第31話 現実:地理-古東京湾(西の東京湾)
★東京湾:古東京湾西部
▼概要:
現在の日本の関東地方にある、太平洋に開けた湾である。南に向けて開いた湾であり、浦賀水道が湾口となっている。
・湾口幅:20.9km
・面積:1,380km2
・湾内最大水深:700m
・湾口最大水深:700m
実は近世以前は東京湾全体を指す固有名詞はなかった。
現在の東京湾と言う呼称は、明治維新後に江戸が東京と改称された頃、この湾の名前を考える際、一国ではなく複数の令制国に囲まれた湾であることから、当時の湾岸における最大の都市名を付けたものであり、それまで東京湾を指す語は日本の歴史上に見られない。
つまり、近世の東京湾を指すとされる「江戸湾」という語は近年になって造られた語(造語)であり、明治時代以前にあった言葉ではないのだ。
また地形図では「東京湾」、海図では「東京海湾」の表記であったが、最近になって「東京湾」に統一されたものである。
▼東京湾海底谷:『古東京川』
東京湾外湾部では陸から離れた沖の海底は急激に深くなっており、水深500m以上に達する。
これは、氷河期に陸化した東京湾に存在した利根川(江戸川)、荒川、多摩川などが合流した大河『古東京川』による侵食によって形成された東京湾海底谷が認められるためである。
なお、現在のこの海底谷は近郊の陸地から河川を通じて東京湾に流れ込んだ有機物が沈殿しており、栄養が豊富な深海という特異な環境が東京(江戸)の都市化とともに形成されてきた。
また海底谷は相模湾から伊豆大島・房総半島の間を通り、房総半島南東沖の三重会合点で日本海溝、伊豆・小笠原海溝と合流する相模トラフに合流する。
そのためメガマウスやミツクリザメなど世界的に希少な深海魚が捕獲されることがある。
氷河期に陸化していた東京湾は、氷河期が終わり温暖化が進んでいくと海面が上昇し続け水没し、約6千年前の海面などは現在より3mほど高くなっていました。
この海進を「縄文海進」(有楽町海進)と呼びます。(同時期ドッガーランド・スンダランド・サフルランド・ベーリング地峡・現ペルシア湾なども海面上昇により水没し海底に没した。)
この縄文海進で、
・古鬼怒川旧河道には海湾「古鬼怒湾」が、
・現東京湾側には「奥東京湾」が形成されます。
海進の最盛期は、およそ5000年前(縄文時代中期)で、3000年前(縄文後期から晩期)になると気候は弥生の小寒冷期に向かい、海は退きはじめます。
▼歴史:
・旧石器時代(日本の旧石器時代は、今から約3万7千年前〜約1万6千年前頃)は最終氷期(およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期)に、辺りでは氷河が発達していたため海面が現在より著しく低く、浦賀水道付近以北は陸地となっており、「古東京川」と呼ばれる川が流れていた。
・6000年前には、縄文海進と呼ばれる海水面の上昇があり、関東地方の海水準は現在より3 - 4mほど高かった。
東京湾は渡良瀬川河道では群馬県邑楽郡板倉町付近まで、利根川河道では埼玉県川越市付近まで湾入したことが貝塚分布から裏付けられる。
この頃の東京湾を指して奥東京湾と呼ぶ。
またこのうち、大宮台地の西側の水域は古入間湾とも呼ぶ。
・縄文後期から弥生時代(2500年前)、また気候が寒くなり始め氷期に向い始めました。
海は徐々に引いて行き関東平野は陸の部分が多くなり始めました。
関東平野(武蔵国)は台地以外は標高が低く、東京湾(江戸湾)から武蔵国へは遠浅の海ですので、海は引いたとはいえ弥生時代の初期は潮が満ちれば埼玉県当たりまで海で (埼玉県川口で標高 4 メートル位)、潮が引いいても浅草あたりが海岸線となる時期が続き、それから更に陸地化が進み今日の東京の地勢に近い状態になって行きました。
・有史以降、上記のような地勢なので武蔵国は多くの場所が潮が満ちたら海になってしまいます。
なので東西の移動なども道なき道であり通交が不便で、江戸及びその周辺も5世紀位までは人が住む地域が限定される、雑木林や葦が生い茂る未開の原野がほとんどの地でした。
古くは京都から武蔵国向かう道は、現在の東海道ではなく東山道でした。
当時武蔵野国へは、東山道で信濃国(長野県)から上野国(群馬県)経て武蔵国に入ります。
そして国府(東京都府中市)、江戸や下総(千葉県)に向うのですが、陸路である東海道なれど三浦半島からは舟に乗って上総国(千葉県南部)に続くのです。
所謂渡しと言うやつで、後は下総国(千葉県北部)から常陸国(茨城県)で終点です。
なお、現代でも横須賀市久里浜港と富津市金谷港の間を東京湾フェリーが結んでおり、名目上は国道16号が横断していて、横須賀・富津間を陸路で結ぶ東京湾口道路の建設構想もあるが、実現のめどは立っていない。
