十二月二五日の遺書

安村 明日香

 

 私は、とくべつな何かになりたかったのです。

 電車が近所の駅を通過するたびに、この狭くて古いアパートはミシミシと音を立て、地震が起きたかのように揺れます。ここに住みはじめた頃は毎回驚き、恐怖のような、背中が粟立つ感覚を覚えていましたが、最近では、何も思わなくなりました。もう二年も経つのです。アパートの他の住人とも、とくに挨拶をすることなく、ぺこりと会釈だけして、大学へ向かいます。大きめのマフラーに顔を埋めると、私の吐息で、少しだけマフラーが湿ります。

 ちゃりん。

 毎朝、ちゃんと早くに目覚めてはいるのですが、あまりにもゆっくりとしすぎるため、自転車を飛ばす羽目になるのでした。自転車を飛ばすと、薄い手袋越しに冷たい風がびゅうびゅう吹いてきて、大学へ着く頃には、指先は赤く色づき、氷のように冷たくなってしまいます。耳も心なしかどこか遠くなっていて、マフラーに覆われた首だけが唯一温かく、私はふっと白い息を確かめて、自転車の鍵を抜き取ります。ほのかに暖房の効いた教室に入り、友人と挨拶を交わして、席につきます。ありきたりな毎日。

 こうして日々を過ごしていると、申し分なく幸せではあるのですが、たまにどこか物足りないような、やりきれないような感じに襲われます。一六のときから始めたもの書きもうまくいかないようで、誰にも何も分かってもらえず、ただ執筆したということにすごいと言われるのみです。ものを書けることを褒めることで、私が喜ぶとでも思っているのでしょうか。何かを与えられなければ、感じてもらわなければ、意味がないのに。おこがましい欲求に身悶えしながら、私は小説を諦め、今度は歌を頑張ることにしました。と言っても、どこかへ通うお金もなく、カラオケに行って自分の声を録音して聞き、そうして、耐えられなくなってやめました。これだけは優れているだろうと思っていた自分の声も、なんて拙く、ふらふらとして――はっきりと言いましょう、これっぽっちも美しくなかったのです。カラオケに行くのにもお金がかかりますし、私は小説よりも随分早く、歌について考えるのをやめました。

 結局、私には小説しかないのでしょう。高校生のときにたった二年間書き続けただけの、それでも、私に残された唯一の手綱。小説を書くのはそれほど好きではありませんでしたが、ストーリーを考えるのは好きでした。妄想のなかではいくらでも傑作が生み出せるのに、いざパソコンに向かうと、どうしようもない文章ばかりが生まれて、少しも面白くないものばかりになってしまうのです。なんとかすべてを書ききると、今度は自分が生み出したものがとてつもなく素晴らしく見えてくるようになります。まわりのどの作品よりも自分のものが優れているように見えるのですが、決して、そんなことはないのです。ええ、決して。

 高校時代に所属していた文芸部には、何人かやめていく人がおりました。それなりに真面目に活動したり、部室で駄弁ったりもして、居心地のいい部活ではありました。一年生の頃は見当違いな発言をよくしていましたが、それでも先輩などは怒りもせず、単にご自分の意見だけ述べて、それからはずっと黙っておられました。私と同じ学年には、よく意見する人がもうひとりいて、彼女と私は、よく対立していました。仲は悪くなかったのですが、どうしても、お互いのことを好きにはなれないようでした。文芸部をやめていったのは、私でも彼女でもない、美しい文章を書くひとたちです。私には到底描けない、透明な澄み切った世界、あるいは、大人びたもの悲しいストーリーを残して、彼らは去っていきました。勉強に専念したいとは、本当でしょうか。みんな他の部活にも所属していましたが、やめたのは、文芸部だけだと聞きました。

