○○が惚れた日 後編
ティラノ号はミカが馬房に近づくと、すぐさま馬房の扉にお尻を向けた。
「おーい、こっちに顔を向けてくれないかなー」
ミカは穏やかな声で色々話しかけたが、ティラノ号は耳を伏せて鉄の扉をガアンと蹴りあげ、拒絶反応ばかりだ。
「まあ、そうだよね。そりゃ、人間不信になるよな·····」
(人と馬の関係は騎乗において、指示を出して従ってもらうという点では、上司と部下の関係に近い。信頼関係が一番大事なのに·····例えるなら、ティラノ号からしてみれば、上司が急に代わり、いつも通りの仕事をしていたら上司から「君の仕事のペースについていけないから」という理不尽な理由で、殴られたり蹴られたりした状況だ。そりゃ、自己防衛のために噛んだり蹴ったりしたくもなる訳だな。トラウマにもなるだろう·····ウマだけに·····って悠長に考えている場合じゃない!マズイ!あと10分弱しかない!こうなったら強行突破だ!)
「おーい、ティラノ号!気持ちは分かるけど、馬装しないとお肉にされちゃうんだよー。協力してくれー。それにしても、良い筋肉ついてる後脚だねー」
ミカは馬房の扉の鉄格子から手を入れて、蹴られない高さの後脚の上部をなでなでした。
案の定、ティラノ号は「蹴りが届かないならば噛み付くまで」と言わんばかりに、入口の方へガァと顔をむけてきた。
ミカはそのタイミングを逃さず、扉を開け馬房に入り、噛み付こうとしてくるティラノ号の鼻面を右腕でホールドして、口を開けないように抱え込んだ。
その状態のまま、ティラノ号の瞳に自分が映ってるのを確認し、ミカは真剣な表情で話しかけた。
「ティラノ号、君を助けたいんだ。君を鞭でうったり、蹴ったり殴ったりは絶対しないと誓おう。お願いだ!1度だけ私にチャンスをくれ」
その言葉にティラノ号が逡巡した表情を見せた隙に、ミカはサッと無口をかけ、ティラノ号を馬房の外に連れ出し、引手をつなぎ場に繋いだ。
(残り9分か。タイムリミットを考えると、蹄の裏掘りやブラシがけしてる場合では、無いけど·····脚の健康状態の把握や、信頼関係構築には重要だしなぁ。うん。大丈夫。私なら3分あれば馬装出来る!)
ミカはティラノ号の鼻の前に、ブラシを差し出した。ティラノ号がフンフンとブラシを嗅いだ。
「今からこのブラシをかけていくからね。くすぐったかったりしても、噛むのは我慢してね。君の健康のためなんだ。·····首からブラシしていくねー。そうそう、いいこいいこ。うわ、すごい毛が抜けるね。しばらくブラシ掛けてもらってなかったんだね。綺麗な栗毛だねー。·····お腹のあたりもブラシするよー。くすぐったいだろうけど我慢しててね。ほら、噛もうとしたの見てたぞー。噛んだらダメだって覚えようねー」
ティラノ号は長年の習性が残ってるのか、ブラシが首から体の方にうつると、すぐ噛もうとしたり、隙を見て回し蹴りをしようとした。
しかし、そういった素振りを少しでもみせると、ミカがすかさず「蹴ったらダメだよー」「噛んだらダメだよー」と注意するので、この人に反抗しても無駄だと観念したのか、ティラノ号も次第に大人しくなった。
ブラシがけも裏掘りも終え、鞍をのせ終えたので、残りはハミをつけるだけとなった。
だがその時点で、問題が起こった。
ティラノ号が口を一切開けてくれないので、ハミをつけられないのだ。
(マズイ!あと1分くらいしかないのに!ティラノ号お願いだから口をあけておくれ!)
