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ドアの向こうにいた男の笑顔が、ルシエルの脳髄まで危険信号を送る。下弦を描く口元。目元は上弦を描いているが、一切の親しみを無くしている。
「ど……」
どちら様、と言おうとしたルシエルの言葉は、男の手が眼前に突き出した銃口によって遮られた。突然の出来事に、彼女の頭が真っ白に埋め尽くされる。
その一瞬が、酷く鈍く過ぎる。瞬間、何かがルシエルの耳元を掠めた。『召喚術のメカニズム』。それが男の腕に当たり、銃身がそれる。
「ルシエル、戻れ!」
本が飛んできた方向にルシエルが振り向いたのと、クラヴェルが叫んだのはほとんど同時だった。
駆けだしたルシエルを捕まえようとして、男の腕が空を掻く。
「くそっ…!」
途端、男の銃口が火を吐き、弾丸が逃げるルシエルの足下を掠めた。
姉妹が電話があるサロンを逃げ場に選んだ所で、次の弾丸が階段脇の棚を捉える。二人は駆けだした。
「あんたがあんな事出来るなんて、知らなかった」
喘ぎあえぎ、隣を走るクラヴェルに言う。
妹が狙った的にものを当てる腕力を発揮した記憶は、生まれてからただの一度も無い。クラヴェルが何とか答えた。
「自分でもびっくり。火事場のバカ力ってやつだね」
何が起こっているのか分からないが、とにかくサロンにある電話で助けが呼べる。
東方司令部か、あるいは近郊にある支部。どちらにせよ緊急用通報番号を推せば運命の針は生存に傾いてくれるに違いない。
サロン奥の壁にかかっている電話まで一直線に駆け抜け手を伸ばしたクラヴェルだったが、指が受話器にかかるより早く、そこに四発目の銃弾が打ち込まれた。
振り返ると、追いついた男が入り口を塞いでいた。火を噴いたばかりの銃口がこちらを狙っている。
ルシエルとクラヴェルの二人は壁に張り付き、じっと男を注意深く見つめた。
「お嬢ちゃん達、良い子だから、こっちにおいで」
男がニヤニヤ笑いのまま、口を開いた。
クラヴェルがルシエルの影に隠れる様に身動きすると、男は一層嗜虐的な笑顔になる。
「おじさんが怖いか? 大丈夫、本をぶつけられただけで怒ったりなんてしねえよ」
ルシエルは背中の帯袋に手を伸ばしたが、男はその瞬間、威嚇で引き金を引いた。
自分たちのつま先からほんの少し離れた場所が抉られて、姉妹は途端に身を竦ませる。
「手間ぁとらせるなよ……。こっちにこい。てめぇらにゃぁ聞きてぇ事がある」
男の顔が凶暴に歪む。ガクガクと恐怖におののく姉に代わり、クラヴェルはその影に隠れながらつぶさに男を観察していく。
凶悪な顔にひげ面。額に泥だらけのバンダナを巻いている。そして彼の言葉が本当であれば、“今この瞬間”には姉妹を殺す気が無いという事だ。
それはこれまでの弾丸の消費の仕方から見て、明白である。彼は脅しのために銃を使っている。姉妹に当てる気はないらしい。
今この場で反撃を考えるよりは、今のところは言うとおりにして隙を見るべきか。
クラヴェルがそう考えた時突然、サロンの窓ガラスを破って何者かが入ってきた。
「あぁ……!?」
男が顔を歪ませ、闖入者を見る。その数、三人。
武装している彼らの背中には、重ね金十字。軍の紋章だ。
三人の鍛え抜かれた軍人が場を制圧するまでに、時間はかからなかった。取り押さえられた男が軍人を憎悪に睨みあげる。
「間に合って良かった。危ない所だったな」
三人の軍人とは別に戸口から入ってきて深刻そうな顔でそう言ったのは、両親の上司であり親友、ルシエルとクラヴェルの兄貴分であるブレドルフだった。
いつもの爽やかな顔と違い、眉間に皺が寄っており、姉妹が初めて見た、兄貴分の軍人然とした顔だった。
「中佐! なんでここに?」
驚いたルシエルが言う。ブレドルフは僅かにその顔に親しみの色を見せたが、すぐに凜とした表情に戻った。
「……偶然な。お前達に、話がある」
*
姉妹はブレドルフをダイニングに通した。
ブレドルフとクラヴェルがソファセットに腰を落ち着けて他愛ない話をしている間、ルシエルがお茶を用意する。
話とやらをクラヴェルが促してもブレドルフは必死に先延ばしするばかりであり、二人が揃うのを待っている風だった。
玄関ホールや屋敷の外は、ブレドルフと一緒に訪れた軍人達で警備されている。何者にもこの時間を邪魔される心配は無い。
ブレドルフは人払いをしても尚、神妙な面持ちを崩さず、ルシエルとクラヴェルの二人は改めて、何か大変な事態が起きていると認識した。
軍人の親を持つ子供として、考え得る限り最悪の、考えたくも無い言葉が脳裏を過る。
「どうぞ、中佐……」
