第32話 現実:地理-古東京湾(東の霞ヶ浦)

★霞ヶ浦:古鬼怒湾(香取海) 古東京湾東部

湖面積220.0平方キロメートルは日本第2位、茨城県最大。主な水域別の積は次のとおり。

・西浦(172平方キロメートル)

・北浦(36平方キロメートル)

・外浪逆浦(6平方キロメートル)

・常陸利根川(6平方キロメートル)


「かすみがうら」には表記の混乱もあります。

多くの地図は「霞ヶ浦」、「霞ケ浦」 と記しますが、文献には「霞ガ浦」・「霞ガ浦」・「霞か浦」・「霞浦」と記す例も見受けます。


 茨城県は6水域をまとめて「霞ケ浦」と、「ケ」を大きな文字で表記することがあります。

国土地理院の「標準地名表」でも「霞ケ浦」のようです。


 この「霞ヶ浦」という名前 「かすみがうら」という名称は、『常陸国風土記』(710年代の編纂)に 載る「香澄郷」(かすみのさと、潮来市牛堀とその周辺に比定)に由来するといいます。


 また「霞の浦」が「霞が浦」になったのは 江戸時代らしく、「の」を「が」に置き換えるのは関東訛りと言います。


▼「霞ケ浦」の変遷:

 風土記の時代・奈良時代(710年 - 794 年)の西浦・北浦は(狭義の霞ヶ浦の別名は西浦で、この西浦の東に実は北浦がある)「流海」(ウミ、ナガレウミ、リュウカイ)と呼ばれ、後の室町時代(1336〜1573年)に「内の海」(内つ海、浪逆浦)と呼ばれたが、この「内の海」の中心部とは、中世に「香取海」(かとりのうみ)、「香取浦」と呼ばれた浅い海で、 香取海は鹿島流海(北浦)、香澄流海(西浦)に続いていました。(香取海から見ると北浦は北に、西浦は北西にあります)


 なお現代での広い意味での「霞ケ浦」は、

・西浦・北浦・外浪逆 浦の3湖と

・北利根川・鰐川・常陸川の3河川を合わせた6水域全体の呼び名で、各水域の総体です。



●『西浦』『浪逆浦』『北浦』

『北浦』は、鹿島台地と行方台地の間を南北に分ける水帯です。

ですが、地図上『北浦』の西にある『西浦』は理解しやすいのですが、

その実東側にある水域がなぜ『東浦』ではなく『北浦』と称されているのか?


 これは『北浦』から南側に位置する『浪逆浦(なさかのうら)』から見て「北側にある浦」だからという明瞭な理由により『北浦』との呼び名が生まれ、以後定着したのです。


『西浦』も、まず北浦ありきで「その西にあるから」名称は西浦です。

これは古くより鹿島神宮が祀られていたことでわかるように、

昔から浪逆浦の地にこそ多くの人々が生活していたのです。


 そうして室町時代ごろ『北浦』と呼ばれるようになるまで、

この水域は、遥か上代(飛鳥時代から奈良時代を指す)の時代から「流れ石だね、リューセキだねぇ、流石だねぇ」……では無く『流海(ながれのうみ)』と呼ばれていました。

歴史的にも重要な水路であり、また大切な生活する場所だったのです。


 また東側の『北浦』が『流海』と称されていたころ、『霞ヶ浦』は『香澄流海(かすみながれのうみ)』と称されていました。(流海の前に記された『香澄』は、河口の旧・香澄村(現・潮来市牛堀)の地名に由来するもの)


 その後、平安時代に『香澄浦(かすみうら)』の名称になったものの、室町時代、湖水面が広く冬期を除いては、常に霞が発生していたことから、読み方は変わらず漢字を変えて『霞浦』へと推移しました。



 また、常陸川・外浪逆浦・鰐川・北浦・北利根川・霞ヶ浦(西浦)は、それぞれ現在の自然地名です。

湖沼学的には西浦・北浦・外浪逆浦のそれぞれがひとつの湖沼です。


 昭和30年代まで霞ヶ浦といえば西浦のことでしたが、現在では、法律(河川法・環境基本法・湖沼法・漁業法)によって水域の区分が異なるため、「かすみがうら」の範囲もまた混乱しがちです。


 霞ヶ浦(西浦)には、いくつかの入り江があり、それぞれに歴史的な呼称があります。

高浜入(たかはまいり)、土浦入(つちうらいり)、古渡入(ふっといり)、この三つの入り江の名称は、1901年(明治34年)の地図に記載されていますが、なぜか戦後の地図には、入り江名が記載されなくなったようです。


