第30話 現実:地理-古秩父湾・古東京湾(西の東京湾・東の霞ヶ浦) ~ 海原幻想 埼玉にも昔は海があった ~
★実は数千年以上前までは埼玉県にも海がありました!
その代わり東京都は海の下で、千葉県は島でしたが。
これは、地層の研究から明らかになっています。
つまり埼玉県に海がないからこそ東京都は存在しているんです。
「そこんとこヨロシク」
なら横浜横須賀は? 三浦半島の一部は島だったようだが?
▼古秩父湾:
さて、はるか昔に埼玉に海があったという“驚きの事実”ですが、これは昔といっても江戸はおろか、人間もなかった太古の時代であり、(この頃の日本列島は亜熱帯)約1,700万年前に誕生し約1,500万年前に姿を消した、(約1,500万年前はちょうど地殻変動の圧力が高まり、日本海が形成され、ヒマラヤ山脈・ロッキー山脈・アンデス山脈など各地で山脈の形成が始まった時期。)
約200万年もの長きに渡り実在した「古秩父湾(こちちぶわん)」と呼ばれる存在です。
この太古の海の誕生から消滅までの間の海の盛衰の記録が各地層に残されています。
とは言え、これは古すぎるので近年で言うと……
▼古東京湾:このとき房総半島は島であった。
第四紀更新世の中・後期に鹿島灘に湾口をもった、現在の関東平野地域に存在したと推定される湾である。
第四紀(258万8000年前〜)の初め頃、関東平野の一帯は房総半島の先端部と三浦半島の一部を残して海の底でした。
地質学では、およそ260万年前から現在までを「新生代第四紀」と呼びます。
第四紀は今から約1万年前まで(最終氷期の終わり)の「更新世」と、その後の「完新世」に分けます。
霞ケ浦の湖岸の崖をつくる地層はすべて更新世の堆積物で、その堆積は霞ケ浦の誕生に深く関わっています。
古東京湾とは、1927年矢部長克が命名。
矢部 長克(やべ ひさかつ)は日本列島が100万年前に大陸から分離したと発表して反響を呼んだ人物です。
古代、関東平野の一帯に広がり、現在の鹿島灘方面に開く海湾を想定して、これを「古東京湾」と名づけました。
・約200万年ほど前
現在の関東平野南部の海底が隆起して現在の三浦半島部分が陸化するとともに、現在の房総半島の南半が島となりました。
このため三浦半島~房総島の北側にあたる現在の関東平野の一帯は広い海湾となります。
・約50万年前
地層が何度か上下運動をおこして深海底で太平洋プレート上に降り積もった堆積物が海面上まで隆起し、現在の三浦半島や房総半島の原形 ・基となりました。
古東京湾の出現は今からおよそ40万年ないし50万年前にさかのぼり約10万年前に消滅したものとみられている。
古東京湾の消滅イベントは、広く平坦な台地が卓越する関東平野の地形特性を生み出すとともに、東京湾を外洋から分離させ、河川水や土壌などの自然資源を東京湾へ集中させる出来事であった。
古東京湾は全体としては浅海性の海であったが、しかしその海域は長い時代を通じて一定していたわけではなく、沈降運動の中心部が徐々に北西の方に移動し、それにつれて古東京湾の海域も少しずつ変化をしてきた。
間氷期には海面が上昇したので、古東京湾の浅海底は陸化と水没を繰り返したのです。
また、日本列島に分布する平野のなかではずば抜けて大きな面積をもつ関東平野は、学問的には古くから関東構造盆地とよばれた盆地であった。
関東平野の諸特徴は、この盆地が当初海盆として発達し、それが地史的過程を経て広大な平野へと姿を変えてきたために備わったもので、その意味では,この平野は世界でも珍しい生いたちをもつ特殊な平野である。
・約13万年前、
下総台地は古東京湾の海底だった。
これはリス氷期が終わり間氷期に入ると、一転気候が温暖化したからだ。
そして現在の関東平野にあたる海には、東部の銚子方面から利根川低地沿いに広がった「古鬼怒湾」と、西部の東京湾奥から北へ現在の荒川や中川低地に入り込んでいた「奥東京湾」とがありました。
この時期は、縄文海進が起きた6000年前よりも温暖な気候であったとされている。
この頃は今の東京湾はまだ存在せず、古東京湾は氷期・間氷期の繰り返しによる拡大縮小を繰り返しながら、全体としては時代とともに外洋の影響の強い海湾から内湾へと変化し、やがて更新世後期に消滅したのです。
東京湾や霞ヶ浦(元香取海)はその名残である。
また当時の海成層に産する貝化石はホタテガイ類など北方系のものが混っていて、水温は現在の東京湾より低かったといわれます。
・約12万年前、
この頃は現在より海水面が高く、房総半島は島であった。
このころの内海を指しても古東京湾と呼ぶ。
・約10万年前、
間氷期に地球の温暖化によって起きた大規模な海進であった下末吉海進は終わり、海岸線が陸地化する海退の時代となります。