ルシエルが運んできた紅茶のカップをブレドルフの前に置く。彼は礼を言ったが、その表情は硬い。そして、少し、ため息を吐いた。
やはり嘘を吐くのが下手な人だ。そんな様子を目の当たりにして、最悪の事態を想像できない人など、いないというのに。
ルシエルが空のお盆を抱えたまま、クラヴェルの隣に腰掛ける。
ブレドルフは少しの間決心が付かない様だったが、やがて緩慢な仕草で懐へ手を入れ、一冊の本と一枚のカードを取り出した。
それをテーブルの真ん中に置き、一、二度何かを迷うように指先で撫でる。やがて意を決して長く息を吐くと、ルシエルとクラヴェルを見た。
「……君たちの両親、アレックスとジョルディーヌの二人が……任務中に消息を絶った……」
段々と苦しそうに、やや俯いて紡がれる言葉に、姉妹は息を飲んだ。「!」
「二人から、自分たちに何かあったら渡して欲しいと頼まれていた物だ」
ブレドルフはテーブルの上のカードと本を見遣り、姉妹の方へと差し出す。
ルシエルが震える指先でそれを受け取り、ぎゅっと胸に抱いた。
涙を流す姉に代わり、妹が尋ねた。
「失踪、という事は、まだ死んではいないという事だよね? 最後に連絡が取れた場所は?」
「…………機密事項だ」
「両親の安否が分からないってのに、足取りさえも明かしてもらえないんですか!」
「君たちの安全のためだ!」
強い口調で言われ、クラヴェルも閉口する。
しばしの沈黙の後、ブレドルフが口を開いた。
「……この村でも話は耳にするだろう。ここ数ヶ月、各地で暴動が頻発している」
それについては村の集会でもたびたび話題に上がっていた。
善良な農民ばかりが暮らすこの村が暴徒に囲まれでもしたら、自衛手段を持たない我らに命は無い、と話していたのを思い出す。
「……昼間と同じ様な暴漢がまた出てくるとも限らない。万一を考えてこれからこの家にしばらく護衛を付ける。いいか、これからは軽々しく家のドアを開けたり、窓を開けたりするな」
*
「中佐、何だか怪しくなかった?」
日はすっかり傾いて、オレンジ色に染まっていくダイニングで、クラヴェルは難しい顔でルシエルを向いた。
姉は「はあ」と曖昧な返事をして、膝の上の本とカードに目を落としている。そんな姉を見て、クラヴェルは少し、苛つきを感じた。
両親の安否が分からなくなって、心配なのは分かる。
しかし、それはもう起こってしまった事実だ。辛いが、どれだけ悲嘆に暮れても仕方が無い。事実は変わらないのだ。
今、私たちがするべき事があるとすれば、両親の足取りを調べる事、そして二人を探し出す事。
それが、スリルを愛した召喚術士・ジョルディーヌと、冒険野郎の封印術士・アレックスの娘のやるべき事だと、クラヴェルは思った。
残念ながら、『失踪』以外の情報をブレドルフは頑なに開示しなかった。
血縁より重視されるのは軍の機密だ。「捜索はされるんですよね?」と詰め寄ったルシエルに、ブレドルフは「ああ……」と歯切れ悪く答えた。
すなわち両親の行き先は軍の機密として扱われる物であり、最後の足取りをブレドルフは知っているのだ。
ブレドルフの執務室に機密書類が残っていれば、両親の行き先は分かるだろう。
それに「君たちの安全のため」という言葉も気にかかる。
いくら暴動が頻発しているとはいっても、それとこれとは話が別だ。それにルシエルは気にしていない様だが、昼間の暴漢が口走った言葉。
『てめぇらにゃぁ聞きてぇ事がある』
一体見ず知らずの暴漢が初対面の娘達に何を聞くというのか。金のありか、というには少々言葉が大げさすぎる。
うまく考えが結びついていかないが、両親の失踪と今日の暴漢とは、無関係とは言い切れない気がした。
「父さんと母さんがくれたもの、これ、一体何なんだろうね?」
ルシエルがおもむろに言って、クラヴェルは思考を中断する。
姉は、中佐から受け取った本とカードを両手に持ち、まるでそこに両親が見えている様な眼差しを向けた。
クラヴェルは再び考え込む。本の方は見れば判る。表紙と背表紙には、金字で『封印術の手引き』と書かれている。
そしてそれが、父の上司であり親友でもあったブレドルフの手から渡された物となれば、答えは一つ。
誰もが天才と称した封印術士であった父は、自分たちに何故こんな物を残したのだろうか。
そして――
「これ……何だろう…?」
クラヴェルは目の高さに持ち上げたカードを裏表に回しつつしげしげと眺める。
大きさはタロットカード程。絵柄には緑色の蛙が、グロテスクともとれる独特なタッチで描かれている。その絵柄以外には特筆して何も変哲は無し。
何故、父の持ち物と一緒にこんな物が?
