Ⅲ
彼の履いているブーツはBarkerのものだ。もう百年以上履いているのだがエイジングは程よいところで止まっている。悪魔は人間の時間軸に縛られないためだ。彼はコツンコツンと足音を立てながら教会を歩いていく。真夜中の教会は電気もつかず、火も灯っていなかった。だからこそ悪魔の白い髪だけがぼんやりと輝いていた。悪魔は教会をぐるりと見渡してからため息を吐いた。
「パパパパンパパーン! オレが来たぞ、マイ・フレンド!」
彼は誰かに話しかけていた。明確に、『誰か』に。
「ところで『小瓶』はいるか?」
悪魔の言う小瓶というのは『あの小瓶』だ。『あの小瓶』の中ではありとあらゆるものが停止する。つまり、その小瓶は『永遠』だった。そんなものを「お前が欲しいって言うならやるよ」と悪魔は歌う。『誰か』に向かって誘惑の言葉を吐く。
「アレ?」
しかし一向にその『誰か』からの返事がないことに悪魔はきょろきょろと不安そうに目を泳がせた。
「なあ! 姿ぐらい見せてくれよ。オレのことがそんなに嫌いか……?」
「悪魔を好きとは言い難いです。それからきみの『小瓶』はいりません」
その『誰か』の返答に悪魔はパっと表情を明るくした。まるで飼い主を見つけた犬のように彼は満面の笑みでその声がした方向を見た。そこには手持ちの燭台を持ったひとりの男が立っていた。その男は艶のある黒髪を後ろに流しアジアンらしい涼し気な顔を晒していた。その灰色の瞳は燭台の光を吸い込み、蠱惑的に輝いている。キャソックを身に着けたその男は「八年ぶりか」と悪魔に微笑んだ。
「槙島! 会いたかった! お前もオレに会いたかったよな?」
「ハイハイ……しかし、悪魔よ、なにもこんな夜中に来ることはないでしょう」
「起きたらこの時間だったんだ。なあ、オレの角はどうしたんだ?」
「きみが忘れていった角のことですか? 大司教様に捧げましたからもう消滅したでしょう」
「ああ、そうか。まあ、お前の役に立ったならいいさ」
「俺の役には立っていませんが……本当に八年も気が付かなかったのですか?」
「寝てたからな。寝てるときはアレ邪魔なんだよ、おかげで快眠だった。そんなことはどうでもよくてな、槙島、お前が元気そうで……アレ?」
悪魔はそこで言葉を止めて不思議そうに首をかしげた。
「元気そうだな、お前?」
槙島は肩を竦めた。
「若い頃はこうだったでしょう?」
「そうだ。たしかに若い頃のお前はそうだった。でも……アレ? ……ウウン? オレはお前とお揃いの髪にしたつもりだったんだけど……」
「そうですね。実は白髪に飽きましたので今年は毛先だけそのように染めていたんですよ。やはりお洒落な髪型ですね、それは……『最後』まで信徒から不評でしたが……悪魔よ、本当にまだ気が付いていないのですか?」
悪魔は両手を槙島の方に差し出しヨロヨロと近づいた。そうしてその両手で槙島の肩をつかみ、首をなぞり、そうして両手で槙島の頬を掴んだ。それから悪魔は「ギャン!」と叫んだ。
「お前、これ、……『魂』じゃないか! 『肉体』はどうした!」
「先ほど死にました」
「『死んだ』⁉」
「だから今は魂だけです。つまり俺の魂は若いということですね。よかったです」
「『よかった』⁉ なにもよくないだろ! え、お前、なんで死んでんだ‼」
「俺は九十八歳ですから、死ぬのは自然なことです」
「預言者だろ⁉ 九百年ぐらい生きろ!」
「人の寿命は百二十年に縮められましたから」
悪魔は槙島の頬を撫でまわし頭を撫でまわし腕を撫でまわし腰を撫でまわし「なんでだ!」「なんでそんな……」「お前が死ぬなんて!」と騒いだ。槙島はそんな悪魔の様子を微笑ましく眺めていた。騒ぐ悪魔の金色の瞳から流れ星のように輝く涙を落ちていた。
「やだやだやだ! お前が死ぬなんていやだ! お前どうせ天国行きだろ! いやだ! なんでもいいからオレから欲しがれよ! そしたらお前の魂は全部オレのものだ!」
「神よ、この愚かな悪魔を赦したまえ。自分がなにを言っているのかわかっていないだけなのです」
「聞けよ!」
悪魔は槙島の頬を掴み「聞けよ」と泣いた。