・古事記にも書いてあるように、かつては武蔵国と下総国の間は広大な低湿地帯で通行に適さなかったため記録『日本書紀・古事記』では日本武尊(ヤマトタケル)が、また律令時代の東海道も771年以前は、相模国三浦半島より湾を渡って海路で上総国房総半島へ至っています。
この日本武尊の東征において「馳水海」、あるいは景行天皇東国巡狩では「淡水門」と呼んだ例もある。
だが、これらの名は東京湾の入り口の水道、もしくは三浦半島から見て「馳水海」(浦賀水道)、房総半島から見て「淡水門」(「淡」は令制国の安房国のこと。)と呼んだ水門( みなと )、を指したものである。
以降の対岸交通では東海道の古道として『中世文書』に記されている。
なお、地名としての江戸の成立は平安時代後期まで遡ると考えられるが、湾状の地形自体は意識されず、その名の由来の通り「江の入り口」との認識にとどまっている。
また、ヤマトタケルは相模から上総に渡る際、「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した事で走水の海(横須賀市)の神の怒りをかった為、神は波を起こしてヤマトタケルの船は進退窮ると記される。
そこで后(または妾)の弟橘比売が自らヤマトタケルに替わって入水すると、弟橘媛の犠牲で波は自ずから凪いで一行は無事に上総国に渡る事ができ難を免れたと記され、この水路を馳水(走水)と名づけたと伝えられている。
一方771年以前の東海道だが、鎌倉以東は現東京湾岸の河川の渡河を避ける為に海路をとるので三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島(上総国富津)に入った。
元々、東海道は海つ道(海路)でもあり上総国から下総国へ入る経路だった為、また開拓が黒潮にのって太平洋側から進められた為、房総半島の畿内に近い南部が上総国、遠い北部が下総国とされた。
・律令制以前、上総国と下総国の両国は、総国(捄国)としてヤマト王権から把握されていたのだったが、後の律令制に於いては、上総国から安房国を別け令制国としての房総三国が成立した。
これは当時、大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降の事と考えられているからである。
なお、8世紀・平安末期頃の常陸の国には現在の霞ヶ浦が外海(太平洋)に繋がり、規模も東京湾に匹敵する広さの内海(うちうみ)であった為、今の利根川下流に広がっていた香取海の入り江の一つとして香澄流海(ながれうみ)とも呼ばれていました。
なおこの頃の内海は、現在の霞ヶ浦から想像できない広さで、当時のその面積は今の2~3倍ありましたが、その後鬼怒川や小貝川が運んできた土砂などが現在の西浦や北浦の湾口に堆積し、やがて現代の姿に段々と近づいていく事になります。
ちなみに、房総半島の地層のほとんどは約260万年から現在に至る新世代第四紀のものであり、つまりは大変新しい大地であるのだが、一部房総半島の縁である新第三紀鮮新世以降の地層から成る露岩の崖が約10キロメートルにわたって分布する千葉県銚子市から旭市までの太平洋海岸線に連なる海食崖の景勝地である『屛風ヶ浦(びょうぶがうら)』が岸壁となり、これの存在によって陸上からの土砂が深海に流れ出ないよう堰き止められるので、そのおかげで後方の台地(かつては海底であった層-砂岩質の岩の部分-が隆起し、その後、この上に富士山等の噴火によって堆積した関東ローム層の赤土-火山灰が積もって鉄分が赤く酸化したもの-によって形成されたものであり、海底であった層から崩落した岩を見ると、貝殻などの化石や、かつてそこで生息していた生物の痕跡を確認できる)が形成されるも、砂岩質の土壌で崩落しやすいことと、打ち寄せる波の強さもあって、有史以来数キロに渡ってこの岸壁は削られており、一例として東国古戦記等によると、刑部岬付近には鎌倉時代に片岡常春の居城であった佐貫城があったとされているが遺構があった場所は既にはるか沖合である程だ。
なお、これら崩落した石や土は、潮流に乗って南西方へ流されて海岸に堆積、長さ約66キロメートルに及ぶ九十九里浜の砂となっていた。
---閑話休題 ---
また、内海と言われるように外海(太平洋)に繋がっており、流海と言われるようにも海水が容易に遡る大きな湖でもありました。
なので、通常は川上から川下へと川の流れと共に船は流れていきますが、満潮の時には海水の流入があるので、この時は下流の海方向から船の進入が容易となるので、内海に流入する河川も多い事もあり、どこからでも船が入ることが可能となる事で、海と内海・河川を繋ぐ水運が盛んであった。