よく見るとティラノ号の口の右端に、古傷があった。
「ティラノ号·····ハミを引っ張られすぎて口を怪我した経験があるんだね。可哀想に、痛かっただろうに。そりゃ、ハミつけるの嫌になるよね。気持ちは分かるよ。でも、1回だけチャンスをくれ!私は手綱を無理やり引っぱったりは、絶対にしないから!」
必死の思いが伝わったのか、ティラノ号がうっすら口を開けてくれたので、ミカはその隙を逃さずハミを通し、頭絡を締め、ひらりと馬に跨り、馬場に出た。
「29分50秒か·····ぎりぎり命拾いしたな。だが、障害馬術の成績1位にならない限り、ティラノ号の処分は取りやめないからな!·····すでに、クロード様がエベレスト号の走行を終え、障害バーの落下はひとつもなく、減点ゼロで75秒という素晴らしいタイムを出している。これを超える成績は絶対に無理だろう!」
ウェイド先生が、歪んだ笑みで言い放った。
ミカはティラノ号を常歩させながら、障害の様子を見に行った。
障害馬術とは、馬で100センチ前後の10数個のハードルを超えていく競技のことだ。
馬が障害に触れるなどしてバーを落下させたら減点。また、馬が障害を避けたり反抗したら減点で、反抗が続くと失権となる。もちろん、落馬したり、経路違反をした場合も失権となる。
(120センチの障害が14個もある上に、ラストは水濠障害か。ティラノ号も私もブランクある状況だし、1位をとれって·····不可能に近いな·····)
水濠とは水を貯めた堀がある障害のことで、水の反射が怖いのか嫌がる馬が多い。馬は元来臆病な動物なので、普段から水濠によく馴らしてない限り、ほとんどの馬が反抗する、難関障害だ。
ミカが厳しい表情で障害を眺めていると、エベレスト号に乗ったクロードが申し訳なさそうな顔で軽速歩で寄ってきて言った。
「ティラノ号が1位にならないといけない状況と知っていたのに、申し訳ない。なるべくゆっくり駈歩したのだが、エベレスト号が優秀すぎて、良いタイムが出てしまった」
そこに黒鹿毛のフォルコン号に乗ったジェスが、近づいてきて喋りかけた。
「クロから事情は聞いたぜ!ミカも面倒なことに巻き込まれて、災難だったな!それにしても、クロもアホだなぁ。そんな状況なら最後にわざと経路間違いしたり、落馬してしまえばよかったのに!」
「その手があったか!·····考え至らず、すまなかった」
しゅんとしてしまったクロードに、ミカが慌てて言った。
「いいよ、いいよ!それにそんな事したら、一生懸命走ったエベレスト号が可哀想だよ!大丈夫!ベストを尽くして·····もしダメだったらウェイド先生に土下座でもして、ティラノ号の延命を頼み込むよ!」
「今日会ったばかりの馬のために、そこまでするのか·····」
クロードが非常に驚いた顔をした。
「まあね。それに、命を救うためなら、土下座なんて安いもんだよ!」
(本当はあのウェイドのクズに頭を下げるのは、心底嫌だけどね。)とミカは内心思いつつ、明るく話した。
そこにマックス号に乗ったソフィアが常歩でやってきた。今日、初めて乗ったとは思えないほど騎乗姿勢も綺麗で、馬の誘導も上手だ。
「ミカエル様、私のせいで大変なご迷惑おかけして、本当に申し訳ありません!」
「いいよいいよ!自分で言い出したことだし!ソフィアのせいでは一切ないから気に病まないでね!それにしても、初めて乗ったとは思えないほど誘導が上手だね!」
「有難うございます!ミカエル様!ジェス様のわかりやすい指導のおかげです!」
「ジェスって呼んでくれ!ジェス様って呼ばれるの苦手だから!ソフィアは本当に覚えが早いぜ!事前に本で読んでたからって、なかなか出来ることではないから、すげぇよ!」
そんな話をしていると、ウェイド先生から怒号がとんだ。
「何を無駄話しているんだ!授業中だぞ!馬装できた順の走行だから、次はジェス君の番だ!今のところ減点ゼロはクロード様1人だけだ。側近として、あとに続くよう努めろよ!」
「お、お呼びがかかったか!へいへい今行きますよー!1番にならなきゃミカに影響はなさそうだから、減点ゼロのタイム80秒くらいを目指すとしますか!」
ジェスは優雅に敬礼をし、スタートをきると、ゆったりとしたペースでフォルコン号を駈歩させた。ジェスは所々あえて遠回りをしつつも丁寧に障害をとび、最後まで減点なく走行をおえた。
タイムはジャスト80秒だった。
(ジェスは有言実行な奴だな。見習わなくては。見たところ、あと10分くらいで出番か。まずいな、全然時間が足りない。もっとほぐしてあげたかったけど、もう駈歩しておかないとな。)
「うわっ!」
ミカはティラノ号を駈歩してみて驚いた。反動がとても大きくて独特なのだ。
(これは、乗馬経験少ない人はすぐ落馬するな·····。)
その時、ウェイド先生の声が聞こえた。
「つぎは、ソフィア・キティお前の番だ!早く障害をとぶ準備をしろ!」
「えっ!·····」
ソフィアの戸惑う声が聞こえた。
ミカは怒りが湧き上がり、ウェイド先生のもとへ馬を走らせた。
(は!?何をバカなことを言っているんだ!?今日初めて馬に乗ったばかりのソフィアに120センチの障害をやらせるだと!?そんなことしたら、馬にも人にも悪影響しかないのに!平民をいじめたいのか何なのか知らんが、どうかしてる!)