 しかし、現在でも、公的にこれらの名称が用いられます。

昭和40年代に実施が計画されながら中止に至った「高浜入干拓」は、

入り江名が公的に使用された代表的なものです。

他にも「甘田入」「野田奈川」「余郷入」などの流域名が干拓地名として残っています。


 これらの入り江に対し、霞ヶ浦の中央部の広い流域は「三又沖」(みつまたおき)と呼ばれてきました。


 ただ、三又沖という流域名は地図に記載されることは少なかったようです。


 また、「霞ヶ浦」は「西浦」と呼ばれた歴史的経緯があり、地図には「霞ヶ浦(西浦)」と記されることがあります。


 すなわち、西浦とは霞ヶ浦そのもののエイリアス名です。

建設省では、霞ヶ浦(西浦)、北浦、外浪逆浦、常陸利根川を包括して「霞ヶ浦」と呼んでいることから、単一の湖・霞ヶ浦を括弧付きで霞ヶ浦(西浦)とし、一級河川「霞ヶ浦」と区別しています。


 以上の呼称は、歴史的なものであると同時に、現在、公的に使用されている名称です。



▼歴史:

●海進と海退:

・約12万年前の下末吉海進と呼ばれた時代、霞ヶ浦の周辺は関東平野の多くと同じく古東京湾の海底であった。(12~13万年前を中心とする海進を下末吉海進(「しもすえよし」は横浜市鶴見区の町名)と呼ぶ)


 後の下末吉海進の最高海面期の古東京湾では筑波山周辺まで波が打ち寄せて海浜が広がっていたが、この時期にはまだ今の霞ヶ浦の東方にある行方台地の西部から千葉県の小見川から多古にかけての細長い地域が海浜・砂丘・塩水湿地など天然の防波堤をつくり東側の太平洋と西側の古東京湾とを分けていた。


 下末吉海進の頃、古東京湾の東部(湾口付近)の海底が帯状に隆起しはじめました(鹿島・房総隆起帯)。

隆起帯の一部はやがて南北に並列する2本の帯となって離水し台地となりました。


 この台地が現在の鹿島台地と行方台地です。

ふたつの隆起帯に挟まれた区域は沈降して細長い谷となり、これが北浦の原型です。


 この下末吉海進はおよそ10万年前に終わり、陸化する海退の時代となります。



・約10~8万年前頃になると、海面が再び低下し、古鬼怒川の河口部にミシシッピデルタで有名な鳥趾状三角州が成長し始めた。


 この頃の西浦一帯は広い潟で、この潟に古鬼怒川(鬼怒川の前身)が山地から土砂を運んで堆積させ、大きな鳥趾状三角州を形成しました。


 この三角州が新治台地と筑波稲敷台地の起源で(小野川や一之瀬川・菱木 川は鳥趾指の間の低地を流れる)、三角州をつくる堆積物が常総層です。


・7万2千年前ごろ、最終氷期の始まりとともに徐々に陸地化したと考えられている。


・約3万年前まで、桜川低地の幅が桜川の現河道の規模と比較して不相応に大きいことなどから、古代の鬼怒川が現在の桜川の河道を流れ、その幅広い谷が西浦の主要部を形作った事がわかる。