関東平野一帯はかつて古東京湾と呼ばれる内湾であったが、こうして関東平野が誕生した。
しかし平野とはいっても大部分はヨシやスゲの生い茂る沼沢地だったようで、こうした湿地の環境は、海水面が大きく低下をはじめる約6万年前頃まで続いていた。
もっとも、徳川家康が来る前の江戸も一面に葦の生えた湿地であったそうだが。
またこの時期、関東平野の成立と時を同じくして阪東太郎と呼ばれた利根川が生まれた。
利根川は、ときには北へ南へと洪水の度に流路を定めず氾濫したが、
大宮台地の西測に沿い東京湾に注ぐ現在の荒川筋に流路を落ちつけたのが約6万年前である。
ところが約4000年前のあるとき、突然荒川低地から中川低地へと流路をかえた。
こうして約300年前に始まる人工的な瀬替によって鬼怒川筋に東遷されるまで、中川低地を流れることとなった。
▼古東京川:
・約7万年前に始まって1万年前には終了した、一番新しい氷期である最終氷期だが、いわゆる「氷河期」という言葉を使うときはこの時代を指すことが多い。
なお、最終氷期の時に最も氷床が拡大したおよそ2.1万年前を最終氷期の最寒冷期(最終氷期最盛期、Last Glacial Maximum、LGM)と呼ぶ。
旧石器時代は地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までであるが、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきたおそらく12万年前に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。
これはヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する。
・約3万年前には、
最終氷期が訪れて海面はさらに低下していたが、同時に古東京湾地域の地盤が急速に隆起しはじめる。
このため古東京湾の海底は平坦な台地にかわり、台地には山地から延伸してきた河川が谷を刻みむ事となる。
ですが、そのころ那須・男体・榛名・赤城・浅間などの火山活動が活発になって多量の火山灰を噴出し、飛来した火山灰が台地面に積もりました。
この火山灰層が現在の赤土(関東ローム層)です。(ローム層は陸成の火山灰層、粘土層は水成の火山灰層です)。
・約2.1万年前、(最終氷期の最寒冷期)
この時期、数十万立方キロメートルといわれる大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なった。
海水を構成していた水分が蒸発して降雪し陸上の氷となったため地球上の海水量が減少、世界中で海面が約120メートルも低下し、その影響で海岸線は現在よりも沖に移動していた。
日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっており、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となっていた。(ただし対馬海峡もきわめて浅くなったが存在し、結氷し氷橋があったかもしれない津軽海峡も幅は狭いが開いていた)
・約2万年前(最終氷期の最盛期)になると、氷河の発達・拡大にともなって海面が現在より著しく低下し、浦賀水道付近以北は陸地となって現在の東京湾は干上がっており、そこには「古東京川」と呼ばれる大きな川が流れていた。
当時の古代の利根川は現在の妻沼から熊谷にかけての低地を通って古代の荒川に合流・荒川筋を流れ下り、また渡良瀬川は思川と合流して中川筋を下り、それぞれ峡谷を形成していたが、川口市の東方で2つの谷が合流した後、現在の東京湾の方に延びていき古東京川となって流れていた。
これが現在の東京湾の海底下に埋没している東京湾海底谷と呼ばれる2万年前の河谷である。
当時の海面は-100m以深にあったので、その深さまで河谷は続いているのである。外湾部では陸から離れた沖の海底は急激に深くなっており水深500m以上に達し、この海底谷は相模トラフに合流する。
この時期、古鬼怒川は元の小貝川筋に戻り、(なお、古鬼怒川の流路変更の原因は分かっていない。)
古鬼怒川が作った平坦面に、今度は桜川と恋瀬川の原型が流れるようになる。
現在、西浦の底の平坦面には2本の谷が刻まれ、谷底は現在の湖面下約50mに達していますが、これはそのころの海面は現在より80mほど低く、古東京湾は消滅していたので、桜川と恋瀬川の原型が樋状平坦面を海側から深く掘り込んで2本の溝を刻んだからです。
同時に現在の西浦一帯は広い潟では、この潟に古鬼怒川(鬼怒川の前身)が山地から土砂を運んで堆積させ、大きな鳥趾状三角州を形成しました。
古鬼怒川が現在の古里川低地(旧大和村)から桜川~西浦~鹿島灘(河口は現在の軽野の先あたり)の筋を流れて