ミカの行く先を、エベレスト号に乗ったクロードが遮った。
「ミカ!私がウェイド先生への抗議に行く!そんな無茶な事やらせないから、安心してくれ!ミカも、もうすぐ走行の出番だ。ここは私に任せて、ミカはティラノ号の準備運動に専念してくれ」
「クロード!確かに、あの権威主義の先生には、クロードの言葉の方が届くか·····。わかった、まかせた!ありがとう、助かった!」
ミカはクロードに任せ、準備馬場に戻り、練習用の100センチの障害を跳ぶことにした。
ティラノ号は障害が久しぶりらしく、興奮したのかオーバーペースになり、つっかかって跳んだので、後脚がひっかかり障害のバーが落下した。
(100センチでこの状況だと、120センチの障害飛越はかなり絶望的だな·····。いや、絶望してる暇はない。今やるべき事に集中しよう!後脚の硬さをとるために、もっと大きなリラックスさせた駈歩と、障害にもう少し慣れさせて勘を取り戻させて、障害を意識させ過ぎない誘導をしてあげなくてはな。)
クロードが上手く話をつけてくれたようで、ソフィアの走行は無事取り止めになったようだ。
次の出番の生徒が走行している。その生徒は、なかなか良いスピードで減点ゼロで走っていたが、ラストの水濠障害手前で馬が急停止して、落馬してしまい失権となった。
次はいよいよ、ミカとティラノ号の出番である。
ウェイド先生が、走行前にわざわざプレッシャーをかけにきた。
「いいな!忘れるなよ!成績1位になることがティラノ号の処分をとりやめる条件だ!クロード様の成績、減点ゼロ75秒より早いタイムでない限り、認めないからな!まあ、絶対に無理だろうがな!」
ミカはティラノ号で蹴飛ばしてやろうかと内心思いつつ、笑顔で応えた。
「チャンスだけでもいただけたこと、心から感謝します。出来る限り頑張らせていただきます」
ミカは競技馬場に入りティラノ号の首すじを撫でて落ち着かせ、敬礼をし、スタートを切った。
ティラノ号は何かのスイッチを入れたかのように、急にイキイキとした駈歩をしだした。
(ティラノ号·····この子、本番に強いタイプだ。·····もしかしたら、これならば行けるかもしれない!)
ティラノ号は1つ目、2つ目の障害をなんなく飛び越え、つづく3連続で設置されているコンビネーション障害も空を飛ぶかのようにスムーズに越えた。
ミカはカーブをショートカットできるように誘導し、時間を上手く節約した。
そして減点ゼロのまま、ついに14個目のラストの水濠障害にたどり着いた。
(どうしよう!?ティラノ号が水濠どれくらい苦手なのか分からない!突っ込みすぎると落馬してしまうし·····いや、でも、ここはティラノ号を信じるしかない!)
ティラノ号はミカの信頼に応えて、ラストの水濠を怯まず飛んでくれた·····が、ミカが迷ったぶん少し着いていくのが遅れてしまいバランスを崩した。
落馬はせずに済んだが、ティラノ号の後脚が障害のバーに少し引っかかってしまった。
バーはグラングランとゆれたが、幸いなんとか落下はしなかった。
「よかった!減点ゼロだ!タイムは?」
「タイムは73秒だ·····このクラスで成績1位はティラノ号ということだな·····」
ウェイド先生が、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
生徒達から、歓声と拍手が湧き起こった。
あとで聞いた話によると、ティラノ号の走行直前にジェスが生徒の皆に事情を話したとの事だった。
ティラノ号は誇らしげに、鼻をぶるると鳴らした。
「ティラノ号、ありがとう!お疲れ様!」
ミカはティラノ号の首を撫でて労ってあげてると、遠目にソフィアが顔を上気させてミカに熱い視線を投げかけている姿が見えた。ミカはソフィアに、笑顔で手を振ってあげたのだった。
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