川は時代ごとに流路を変えるのだ。


 実は霞ヶ浦の湖底に堆積している泥や砂を入れている「器」ともいえる基盤の地形は、この最終氷期の海面低下期に河川の下刻によってつくられたのだ。


 古鬼怒川が桜川低地および霞ヶ浦の概形をつくったのは、約3.5~2.8万年前の時期である。


 約3万年前の海面は現在より も約50mほども低かった。

湿度の高い日本は雨がたくさん降り、バクテリアなど動植物の分解者の活動が活発になり、豊かな土壌を生み出す。


 温暖な気候の下で、バイオ(生物)の力で生み出された「バイオマット」が山の斜面を覆い、山の斜面を強固にしている。


 逆に、氷期は山の表面の木々が弱くなり、

木の根で固められていた山の斜面は、もろくなり崩れやすくなる。


 生物の働きが衰える氷期の川はとても元気で山の斜面を削り、岩や石といっしょに勢いよく流れる。

川が削ってできる谷や平地の幅は、川の水の流速や水量などで決まるのだ。


・約2万年前、新生代第四紀の更新世の最終氷期・ヴェルム氷期には、関東平野の海岸線は太平洋の沖側に後退していた。


 この約2万年前頃の最終氷期の最寒冷期には海面はさらに低下して、

 今よりも約80mも低いレベルに下がり、鹿島灘の遠い沖合までが陸地となったのだ。


 この頃、陸地化とともに出来た川筋によって現在の霞ヶ浦の地形の基礎が形作られた。


 最終氷期の極寒期の低海水準期に最も深い谷地形が形成されたのだが、これは霞ヶ浦低地帯での河川の下刻作用がさらに激しくなったからだ。


 霞ヶ浦とは、後氷期の海水準の上昇に伴ってこの谷地形が溺れ谷となって内湾的な状況となり、やがてその湾口部が埋積されて生じた海跡湖なのである。


 だがこの時期に入ると、古鬼怒川は龍ケ崎の南を通り常陸川と合流する現在に近い流路となり、同じく太平洋へ至る長く深い河谷を形成した。


 古鬼怒川が桜川低地から小貝川低地へと再び流路を変更する事変が起こったのだ。


・縄文時代:人理の時代の開始


・1万数千年前の縄文海進では、縄文海進時には下妻付近まで入り江が湾入し(常陸川、飯沼川へも同様)、低地が太平洋につながる古鬼怒湾(香取海)とよばれる海の入り江を形成したとされ、現在霞ヶ浦周辺で多く見られる貝塚はこの時期のものと考えられている。

この周囲には多くの貝塚が分布しているのだ。


・約5000年前頃までは、先史時代の利根川の中下流(熊谷市付近で荒川との合流後)は南に向かい現在の荒川の流路を通り、縄文海進時には川越市近辺まで湾入した東京湾へ注いだ。


 旧渡良瀬川、旧鬼怒川、旧小貝川の下流域は縄文海進時には海であったが、以後の河川の堆積作用によって湿地帯が形成されており、治水も兼ねた当事業によって、これらの湿地帯が減り新田が開拓されたとされる。


 現在の霞ヶ浦湖畔の浮島村も、当時は島であり周囲は海水であったがその後鬼怒川や小貝川による堆積の影響から、海からの海水の流入が妨げられるようになり、汽水湖となっていったと考えられている。


 そもそも香取海は海面後退期に鬼怒川によって形成された侵食低地の河谷に、縄文海進により海水が流入して内海が作られたもので、学術的には古鬼怒湾と呼ばれる。


 これは江戸時代以前の鬼怒川が常陸川などと共に香取海(太平洋に銚子でつながる内海)へ注ぐ鬼怒川水系の本流であった為である。


 つまり香取海とは縄文時代の海退海進時のイベントによって変化した、かつての鬼怒川の痕跡なのである。


 しかし海退期の古鬼怒湾では、今度は逆に河川が運び込む土砂が湾口に堆積し、また海砂が潮汐三角州をつくって湾口を塞ぎました。


 このため古鬼怒湾は湖沼の性質を強めます。

なお西浦の湖心で堆積が進み始めたのは 約2500年前(弥生時代早期)と推定されています。


 やがて気候が寒冷化に向かうと、樹林(木の実や狩猟動物)が変るとともに、海が退いて浅海性漁労が困難になりました。


 これを契機に縄文から弥生への生活様式転換が進んだとされています。


 海退で奥東京湾は消滅し、海岸線はほぼ現在の東京湾岸まで退きましたが、古鬼怒湾側では霞ケ浦が残り、漁労の継続を可能にしました。


 このため霞ケ浦地域では縄文の生活様式が比較的遅くまで続いたということです。


 こうして縄文時代以降、鬼怒川は常陸川と共に古鬼怒湾(香取海)へ注ぎ、その湾の河谷は土砂で次第に埋まり沖積層の陸地となった。


 台地を構成する層としては、「基盤となる層」・「台地面形成層」・「被覆層」とに分けて考えると理解しやすい。


 中でも「台地面形成層」の土質・堆積環境によって台地の分類が可能となる。


 武蔵野台地を例とすると、「基盤となる層」は鮮新世~更新世前期に堆積した上総層群~東京層まで。


 これは「台地面形成層」を堆積させる土台となった地層である。

「台地面形成層」は更新世(洪積世)に多摩川が扇状地を形成した際に堆積させた武蔵野礫層である。


 よって武蔵野台地も「洪積台地」であり「扇状地性台地」に分類される。



●海面の低下と湾口での堆積の進行による洲の発達:

