3

「……あいつ、昼ご飯も食べない気かしら……」


 翌日、自分の昼食をダイニングテーブルに並べながらルシエルが呟いた。


 結局あの後、妹は宣言通りに母の研究室から出てこなかった。


 ルシエルが今朝起きてからもクラヴェルは朝食に下りてこなかったので、ルシエルは自身の分と屋敷外を警護してくれている軍人達へ、簡単な朝食を用意して持っていった。


 お天道様が一番高く昇った時間、朝と同じ様に外の軍人達に食事を届けようと、ルシエルが玄関ホールに出た時である。


 母の研究室の扉がおもむろに開いて、転がる様にクラヴェルが下りてきた。


「できたできたできたできたぁ! ルシエル、できた!」


 ルシエルに衝突せんばかりの勢いのクラヴェルに、ルシエルは両手に持った料理を取り落とさない様に体の向きを変える。


「何ができたのよ?」


「見てて!」


 こういう時ばかり年相応の笑顔を見せる妹に、ルシエルは仕方ないなぁ、と肩を竦めて、軍人達のための料理を扉脇のサイドテーブルに一旦置いた。


 得意になってわくわくとしている妹に向き直る。


 ルシエルがどうぞ、と態度で示すと、クラヴェルは張り切って床にカードを置いた。昨日、何なのかの結論が出なかった、あの謎の蛙のカードである。


「クラヴェル、何を……」


 聞こうとして、ルシエルの言葉が途切れた。その場に立ったままクラヴェルは両手を重ねてカードの真上にかざした。


 カードに向けた眼差しが、母・ジョルディーヌのものに重なる。


「『〈召喚士・クラヴェル〉の名において求める。其れなるは緑の体。大海を知らず雨を乞いては水の中に棲まう者――』」


 クラヴェルが言葉を紡ぎ出すと重ねたその手にほのかな赤い光が現れた。


 声も出ない程驚いているルシエルの目の前で、それは真っ直ぐ降りていってカードを包んだ。


「『彼の者の名は蛙。我が命に応えよ』」


 クラヴェルが続けた言葉でカードを包んだ光が強くなる。あまりの強さにルシエルは顔を背けた。


 すぐに光が弱くなってルシエルが目を開けると、そこには一匹の蛙がいた。


「うわぁあ!?」


 ルシエルが声を上げ、クラヴェルは鼻高々である。


 ゲコ、と一声鳴いた蛙の下にはクラヴェルが置いたカードがあって、蛙を掬い上げると、カードの絵柄からあの独特にグロテスクな緑の蛙が消えていた。


「…………えと、何、これ……?」


「召喚術」


 目を丸くするルシエルに、クラヴェルが得意げに答えた。


 呆然とするルシエルの手から、蛙が飛び降りて逃げていく。「……うそ……」


「昨日気づいた。このカードは、母さんが私達に残してくれたものだって。父さんが封印術の入門書を私達に残してくれた様に、母さんも私達に召喚術の基礎を残してくれた。二人とも、私達に術の素養があると考えてたんだ」