「天国なんてろくなところじゃねえ。どいつもこいつもニコニコ、ニコニコ。怒ることなんてないし、欲しがることもないし、泣くこともないんだ! あそこには音楽だってろくなもんがねえんだ! 讃美歌! 讃美歌! 讃美歌! それだけだぞ! お前の好きなカートだって地獄にいるんぞ⁉」
「それは知りたくなかったですね……、カート、安らかに眠っていてほしかったのに……」
「ニルヴァーナの復活ライブは地獄でやるんだからお前も地獄に来いよ!」
「俺の中でニルヴァーナは永遠ですから復活しなくても構いません」
「お前の中のニルヴァーナが永遠でもお前の肉体は死んじゃったじゃないかぁ!」
悪魔はビャンと泣いた。槙島はハハハッと声をあげて笑った。
「なんで笑うんだ!」
「悪魔が泣くからですよ」
槙島は信徒席に座ると「おいで、悪魔。最後の話をしましょう」と言った。悪魔は槙島の隣に座り、槙島の手を握った。その真っ白な悪魔の手を見てから槙島は小さく息を吐いた。
「人が死んだぐらいでそんなに泣くことはありません」
「お前が人なんて思ったことはない」
「ならばなんと思っていたのです?」
「友だちだ!」
悪魔はボロボロと涙を落とす。槙島は眉間に皺を寄せた。
「だって、オレは、……オレはそそのかしただけだ。それが仕事なんだから仕方ないだろう? そそのかせって言われたからあのイブって女に林檎を食べるようにうながしただけで、食べたのはあいつの意思だ! ……それが『原罪』だからって、お前はオレのこと信じないなんてひどいじゃないか。お前はあの林檎もあの女もあの男も見たこともないくせに、オレのことは見えているくせに、なんでオレを信じてくれないんだ。オレにはお前しかいないのに……なんでお前はオレを信じてくれないんだ!」
「悪魔は口が上手いものですね」
悪魔にとって槙島は唯一の友だちだったが、槙島はそれを信じてはいなかった。何故なら悪魔は悪魔だからである。とはいえ槙島は泣いている悪魔の涙をぬぐわない人間でもなかった。悪魔はその槙島の手にすがって「やだよ」と泣いた。
「天国なんかに行かないでくれ。オレが行けないところに行かないでくれ」
「審判は俺の仕事ではありませんから、俺の魂の行き先は俺が決められることではありません」
「お前は天国行きに決まっているだろ! 予言者だぞ⁉」
「こうして悪魔と話しているだけで地獄に落ちるには十分かもしれません」
「そんな理不尽なことがあってたまるか! お前は天国行きなんだよ!」
「きみは俺にどうしてほしいのです?」
「死ぬなよぉ、ずっと一緒に楽しくやろう……」
「もう死にました」
「ウワアアア……アアア……」
槙島は幼い子どもを相手にするように悪魔を抱きしめ、「ごめんね」と謝った。それは口先だけの謝罪ではなかった。魂は嘘を吐けないものだし、そもそも槙島は嘘を吐かない男だった。
「俺がきみをひとりにしなかったことで、こうしてきみをひとりにしてしまいました」
「そうだ、お前はオレを永遠にひとりぼっちにする! なんてやつだ! なんてやつなんだ、お前は!」
「きみには星があるのでしょう? 何度も誘ってくれた美しい星……『とても素敵な星だから一緒に住もう』って何度も仰っていたでしょう……そんなに素敵なところならひとりでも寂しくありませんよ」
「お前がいなきゃ寂しいに決まっているだろ!」
「……俺を困らせる可愛い悪魔よ、泣くのはやめなさいい。人がひとり死んだだけです」
「『だけ』⁉ そんなわけがあるか! オレの唯一の友だちが死んだんだ! なあ、復活しろ、神になれ! そしたら永遠に一緒に居られるじゃないか! 今すぐ生き返れ!」
「俺はこれから審判を受けて、もし天に昇るならそこで復活を遂げ、地獄に落ちるならそこでチリと化すのです。少なくともこの地球に戻ることはありえません。俺はキリストではないのですから」
槙島がそうして悪魔の癇癪をなだめていたら、急に外が明るくなった。悪魔はハッと顔を上げ槙島を見た。槙島は「ああ、迎えですね」と外を眺めた。
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