「もう、小説書かないの」

「うん」

「今回のなっちゃんの作品、本当に好きなのに」

 と、私は最後にやめていった女の子に話しかけました。やめないでほしいと願いました。けれども、女の子は、今回は頑張ったから、と微笑んで、あっさりといなくなりました。

 知らぬ間に誰かを傷つけている無意味さ。私と、よく言い争いをする女子が、あまりに価値のない、わがままな問答ばかりを続けているから、愛想を尽かされたのだと思いました。しかし、いいえ、本当は、すべて私が悪いのです。県内のコンクールで、私は一つ、賞を取りました。小さな県なので、応募人数も少なければ、文芸もそこまで盛んではありません。賞をとるのは簡単でした。審査員の気に入りそうな、思春期に差し掛かった高校生の書きそうなものを提出すればよいのです。私がとったのはもっともよいとされる賞で、私の学校からは、他に二人ほど受賞していました。やめていった子には、何もありませんでした。浅い作品で賞をとった私は大きく自信をつけ、さも文学がわかっているかのように振る舞いはじめました。

 たしかに、あのとき私はとくべつだったのです。しかし、どう取り繕っても、所詮は普通の人間でした。

 告白しましょう。私は、先生に恋をしていました。

 銀縁の眼鏡をかけた、首にかかるくらいの、ちょっと長めの柔らかい黒髪を持つ先生。国語科の準備室で、夕方、私の差し出した原稿を「できたのですね」とだけ言って受け取り、ぱらぱらとページを繰って、にっこりとお笑いになる姿が素敵でした。準備室はいつでも心地よい温度になっていて、先生の机の上のコーヒーからは湯気が立ち上っています。部活の相談のために準備室に長居していると、たまに先生がマグカップを手にとられます。先生は、お口へ液体が口に触れるか触れないかくらいのところで、なぜか毎回、マグカップを卓上へ戻すのでした。芳賀先生、といいます。あれほど恋い焦がれていたのに、もう一年、まるっきりその名前を思い出さずにおりました。細めの体躯に涼やかな瞳、生徒のあいだではそこそこ評判もよかったと思います。当時は二十の後半でしたが、スーツを着ていると、ブレザーを着た男子生徒と混じってしまうくらい、若い顔立ちでした。合宿のときも、宿の人に引率がいないと勘違いされていたのですが、先生は最後までお気づきになりませんでした。部員たちはそんな先生をくすくすと笑いながら、絶対的な信頼を置いていたのです。先生は文学に関しては、たしかな目を持っていらっしゃいました。

 合宿の最後の夜は、宿の近くのコンビニで花火を買って、近所の公園で遊びました。花火を両手に持って騒ぐ男子、火の消えた線香花火を片手に持ちながら内緒話をする女子、それから、私は先生の線香花火に、ライターで火を付け続けていました。今考えると、相当おかしなことをしていたものです。先生の傍には線香花火の束が置かれていて、先生はその束を、一本ずつ消化していきます。「なんだか、もったいないですから」先生は額を流れる汗を左手で拭いながら、とうとう、すべての花火を使い終えました。私はそのあいだ、とりとめのない話をしたり、静かに座っていたりしていましたが、心臓はずっと、どきどきしていました。先生は、唐突に眼鏡を外して、Tシャツの裾で拭きながら、おっしゃいました。

「家内が、花火が好きでして」

 へえ、と思いました。心臓はさっきよりも一段と早く打ち乱れていますが、血液は下の方へどんどんと下っていくようです。先生は再び、そこまで綺麗になっていない眼鏡をつけて、髪の毛を右耳にかけ、「もう、亡くなったのですが」と静かに続けました。私の心臓は、いよいよ破裂しそうなほど膨らみました。これ以上ないくらい先生を愛しく思いました。咄嗟に、

「先生」

 と声が出ましたが、先生は私のほうを一瞥もせずに、

「はい」

 とゆるやかに返事をするのみでした。私はすっかり勢いを失って、

「私、文学部に進もうと思います。でも、小論文の書き方が分からないのです。先生に教えていただきたいのですが……」

 と尻すぼみ気味になり、俯きました。

「葛西先生とか、横田先生とかじゃ、だめなんですか」

 葛西先生は私のクラスの古典の先生、横田先生は現代文の先生です。

「芳賀先生がいちばんやりやすいですから」

 それもそうですね、と先生は苦笑を浮かべ、立ち上がって、私たちに花火の片付けを命じました。私はライターをカチカチと、火を出したり消したりしながら、先生の傍をそうっと離れました。甘美な時間へのときめきと苦い後悔が交互に訪れ、私は、後ろで束ねた髪の毛先を人差し指に巻き付けて、みんなについていきました。