そう、水路は物資輸送の大動脈であったのだ。
実は陸路などと違い、ほとんど道を整備する必要のない河川や湖沼は天然の通路であり、故に陸路が未整備であった古い時代ほど水上交通への依存度は高かったのだ。
しかも、この地域の内水面は外洋と直結していたのだ。そのため水運が発達しており、奥州平泉の物資も船で運ばれた。
そのひとつが、現在その痕跡は全く失われていますが、那珂湊内海から後の江戸廻りへの水運・海上輸送路である「那珂湊-内海-江戸廻り」と呼ばれるルートではないかと考えられています。
また、あまり平安末期から鎌倉時代の水運につて資料は多くはありませんが、蝦夷地の物産がここ奥州平泉に集まったので(蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし代わりに米・布・鉄を得た)、奥州藤原氏は遠く蝦夷との交易の接点ともなっていて、この奥州の那珂川を下り陸路も経由して内海を舟で運び川を遡上し、利根川の関宿(現在の野田市)から利根川を下る江戸湾(東京湾)の水運は、大きな中継点として、江戸湊、六郷河口(多摩川河口)、神奈川県六浦であったのではないかと考えられ東国の水運、特に利根川の中継地として繁栄しました。
なので鎌倉時代には香取・鹿島両神宮の支配が進み、この地の支配を行った。
この他、日本のこの地がシルクロードの東端・隠れた終点だったとする考え方もあります。
その後、江戸時代初期に徳川家康によって行われた河川改修である『利根川』の付け替えにより関東平野のほぼ中央に位置しており古くは『江戸川』の河岸を中心に水運で発展し、『利根川』水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった関宿(戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった為、関東の制圧を目論む北条氏康などは「この地を抑えるという事は一国を獲得する事と同じである」とまで評した)は一時衰退するも、元々関東平野の中心に近い関宿は軍事上の要衝であったり、『利根川』本流と『江戸川』の分岐点となって水運上の要地としても、また陸上交通として日光東往還が通されたため山崎宿・中里宿などの宿場も興り栄えた。
このルート以外にも奥州からの直線的なルート・那珂川や鬼怒川を下る外海の航路ルートが考えられますが、犬吠埼付近には岩礁・暗礁が多く、太平洋の海流が複雑に流れるため、鳴門海峡、伊良湖岬沖と共に、海の三大難所として多くの人命が失われた場所でもあった。(千葉県犬吠埼沖は、今も難所です)
- 参考資料 -
・坂上田村麻呂が征夷大将軍になったのが797年。
・平将門の乱(承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん))が939〜940年。
・源平合戦(治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん))が1177年〜1185年頃。
・11世紀初めになっても、現東京地方(武蔵国)は葦が2メートル以上の高さがあったので、馬上の侍の弓の先が見えないほどの高さだったとされ、未だ大木もなく葦と萩が生い茂る原野がほとんどであったことがうかがわれます。(菅原孝標女『更級日記』より)
○流通:
なお、山国でない武蔵国の庶民にとっては炭は高価な燃料であった為、代わりに葦などの草を燃料として焼いていたが、これは昔その付近の低湿地を流れる川には葦が多く生えていた為である。
また武蔵国は当初は歴史的経緯から東山道に属していたが、帰化人が多く移り住み東海道との交通が活発となり、東海道諸国から武蔵国東部を経由し、常陸国(さらには陸奥国)へ向かう交通路としての重要度が増し、宝亀2年(771年)に武蔵国が行政区分としての東海道に移管され、街道としての東海道は相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更された。
つまり東海道は、相模国以東はそれまでの海路で上総国へ入ることを止め、相模国中部を北上して武蔵国府に至り、武蔵国府もしくは相模国中部から東行して、下総国府を経て上総国府へ向う経路となったのだ。
なお途中の東京湾岸は現在の東京都心部を通り、その東側に広がる隅田川・利根川・渡良瀬川のデルタ地帯は各川を渡船した。
その後の鎌倉時代にも交通路として利用されていた資料が残り、鎌倉時代から鎌倉街道の交通路として利用されていたとされる。
中世には海賊衆も活動し、東京湾と同様浦賀水道も戦国時代には後北条氏と里見氏の水軍の争いの舞台となった。