・弥生時代:紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃まで水稲農耕が本格的に始まった弥生時代になると、霞ヶ浦周辺でも稲作がはじまります。


・4世紀から7世紀にかけて、霞ヶ浦周辺でも古墳が築造されるようになり、当時のヤマト王権と手を結ぶような勢力を持つ豪族があらわれるようになる。


 720年代に書かれたという『常陸国風土記』によれば、霞ヶ浦は塩を生産したり、多くの海水魚が生息するような内海であった。


 弥生時代の小寒冷期が終わると平安時代を中心とする小温暖期が訪れます。


 ですがその後の鎌倉時代から室町時代にかけての関東南部では海面が現在より2mほど高かった可能性があり、その影響もあってか霞ケ浦は14世紀ころまで海の姿を残しましたが、海面が低下するとともに湾口では堆積が進みます。


 香取海では堆積が進む事で洲が発達して、16世紀末(1590年)には新島(十六島)が開田します。


 西浦の汽水化は15世紀~17世紀に進んだと考えられています(湖底堆積物の調査による)。

西浦の湖底約50cmの深さにヤマトシジミ(汽水性)の貝殻層があり、これは 15~16 世紀の堆積と考えられます。


 北浦では富士宝永火山灰層(1707年噴出)より、新しい湖底堆積層で海洋性の珪藻(けいそう)が消え、その後100年ほどで汽水性の種類も消滅して、淡水性の種類ばかりとなっています。


 海との水の交換が西浦より容易であった北浦の汽水化は西浦より遅れ、18世紀であったと考えられます。


 18世紀はヨー ロッパから日本にかけての小寒冷期で、海面が少し低下した可能性があり、これが北浦、西浦の淡水化に寄与した可能性もあります。



●流通:香取海は畿内から日高見国・陸奥への要衝であった。

 古鬼怒湾と呼ばれる香取海は、古代の関東平野東部に太平洋から湾入し香取神宮の目前にまで広がっていた。


 霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼までつながり、鹿島灘にはっきりと湾口を開いて

 鬼怒川河道では下妻付近、常陸川は境町付近、飯沼川は古河市付近まで入り江が奥深く入り込んだ。


 古代から中世の霞ケ浦水域は香取海を中心に北と西に深く入りこむ浅い内海で、西の入り江の奥は帯状の湿地帯だったのだが、海退および鬼怒川などが運ぶ土砂の堆積で次第に陸地化し狭まり、有史頃は現在の河内町から榎浦津(稲敷市柴崎)付近が香取海の西端で鬼怒川が注いでその細長い湾入部は榎浦と呼ばれた。


 香取海は北の常陸国信太郡と南の下総国香取郡・印波郡とを隔てており、西端で鬼怒川が注いでいた。


 中世頃まで香取海は完全には淡水化せず、鬼怒川河口は現在の河内町から稲敷市柴崎付近だった。


 また現在の水海道付近より河口に至る鬼怒川・小貝川下流域は広大な湿地帯(氾濫原)が形成されていた。


 805年に河口にも近いこの氾濫原の東南端(利根町と龍ケ崎市の間)で

鬼怒川を渡船する経路が下総国から常陸国へ入る東海道として整備された。

丸木舟の出土も多く、古くから重要な交通路だったと考えられている。


 これは古くから東北地方および常陸国と他地域との間の物流経路を担っておりこれを巡る利権争奪戦が平将門の乱や平忠常の乱、治承・寿永の乱の原因・遠因となったことからも伺える。


 将門も香取海を基盤に独立国家を作ろうとしたのかもしれない。


 東北太平洋岸の海運は、危険な犬吠埼沖の通過に加え房総半島を迂回する必要があり、順風が得られない限り東京湾への出入りができない航路であり、利根川の水運は重要であったのだ。



●利根川の関所としての鹿島神宮・香取神宮

 古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっていた。


 香取海の周辺は香取・鹿島両神宮の神郡であり、両神宮は香取海の出入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。


 この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。


 後に有力貴族や他の有力寺社が荘園を設定したため神郡が浸食されるが、平安時代末期までは権益は全て両神宮に帰し香取神宮が「浦・海夫・関」も支配した。


 具体的には東京湾に通じる古利根川水系に関所を設けて、通行料を徴収した。

また香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障した。


 そう、鹿島神宮と香取神宮は大和朝廷の東国開拓や蝦夷平定の拠点となって、鎌倉時代以降、香取神宮は常陸国と下総国の漁業関係者である海夫や関所を支配し、多くの収入を得ていたのだ。