  ひそやかにおちる心よ遠花火


 三年生になると、部活を続けていた人たちも引退ということになり、誰も小説を書かなくなりました。最後まで、私はつまらない作品を書いては、鼻高々に見せびらかしていました。芳賀先生に小論文の書き方を教わり、また添削していただき、なんとか私は第二志望の大学に滑り込むようにして合格しました。三月に、後輩たちが私たち卒業生のためにちょっとしたお食事会を開いてくれたので、私は大人っぽい紺の服に着替えて、先生の斜向かいで、ケーキを食べておりました。当然のことですが、やめていった人たちのケーキはなく、私は言いようもないほど寂しくなったのです。彼らがいなければ今の私もなかったのですから。そうして、私は最後に残った部員たちの誰ひとり、好きではないことに気が付きました。



 窓の外は雪景色、今日はホワイト・クリスマスです。まだ一七時ですが、空はもうほとんど黒く、雪がひときわ、輪郭をつくっていきます。電気代の節約のために、私は布団のなかに入り込んで、じっとしております。こどものころ、雪の結晶が好きでした。透き通ったガラスのような、でもガラスよりも表面がつやっとしていて、さまざまな色を反射して光る薄板。私はあれに憧れたのですが、雪が降る地方ではなかったし、到底見る機会はありませんでした。東京は、たまに雪が降ります。毎年、時雨のような雪と、積もるような大きな雪が交互に降って、そのたびに人々の気が滅入っているようです。私にはまだ物珍しいですが、いつか、うんざりするようになるのだと思います。雪の積もっているあいだは、自転車に乗ることができないのです。雪は塊で降ってくるので、想像していたような雪の結晶は、まだ見ることができていません。見ることができたとしても、今となっては、そこまで感動しないのでしょう。

 大学に入ってから、男の子をひとりだけ部屋に呼びました。薄いアパートの壁越しに、隣人がテレビを見て笑っている声が聞こえてきたので、私と彼は顔を見合わせて、互いにいたずらっぽい笑みを浮かべました。いつも聞こえるんだよね、と私が囁くと、彼は呆れたような表情をつくって、やだなあ、と言いました。冷蔵庫から二本チューハイを取り出して、一本を彼に手渡します。本当は、所属している文芸サークルの冊子のための執筆をする予定だったのですが、想定していたとおり、会話がはずみ、お酒を飲んだあと、気づかぬうちに二人で寝入ってしまいました。先に起きたのは彼のほうで、彼がスマートフォンをいじっているのを寝ぼけ眼で確認していると、彼はちらっとこちらを見て、「起きました?」と訊きます。知らぬ間に隣の部屋はずいぶんと静まり返っていて,この世に私たちふたりだけしか存在していないのではないかという錯覚に襲われました。私は寝転がったまま、カーペットの上に放置されていた冊子を手にとって、ページを捲りました。過去にサークルで発行した文芸誌ですが、所詮、学生が書いたものなので、大した内容はありません。そこそこの頻度で自分が書いた作品のページを眺めているので、パッと開くとそれが現れます。私は慌ててページを進めて、残照、と彼が書いた小説のタイトルを読み上げると、彼は焦ったようにスマートフォンを放り出して、私の手から本を取り上げました。

「だめかぁ」

「だめに決まってるでしょ」

 好きなんだけどなあと私は呟きながら、起き上がって、彼のスマートフォンを拾いました。彼の気を引くための、小さな嘘でした。本当は少しも良いなんて思っておらず、ありきたりなものを書く人だと思っていました。ですから、ふざけて「どのあたりが?」と問うてくる彼の口を、キスをして塞いでしまおうかと考えました。その妄想には心が躍りましたが、私は彼の恋人でも何でもなく、ただの変態になってしまうので、実現はしませんでした。私もふざけて「全部」と返事をしました。実際は、私のほうが、彼より書くのがうまいのです。