・江戸時代以降、徳川家康の命により江戸幕府によって埋め立てが進み、江戸の地勢を人工的に変え工事は三代家光の時代まで続きます。
また、菱垣廻船や樽廻船などの和船による水運が行われた。(後期には外国船来航に対する湾岸防備のために品川沖に台場が築かれてもいる。)
江戸時代初期には利根川中下流の付け替えにかかわる一連の河川改修『利根川東遷事業』も行われた。
これらにより、利根川本流は銚子を通って太平洋に注ぐことになり、関東平野の自然地理的状況は人の手によって大きく変えられた。
しかし、荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた。
東北太平洋岸の海運に併せ利根川の水運を使う内川江戸廻り航路は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展し、鉄道網が整備される明治前半まで流通の幹線として機能し続けた。
また、この頃から江戸前や江戸前海などの呼び名があり、江戸前とは漁場を示す言葉であり佃沖の漁場のことであるが、あくまで江戸前海とは房総沖などと並ぶある範囲をもった海域のことで品川沖から葛西沖あたりまでを包括していたもので、湾全体は単に(武蔵相模上総下総の)内海、あるいは裏海のように呼ばれていた。
幕末や明治初期の記録文献類に登場する、現在の東京湾に相当する湾の名称もほとんどが「内海」となっているがあくまでこの「内海」という言葉は、本来は江戸時代以前に北東の下総常陸国境付近に存在していた「香取海」に対しても用いられるので、昨今では区別のため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、中世から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多い。
・明治時代に、国防上も重要な海域であるため、浦賀水道を囲む形で東京湾要塞が造られ、東京湾との境には3つの海堡が建設された。
しかし、1923年の関東大震災により第二海堡と第三海堡は使用不能となり、第三海保は2007年8月までに撤去された。
・江戸時代から現代にかけて、元々遠浅で砂地の海岸が多かったため、沿岸や浅瀬が各所で相次ぎ埋め立てが進められてきた。
これにより湾内には明治・大正期に造られた海堡(かいほ)を始め70を超える人工島がある。
対して、自然島は現在横須賀市沖の猿島及び鋸南町沖の浮島 (千葉県)等がある。
▼江戸湊・江戸前・江戸湾:
江戸湊は、北の浅草湊、南の品川湊と並ぶ港や河岸の事であり、江戸前の方は、単純に江戸城の前の意であり、芝浜(現・港区)や須崎(現・江東区)・佃沖などと並び、ほぼ漁場を示す語であった。
江戸初期の三浦浄心『慶長見聞録』には「相模、安房、下総、下総、武蔵五カ国の中に大いなる入海あり」「今は鯨江戸浦まで来てうしおを空へ吹き上げる見れば」などの記述はあるが、主に陸上の地名を表した三大国絵図(『正保国絵図』、『元禄国絵図』、『天保国絵図』)をはじめとする国絵図には東京湾に該当する地名はないとされる。
江戸時代は鎖国と、主要航路は下田からの沿岸航路と利根川経由の河運だったため簡易的な「海瀬舟行図」以外には海図はほとんど用いられることがなかった。
しかし、欧米各国の船が開国を求めて日本沿岸に現れるようになり、中には航海の安全のためと称して、勝手に沿岸を測量し海図を作成し始める国も出た。
ベネチアに残る1690年の日本図には、自国語で「江戸湾」の表記が見られる。
このような状況は海防や海上交通の安全から問題視され、対策として沿岸の測量を実施し、1821年(文政4年)伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』(伊能図)が完成した。
この図にも東京湾に該当する記載はないが、この頃より湾状の地形が意識されてようやく江戸前海や江戸内海の語が現れる。
ただし、その意味するところは単に(武蔵相模上総下総の)内海、または裏海にすぎなかったようである。
その後の幕末や明治初期の記録文献を見ても依然としてこれらの語が用いられていて「江戸湾」の用例は知られていないが、やがて「東京湾」の語が定着し、区別のため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、中世から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多いとされる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます