏との関係も深かったようです。


○その後、平安時代の後半になって武士が台頭してくると、香取海は陸奥国を経て蝦夷までの北の地方を平定しようとする大和朝廷の重要軍事拠点となり、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、ここを根拠地とした物部匝瑳(もののべそうさ)氏が3代に亘ってこの地の鎮守将軍に任ぜられました。


○更にその後、この地は「坂東武士」の始祖、平将門などの坂東平氏の根拠地となるなど歴史上の重要な舞台となりました。

とくに将門は香取海を基盤に独立国家を作ろうとし、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、朝敵となりましたが、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました(承平天慶の乱)。


○更に更にその後、平安時代末期になると、前述の「香取神宮」がこの地における権益を手中にするようになり、その社領は、香取海の周辺にまで広がっていき、ついには国衙が持っていた権力までも香取神宮が所有するようになり、本来は神社であるがゆえに供祭料・神役の徴収するだけだったものが、これを遥かに超える「浦・海夫・関」などの権益を手にいれるようになります。

つまり、香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障するとともに、東京湾に通じる古利根川水系に河関を設けて、通行料を徴収するようになりました。


○その後の鎌倉時代には、水上交通は更に活発となり、沿岸には多くの港が作られた。

香取神宮の権力はあいかわらず絶大で、常陸太平洋側から、利根川・鬼怒川・小貝川・霞ヶ浦・北浦などの内陸部、北総及び両総の太平洋側にかけてのほとんどの港は香取神宮が支配していたといいます。


 香取海に流れ込む河川を通じて北関東や東京湾とも活発な交流も行い、房総沖の太平洋にまで出て海運を行っていたのではないかという説もあるようです。


○続く南北朝時代には、下総津国宮津以下24津(港)、常陸国大枝津・高津津以下53津の計77の津を香取神宮が支配していたという記録もあり、

河関もさらに広範囲に設けられ、これらの河関は現在の東京都内にまで及び、江戸川区東葛西や市川市の行徳など東京湾の沿岸にも河関があったといいます。


○しかし、このように長く栄華を誇った香取神宮によるこの地域一帯の支配も、江戸時代になり、徳川幕府がこの世を支配するようになると、次第にその権益を失っていきました。


 香取海を通じての貿易などの収入のほとんどは幕府にはいるようになり、こうしてできた金で幕府は、それまで、江戸に流れ込み、毎年のように氾濫を招いていた利根川の流路を東に向けるためのいわゆる「利根川東遷事業」を開始します。


 これによりを江戸を水害から守り、流域の沼や湿地帯から新田を新たに創出し、水上交通網の確立、利根川を北関東の外堀とし、東北諸藩に対する備えとすることにしたのです。


○江戸時代以前の利根川は、下総国の栗橋(現・茨城県最西部の猿島郡(さしまぐん)付近)より下流は、埼玉県内を通って、葛飾から両国あたりを流れており、途中で現在の綾瀬川流路を流れていた荒川や入間川(現在の荒川流路)と合流して江戸の内海(東京湾)へと注いでいました。


 このため、江戸市中には度重なる利根川の氾濫が起こっていましたが、幕府はこの利根川を途中からその東に流れる鬼怒川方向に転じてこれに合流させ、現在の千葉県銚子市より太平洋へと流れる川とするための工事に着手しました。


 この結果として、それまでの香取海の水もこの利根川に流せるようになり、このため海が干上がってこれが手賀沼や印旛沼、牛久沼となり、江戸への利根川の水の流入を少なくすることに成功しました。


 また、これにより香取海と呼ばれていた一帯の淡水化が進み、当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって、干拓と新田開発が盛んになりました。


 また、銚子・香取海から関宿・江戸川を経由し、江戸へといたる水運の大動脈が完成しました。


 1665年(寛文5年)のこれらの一連の河川改修により、東北から江戸への水運には、利根川を使うことで危険な犬吠埼沖の通過や房総半島の迂回をする必要が無くなり、利根川は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展していきました。


 この水運路は鉄道網が整備される明治前半までは流通幹線として機能していきます。


 また、この河川改修によって江戸周辺や武蔵国、常陸国、下総国などを中心として新田開発が進み、耕地面積が大幅に増加しました。


こうして、かつてここにあった広大な香取海は次第に姿を消していき、今我々が目にしたような広大な田園地帯が誕生したわけです。


 ところが、この付け替え工事により、逆に利根川中流部の集落はひん水害に襲われるようになり、1783年(天明3年)には浅間山が噴火し、利根川を通じて火山灰が中流域に大量に流入、河水があふれ出て、周辺地域の更なる水害の激化を招く事となりました。


 当時の土木技術では大規模な浚渫などの抜本的な対策を取ることはできず、浅瀬の被害も深刻化し、前述の艀下船を用いても通行が困難になる場合もありました。


 パナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施されましたが、結局、この浅間山噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは明治後期になってのことでした。


○1899年(明治32年)になり、

ようやく国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討されることとなり、こうして実施された大規模な利根川改修工事により、現在のような利根川の形がほぼ確定していくこととなります。





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