 プレパラートを作るときにスライドグラスを何枚も割ってしまった話をしたら、彼に不器用だと笑われました。雪の結晶、透明な薄片を半分に折るのが、どれほど容易いのか、彼は知らないのでしょうか。脳裏でいくつもの美しいものが、パリン、パリン、と壊れていきます。

 誰も本当の私のことなど分かっていません。私の居場所は、どこにもないのです。



 昨日はクリスマス・イヴだったので、私は薄っぺらい赤色のコスチュームを身に着けて、ケーキの売り子をしていました。いくら生地が暖かくても、風が服の中を通り抜けていくので、アルバイトは皆ぶるぶると震えています。私はケーキ屋の中と外を往復しながら、どんどん感覚が失われていくのを楽しんでおりました。私が私であることがだんだんと不確かになるさまに、このまま、熱でも出て倒れてしまえばいいと心の中で繰り返しました。サークルの人たちが一回、冷やかしに来て、私は少しだけほっとしました。彼らが去っていったところで、アルバイトの男の人から、不躾に「あのなかにあなたの彼氏がいるんですか」と話しかけられたので、私は驚いて、「違います」と答えてしまいました。彼は、清潔感があって、若いように見えます。しかし、脂ぎって歳をとった男性へ対する嫌悪に似たものが渦巻いて、私はその人の傍から距離を置きました。たった一日アルバイトで同じというだけなのに、プライベートなことを聞いてくるなんて、と私は脳内で反芻しました。私に気があるのではないかと思いました。

 男の人は、汚い。けれども、はたして、私とどちらが汚れているのでしょうか。誰にも好かれたくないと思っておきながら、実際に好意を寄せられると、自分に魅力があるのだと、仄かに嬉しくなります。昨日の帰り道は、ちょっとだけ浮かれていて、でも、家の近くのやたら明るい商店街まで来ると、涙が出てきました。私はクリスマス・イヴに一人なのです。街灯の下の私の影に抜かされたり、影を追い抜いたりしながら、一生、こうやって人生を続けていくのだという予感に胸を締め付けられていました。先ほどの男の人で寂しさを紛らわせることを想像して、また、余計に涙が溢れてきます。

 私が好きになる男性は、私のことを好きになってはくれないようでした。いつも、好かれようと見苦しい策を講じ、見抜かれて距離を置かれます。サークルの男の子も、あれ以来なぜだかよそよそしくなって、言葉をかわすことも、もうほとんどありません。彼の書く小説は相変わらずちっとも面白くなく、誰にでも書くことができそうな文章です。先日、と言っても五ヶ月ほど前になりますが、芳賀先生に再会しました。少し家から離れた場所の花火大会で、特に何か目当てがあったわけでもないのですが、普段着でかき氷を食べておりました。先生はあまりお変わりなく、飄々として、私に気づいたときも、目を小さく見開いたのみでした。

「大学は楽しいですか」

「はい、おかげさまで」

 本当は、惰性で通っているだけなのです。

「なら、良かったです」

 先生は目尻を下げて微笑み、私はそこではじめて、先生も私と同じように歳を重ねているのだ、と実感しました。地響き、破裂音とともに花火が散っていくのを横目で見て、私は、綺麗、と呟きました。夜空から落ちる何本もの色とりどりの線を本当に美しいと感じていたのか、今となっては定かでありません。先生は私の独り言に対してしみじみと、本当に、と返事をされました。私は一瞬どきりとして、はっと顔を上げましたが、先生は私のことなどちっとも見ておらず、花火を愛しそうに眺めていらっしゃいます。亡くなった奥さんに思いを馳せていたのでしょうか。すとん、と心臓に何かが落ちる感覚があって、高校生のときの恋心の記憶も、それきり、淡く溶けていくような気がしました。

 先生。私、先生のことが好きだったのです。

 するりと口から滑りだしてもおかしくないくらい、頭のなかで何度も繰り返しました。花火が上がると、先生の顔もパッと明るくなって、そしてまた、薄暗く沈んでいきます。色と色、リチウム、ナトリウム、エトセトラ。ぼんやりと打ち上がる花火を眺めていると、なんだか胸が詰まって、泣きそうになります。同時に、しんから笑いがこみ上げてきて、私は喉もとから声が漏れそうになるのをこらえていました。先生のことが好きだったのです、でも、言葉にするとすべて嘘になって、私のほんとうの気持ちなんて、どこかへ行ってしまいます。指の間からこぼれ落ちる砂みたいに、もとの姿かたちはあっという間に崩れ去っていきます。