樋状平坦面を形成したからです。
この三角州が新治台地と筑波稲敷台地の起源で(小野川や一之瀬川・菱木川は鳥趾指の間の低地を流れる)、三角州をつくる堆積物が常総層です。
またこのころ火山活動が活発となり、古箱根火山などから飛来した火山灰が潟の水底に積もって常総粘土層となりました。
特に約12万前から10万年前にかけては活動が活発であったが、約8万年前から4万年前にかけても箱根火山では再び大規模な噴火が繰り返されるようになり、特に約6万5000年前に発生したと考えられる東京軽石層の噴火は、箱根火山の噴火の中でも最大級のものであった。
▼奥東京湾・古入間湾と古鬼怒湾:
・約1万2000年前に、最終氷期が終わると温暖化して氷河が後退し世界的に海面が上昇し始め、古鬼怒川が作った窪地を海水が満たしはじめます。
こうしてできた海湾が西浦の原型です。
・約1万年前、この時期の関東の海岸線は現在とほぼ同じ位置であった。
なお、その後も温暖化が進んで海面は上昇する。
・約6000年前、海面は現在より3mほど高くなりました。
この海進を「縄文海進」(有楽町海進)と呼びます。(関東平野では6500~5500年前,大阪平野では5000~4000年前など)
そして一時は太平洋のはるか100㎞まで後退していた海水面が少しずつ陸側に押し寄せるこの頃、古鬼怒川の流路はさらに西に移動し、ほぼ今の鬼怒川の流路になりました。
この頃は、もっとも気温の下がった氷期の2万年前から少しずつ気温が上がっていき、約6000年前の前期は年平均気温が1~2度高かったため海面が一番高く、海岸線が関東平野の奥まで達していました。
奥東京湾沿岸の埼玉県南部には、蓮田市黒浜貝塚、ふじみ野市上福岡貝塚、富士見市水子貝塚など多数の貝塚が残されています。
この時期の縄文時代前期には海水面が上昇し内陸へ入り込む縄文海進が起こった為、最終氷期に形成された段丘にも海水が入り込んで、入口が狭く奥行きの深い内湾や溺れ谷が形成されたのです。
低地が海であったことがわかったのは、当時の貝塚が台地の縁に沿って分布することからでした。
また約6000年前の海岸線の位置は、台地の縁が波の作用で削られてできた波食台の位置でもわかります。
柴又5〜7丁目の柴又河川敷遺跡では、地表から約2m下に波食台があり、かつてこの付近まで張り出していた下総台地が、波の作用で削られたことを示しているのだ。
また、海進最盛期では標高4m前後の高い位置に海面が達していて、関東平野では縄文海進の最盛期には栃木県南部にまで海岸線が達して奥東京湾と呼ばれる内湾を形成し、荒川沿いでは今の埼玉県川越付近、江戸川沿いでは同じく栗橋付近まで海が進入した。
なお、縄文海進の海面は現在より2〜3m上昇し、奥東京湾西の入り江は現在の埼玉県川越市付近、東の入り江は埼玉県久喜市栗橋・茨城県古河市付近にまで達していた。
そう、この時期の関東平野には東西に2つの大きな内海があったのだ。
縄文海進で古鬼怒川旧河道にできた海湾を「古鬼怒湾」と呼び、東京湾側には「奥東京湾」が形成されます。
東部の「古鬼怒湾(奥鬼怒湾)」の低地一帯は「香取海」と呼ばれ、西部の「奥東京湾」は現在の荒川低地・中川低地・東京低地にあたる。
更に奥東京湾の一部、大宮台地の
西側の水域・当時の利根川・荒川による湾部は「古入間湾」と呼ばれた。
古期利根川が深く刻んだ谷を逆上るようにして内陸部まで海が進入したのだ。
だが、水深が浅く流れもあまり強くないため三角州が発達した奥東京湾は次第に小さくなっていった。
・5300年前頃から、
一転して海面低下が始まる。
海岸線は、中川低地では4500年前頃に25㎞も退いたが、その後再び海水準が上昇し始めた。
・3500年前頃、
この時期、海岸線は埼玉県草加市から三郷市付近にあった。
縄文時代 - 大宮台地の縁まで奥東京湾が入り込み、白幡貝塚や大谷場貝塚などが形成された。
現在の標高が10mが縄文時代前の海岸線と言われています。
埼玉県の大宮台地が始まる辺りから北が陸で、南が海らしいです。
分かりやすく言うと大体、武蔵野線が海岸線だそうです。
実際さいたま市南部からは土器や貝塚が多く出土してます。
・3000年前(縄文後期から晩期)、
気候は弥生の小寒冷期に向かい海は退きはじめます。
この時期、古代の利根川は大宮台地の北部の沈降運動のため大宮台地の北部を横切って、当時の渡良瀬川に流入するようになった。
その後も大宮台地の北部では沈降運動が続いたため利根川の流路変更がおこなわれ、利根川と渡良瀬川は独立した川となり、やがて近世の瀬替え前の流路をとるようになった。
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