「すごい……すごいよ、クラヴェル! 召喚術なんて十年は修行が必要って言われてるのに、それをこんなに簡単に……まるで……」


 すっかり興奮している様子のルシエルに、クラヴェルは得意げに腰に手を当ててふんぞり返る。ルシエルの瞳には涙が滲んでいた。


「まるで、母さんみたいだった……!」


 ルシエルは蛙を両手に掬い上げて涙ぐんだ。妹はその様子に拳を堅く結んで宣言する。


「ルシエル、私はやるぞ。母さんより、ものすごい召喚術士になる。……そんで、その力で母さんと父さんを探し出す。軍の動きなんか待っていられるか」


「うん……うん……!」


 蛙が地面に跳んで降りると、ルシエルは涙を拭って答えた。



 *



「あれ。開かない……」


 両手に二人分の食事を持って玄関の扉を開けようとしたルシエルが言った。扉の向こう側で何かがつかえている様だ。


 なんとか二人がかりで開いた隙間から覗くと、護衛の一人が扉に背を預けて座り込んでいる姿がかろうじて見えた。ルシエルとクラヴェルはほっと息を吐く。


「なんだ、眠っちゃったんだ。でもしょうが無いよね……夜通し起きて護衛してくれてたんだから……」


「軍人さーん、おはようございまー……」


 クラヴェルが朝の挨拶をすると軍人の上体がずりっ、と動いて、そのままぐにゃりと力なく崩れ落ちた。


 彼が構えていたのだろうか、銃が傍らに落ちている。付近の地面に赤黒いものが染みこんでいるのが見えた。


 ルシエルがひっ、と息をのんだ時、クラヴェルは日の光に何かが反射するのを見た。森に囲まれているこの館の近くに、光る物など何一つ無い。


「ルシエル!」


 とっさに力任せに扉を閉めて姉を連れて階段下まで下がらない内に、銃弾の雨が扉に降り注いだ。


「どっ、どうしよう……!?」


「……こっちだ!」


 ルシエルはクラヴェルに引っ張られてサロンとは逆にダイニングへ入った。


 玄関扉が乱暴に開かれた音が聞こえる。侵入者の姿を確認せずに、姉妹は更に奥へと逃げた。


「お嬢ちゃん達~、どこかな~? 出ておいで~っ」


 侵入者の不気味な声を聞きながら息を殺して部屋を通り過ぎ、廊下を進み、姉妹は書庫の扉を開いてそっと中に滑り込んだ。


 慎重に鍵を掛ける。


「クラヴェル、どうしよう……逃げられないよ……」


 ルシエルの言うとおりだった。二人が逃げ込んだ書庫には他の扉や窓は全く無かった。


 クラヴェルは次の手を考えながら、書架の間を歩く。


 奥の壁に備え付けてある書架の前にたどり着いた時、突然足下が揺れ出した。地震だ。しかも、結構大きな。


「う、うわっ、こんな時に地震!?」


 ルシエルが悲鳴を上げ、遠くから何かが割れた音が聞こえた。


 クラヴェルはそうする間もなく目の前の書架から落ちてきた本に飲み込まれ――るかと思ったが、果たして揺れが収まると、奇妙な事が起きていた。


「クラヴェル……大丈夫……?」


「…………うん」


 落ちてきた本は、クラヴェルに全く掠りもしないで床にばらまかれていた。


 本がクラヴェルを避けた、と表現した方が正しいくらい、クラヴェルの足下に丸く円を描く様に、全く物が落ちていない。


 そしてクラヴェルは、抜け落ちた書架の奥に不思議な小窓の様なものを見つけた。


 その赤い小窓は、ちょうどクラヴェルの目の高さにあり、大きさもクラヴェルの手のひらほどだった。


 設置場所や用途から考えても、窓として使われたとは考えにくい。明かり取りとして設置されたなら、こんな所に書架は置かない。


 埃を払おうとして触れると、低い音と共に小窓が同じ色に輝きだした。


「おぅっ!?」


「どうしたの?」


 驚いて手を離したクラヴェルの声に、ルシエルが近づいた。


「な……なんか、変なのが……」


「……窓? こんな所に?」


「い、今、触ったら光った」


 妹の言葉を不思議そうに聞いたルシエルは、手を伸ばして窓に触った。何も起こらない。


「光らないよ?」


「そんな! でも、だって今は……!」


 ルシエルが手を離した小窓に、クラヴェルが手を伸ばしてもう一度触れると、窓は低い唸りと共に赤色に輝きだした。


 姉妹は顔を見合わせる。三歩下がって書架を見上げたルシエルは、次なる発見に声を上げた。


「見て、クラヴェル。こっちにも同じ様なのがある」


 ルシエルに呼ばれて、落ちている本を蹴散らしてそちらを見に行くと、書架一つ分挟んだ同じ所に、同じ高さに同じ大きさの小窓があった。


 ただし、こちらは青色をしている。


 クラヴェルは青い小窓に手を伸ばしてみるが、触ってもウンともスンとも言わなかった。


「……待って、なんか……ドキドキする」


 父親譲りの冒険心がうずいて、ルシエルが窓に触れた。


 それは低い音で青色に輝きだした。ルシエルはひゃっ、と叫んで手を引っ込める。その途端に光は静かに収束した。


「……!」


「なに、これ……。やだ、ちょっと、私、すっごく興奮してる! こんなの、冒険小説に出てくる『謎』そのものじゃない!」


「それに、私達それぞれに関係ある『何か』ではありそうだ」


 姉の反応にほっとしたクラヴェルはそう言って、二人は協力して本が抜け落ちた棚を外し始めた。


 木板と本をドアの前に積み上げてバリケードを作り、それから部屋の奥に戻る。


「いっせーの……でっ!」


 二人同時に小窓に触れる。


 輝きだした最初は同じく低い音で唸るだけだった小窓だったが、見る間にぐにょぐにょと形を変えだした。


 ルシエルもクラヴェルもその気味の悪い変化の仕方に眉を顰める。


 それでもその手は、母親譲りのスリルを楽しむ心と父親譲りの冒険心によって貼り付けられた様に、決して離れる事は無かった。


 互いに引かれ合うように形を変え続ける小窓がやがて混ざり合い、紫色に輝き出す。


 やがて一際強く輝いたそこに、金属で出来た重厚な両開きの扉が現れた。

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