 それから、私と先生は、二言三言、花火の音にかき消されるような声でお話をしました。先生が異動したこと、もう文芸部の顧問はやっていないことが、私が得られた半分の情報です。私は、今も小説を書いているということだけ伝えました。

 帰り道は、不思議な気持ちでした。私は好きな人のことを一生超えられない、横に並ぶことすらできないのだと、はっきり予感していたはずでした。好きな人が好きでなくなった喪失感。いいえ、本当は、何も好きではありませんでした。私は一生、何も、心から好きになることはないのです。

 先生、私は、死のうと思います。死ぬ勇気など微塵もありませんが、私は、死ななくてはなりません。私は早く、今すぐにでも、死のうと思います。

 密かにそう宣言してから、ほとんど毎日、私は死ぬことを考えていました。それでも、痛みを伴うことや、意識がなくなることへの恐怖から、私がこの世を去るときは、ついに今まで来ませんでした。線路へ身を投げだしてバラバラになるのも、海の底でぼろぼろになるのも、妄想のうちでは晴れやかな気持ちでいられましたが、実際に、そのあと家族がいろいろな手続をすることなどを考えると、興ざめしてしまうのです。ただ、私の肉体や精神がなくなることを想像するのには心が躍りました。今こうして、遺書と題うって文章を書き連ねているのも、そうした行動の一環に過ぎません。

 何が高尚なのでしょう。なくなっていくもの、儚いものを美しいと思うのは、そう思いたいからでしょうか。私は、死ぬことを考えると少しだけ恍惚とするのです。常に自分に酔っていて、やりきれない気持ちになります。生きているとどんどん図太くなっていって、私はきっと、人を苦しめるだけの存在になります。その予感が、私を希死念慮へと駆り立てるのですが、誰もそんなことは知らないまま、私と付かず離れずの関係を保っていくのでしょう。希死念慮とはべんりな言葉です。死ぬ勇気もなく、漫然と刹那を願う人間にとってこれほど都合の良い日本語は他に存在しないでしょうから。

 遺書を書くなんてばかばかしい。なんて恥ずかしい、醜い行為でしょうか。言葉にするとき、人はかならずどこか、格好つけています。それが浅ましくてしかたないのです。いくら本心と偽ったところで、本心と思われたい虚栄に過ぎないのです。なんて、愚かな。

 けれども、これは遺書なのです。明日からも、私は一個も変わらないまま、しかし少しずつ、大人になってしまうのでしょう。抽象的で、曖昧な話です。私は本日、死ななければなりません。なんだか、日々鈍感になっていくようです。これに書いたことはすべて嘘です、たまには本当のこともあるけれど、それにしたって、フィクションなのです。全部、即興で書いたまがい物です。私の心境も、他の人たちとの会話も、私の脳内でつくりあげた虚構です。そして、私の虚構は、真実よりも、格段に美しいのです。私がとくべつになりたかったということだけが、このなかでたった一つの、本当のことでした。



 夜、自転車を漕ぐと、ライトは心許なく、一メートルか二メートルか、たったそれくらい先を照らすばかりで、私の行く先は、ちっとも明るくなりません。油の切れたタイヤからギー、ギー、と音が鳴って、通りすがりの人々が一瞬、私に視線を投げかけますが、私には彼らのことは見えないので、関係のないことです。はあっと息を吐くと、暗闇のなかに白に近いグレーが浮かび上がってきて、それで私は、よし、とペダルを漕ぐ速度を上げていきます。心臓のあたりが熱いのだか冷たいのだか、ぶるぶると震えています。行きと比べてペダルを踏む足に込める力も大きく、私は自転車を一気に加速させて、変わりかけの信号を通り過ぎます。耳鳴りがして、脈がどくどくと打っている音のほかには、何も聞こえなくなります。

 私は、世界にひとりです。

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