 平安時代末期から室町時代にかけての香取神宮文書や鹿島神宮文書には「海夫 (かいふ)」とよばれた人々が記されている。


 海夫は神祭物を納める代替として漁業や水運などの特権が認められていたが、実は香取海では平安時代の末期から海夫(漁業水運従事者)が活躍し、時に武士団と渡り合ったことが知られる。


 それは、常日頃は漁民であり、運搬を担う水夫(かと)であり、そしてある時は、武器を取って戦う武士にもなる多用な顔を持つ彼らは香取神宮大宮司の支配下にあったのだ。


・鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。


 式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。


 全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。


 また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。


 創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年)の目安)では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。


 一方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。


 また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする


 下総国一宮の香取神宮は大化の改新の後に、下海上国(匝瑳郡)の一部を割いて建郡された香取郡を神郡とし、神主(大宮司職)は、大中臣氏が務め、藤原氏の氏神である春日大社に、鹿島神宮の武甕槌大神と共に香取神宮の経津主神が勧請される。


 宝亀2年(771年)に武蔵国が東海道に移され、平安時代には陸路が整備されたとされるが、実際には香取海周辺はその後も陸奥国への要衝であり朝廷の蝦夷経営の拠点であり、坂上田村麻呂(天平宝字2年(758年)〜 弘仁2年(811年))や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、ここを根拠地とした小事の子孫とされる物部匝瑳氏が、足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられ、その功績により香取神宮の神階も上がっている。


 その後平高望や将門、忠常など坂東平氏の根拠地となるなど歴史上の重要な舞台となった。


・香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。

式内社(名神大社)、下総国一宮。

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。


 関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。

茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。


 また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。


 千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座する。


 日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、全国でも有数の古社である。


 古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。


 その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。

現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。


 鹿島神宮は下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、位置)と古来深い関係にあり「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にあり、鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。


 その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある。

古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。


 この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。


 鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。


  古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。


 これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。


 なお初期段階では、鹿島は外海(蝦夷)、香取は内海(香取海)を志向したとされる。


 その後、上記の香取苗裔神が2社のみながら共に栗原郡(現・宮城県栗原市周辺)に祀られており、牡鹿郡(現・宮城県石巻市周辺)を最北端とする鹿島を飛び越して北に鎮座する。


 これに関して、栗原郡の統治が可能になった時期が9世紀と見られる点や、弘仁3年(811年)から陸奥国鎮守府将軍として物部匝瑳氏(もののべのそうさうじ:下総国匝瑳郡関係氏族)一族が見える点、承和6年(839年)に香取神の神階が鹿島神に追いつく点、またその記事で「香取、鹿島」の順序で記載されている点から、物部匝瑳氏の活躍に伴う鹿島・香取神の神威逆転を指摘する説がある。


・1000年代の利根川下流域は、縄文時代からの内海が残って湾入しており(香取海)、霞ヶ浦、北浦、外浪逆(そとなさか)浦とも繋がっていた。


 霞ヶ浦や利根川沿いの低湿地の開発は近世に入ってからといわれる。


 利根川東遷事業とともに鬼怒川や小貝川下流域、新利根川の開削とその周辺の新田開発などが大規模に行われるようになっている。


・中世には、常陸大掾(だいじょう)氏が常陸国府の大掾職を世襲。


 職名を名字として勢力を拡大していき、戦国時代まで各分家が霞ヶ浦周辺を勢力下においている。


・江戸時代に入り、利根川東遷事業と呼ばれる一連の事業によって、利根川の水は霞ヶ浦方面にも流れ出すことになった。


 このことで利根川をさかのぼり、江戸川を経由して江戸に至るという関東の水運の大動脈が開通する。


 霞ヶ浦周辺の産物を江戸へと送る流通幹線となり、霞ヶ浦や利根川は東北地方からの物産を運ぶルートにもなっていたため河岸(かし)と呼ばれる港は大いに繁栄した。


 そもそも房総半島の外側を通る航路は、波が高く、潮の流れが速い。


 それに対し、内陸部の利根川~江戸川の内川廻しなら、

 大消費地の江戸まで、大量の物資を安定的に、ほぼ計算通りの日程で供給することができる。


 内川廻しの主要な河岸(港)へは、日本海から津軽海峡を経由した海船により米、海産物などが運ばれて来た。

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