いくら考えても答えが出てこず、クラヴェルはカードについて考えるのを止めた。
元々クラヴェルは、考え続けるという事がどうも苦手だ。考えている時間の分、家にあるお気に入りのソファに座って、読書をした。
一つの思考に、自分の時間を割いていられない彼女の性格は、誰が呼んだか『なるようになれ体質』として村の中では知られている。
今またその性質が、発作を起こしたらしい。
クラヴェルはおもむろに姉から『封印術の手引き』を受け取り開いた。本を読む時の直前動作として足を組むのは、もはや身体に染みついてしまっている。
「何だこれ!?」
そんな妹の声につられて、ルシエルも開かれたページを覗き込む。
そこにあったのは、見慣れない文字列だ。いくつものうねりを繰り返したり、線をいくつも重ねたほとんど黒ずんでいる箇所が目立つほどある。
象形文字の様でもあるし、楽譜の様でもある。異国の言葉ならまだ訳しようがあるが、見たことも無い文字は訳しようが無い。
クラヴェルはこの様な文字を見たことがあるか、少しの間記憶を遡ってみた。しかしこの文字に該当する記憶は無く、頭を振って音を上げる。
「やめだ、やめ! 何だ、父さんの本みたいだったから、面白そうな本だと期待したのに……」
クラヴェルが本を閉じようとした時、それまで開いたページを見つめたまま黙りこくっていたルシエルが、突然口を開いた。
「…『封印術の起源は古代王朝とされている。その昔、かの国の王が原因不明の死を遂げた時、要人達が、永遠の眠りについた王が盗賊に汚されるのを恐れ、棺と仮面でその御身を護り、誰も決して入られないよう、冷たい墓中の扉を魔術で頑なに閉じた事が始まりとされている。』」
すらすらと姉の口から出てくる言葉を聞いて、クラヴェルは目を丸くした。更に続きを読み上げようとする姉の横顔を凝視する。
「……読めるの……?」
呆けた顔で尋ねた妹に、姉はきょとんとして答えた。「普通に」
「この文字、小さい頃に父さんがよく読んでくれた絵本に書いてあったから」
「本当か!?……私は記憶に無いぞ……?」
訝しむクラヴェルに、姉はくすくす笑いながら答えた。
「クラヴェルは何でか、父さんに絵本読んで貰うの嫌いだったんだよね。父さんが読もうとすると、耳塞いでいやいやするの。あの頃は可愛かったなあ」
可笑しそうに笑っていたルシエルの顔が急速に陰った。昔の出来事と一緒に両親の事を思い出したらしい。
「……父さん……母さん……」
ルシエルが静かに呟く。妹が姉を励ます言葉をオロオロと探そうとすると、もう一冊の本がその視界に入った。
『召喚術のメカニズム』。暴漢への必死の抵抗として戸口に落ちていた本を、ブレドルフの副官が拾って渡してくれたのだ。
その瞬間謎が解けた。
「あああああ!」
「えっ、何っ、どうしたの!?」
俯いていたルシエルが、突然奇声を上げた妹に驚いて顔を上げた。
クラヴェルは左手で『召喚術のメカニズム』を引っ掴んで、右手にカードをむんずと掴んだ。そして背中を向け、駆け出す。
ぽかん、と呆気にとられた姉に、階段に足をかけた妹が興奮して言っているのが聞こえてきた。
「私はこれから、母さんの研究室に籠もるから! 晩ご飯もいらないから、出来ても声かけないで! いや、何があっても声かけないで!」
そう乱暴に言い置いたクラヴェルの乱暴な足音が二階に上がって行き、乱暴に開いたドアが乱暴に閉まった音がして、ホールの高い天井から少し埃と木くずが落ちてきた。
「……私だけ落ち込んでて、馬鹿みたいじゃない。ご飯食べよう」
そうルシエルは呟いて、キッチンに立った。
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